PCMに挑戦

ニクスドルフとオリベッティ

当時、大型機、中型機については海外でのPCM(Plug Compatible Mainframe)のビジネスが収益を上げていた。IBM社のシステムのうちCPUだけに日立の製品を使ってもらう商売である。

私が前にいたCPU設計部でもM-240をベースにしたPCM機であるS-5のビジネスが大きな収入源になっていた。

S-5の商売をしている最中に、もっと小さいPCM機がほしいという話が出てきた。

そのひとつはドイツのニクスドルフからだった。1984年9月に同社のPCMビジネスの責任者のワグナーさんが突然来社された。

同社はイスラエルで開発されたPCM機を使って金融などのシステムの商売をしていたのだが、その後継機の調達ができなくなり、日立に後継機の提供を打診してきたのである。

当時日立には小型のPCM機がなかったので、当面S-5を使ってもらうことにし、次期小型機についてPCM版を検討することにした。

もう1社はイタリアのオリベッティだった。同社は日立の大型、中型のPCM機の販売をしていたが、CPUの販売だけでなく、より付加価値の高いシステムの商売に力を入れようとしていた。それに使う小型のPCM機の供給を望んでいた。

当時私は小型機についても輸出ができないものかと考えていた。しかし小型機では、大型機と同じようなCPUだけの商売は難しいと思われた。単価が安いため、営業効率が悪いからである。アメリカには小型機のPCMメーカーが何社かあったが、どこもうまくいってなかった。

小型機ではアプリケーションも含めたシステムとしての商売が必須だった。それにはアプリケーションに強く、海外で強力な販売チャネルを持っているメーカーと組む必要があった。

日立に話を持ち込んだニクスドルフは金融などのシステムに強かった。またオリベッティはイタリアの市場をよく押さえていた。組むならこういう企業がいいと思われた。こっちから押しかけるのではなく、先方から話を持ち込んできたことも有利だった。

システムでの商売に使う小型機がIBMのアーキテクチャでいいかは疑問だった。しかし、ニクスドルフもオリベッティも、ハードウェアやOSは関連製品の品揃えが多いIBMの世界のものを要望していた。IBMとの差別化はアプリケーションに求めていた。

今後の小型機の主力はPCM機ではなくなるかも知れないという心配はあった。すでにUNIXも市場に現れていた。しかし相手がそれを求めている以上、当面はPCM機で実績を築いておくことは意味があるように思われた。いずれにせよ他に提供できるものがなかった。

M-620/630の開発の目処が立つと、輸出の検討にかかった。

1987年5月にミュンヘンのニクスドルフとイタリアのイヴレアという町のあるオリベッティの本社を訪問して先方の意向を確認した。イヴレアは北イタリアの小さな町でオリベッティの発祥の地だった。


次へ       戻る       目次へ         Copyright (C) 2001, Toshinori Sakai, All rights reserved