「作ってくれたら売ってあげます」

小型機のPCMには大型機にない問題があった。内臓の制御装置がいろいろ必要なのだ。

内蔵のディスク制御装置は自社で開発できた。問題は通信制御装置と端末の制御装置だった。われわれにはこれらのIBM仕様のものを短期間に開発する力はなかった。ニクスドルフやオリベッティに分担して開発してもらう案を提案したが、色よい返事はもらえなかった。両社とも、

「全部作って下さい。作ってくれたら売ってあげます」

と言う。

アメリカには、これらの制御装置を開発しているメーカーが何社かあったので、そこからの調達を当たってみることにした。

事前に連絡を取った上で、87年の10月にタルサ(オクラホマ州)のテレックス、セント・ポール(ミネソタ州)のコムテン、ソールトレイク・シティー(ユタ州)のビーハイヴを訪問した。永福君と事業部で海外を担当していた石田 滋君に同行してもらい、アメリカに駐在していた木田正彦君に現地で合流してもらった。

各社とも当社の要求に近いものは持っていたが、すぐそのまま使えるものはなく、PCM機の実現は相当難しいということが分かった。

そして何よりも、小型機のビジネスはもうこういう方向ではないんじゃないか、ということを肌で感じた。この世界は汎用コンピュータからUNIX機に変わりつつあった。

そのため、87年の年末から88年の正月にかけてRISCの文献を読み、RISCとUNIXで世の中は変ると確信した。

またニクスドルフは、86年に創業者のハインツ・ニクスドルフ博士が亡くなってから急速におかしくなり、もはやビジネスは期待できなくなっていた。

88年の始めにM-620/630をベースにしたPCM機の検討を打ち切り、RISCの検討を開始した。それについては改めて触れる。


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