そんなある日、サンからアンソニー・ウェスト(Anthony West)博士という人がやって来て、同社のRISCであるSPARCの宣伝をしていった。世界中を回ってSPARCの仲間を増やすのがこの人の仕事らしかった。いわばSPARC教の宣教師だった。
この人はその後も何回か来訪し、われわれ関係者がその話を聞いた。
一方日立のコンピュータ部門は当時HPと技術提携を結ぶ話があり、その候補がRISCの技術だった。
私はRISCを進めるに当たっては海外の有力企業と組むべきだと考えていた。自力でRISCを開発するのは容易ではないが、理由はそれだけではなかった。
UNIXのオープンな世界ではプロセッサのメーカーは全世界で3社もあれば充分だろう。そこが全世界にプロセッサを供給することになるだろう。世界の片隅だけのマーケットを対象にして、独自のRISCを開発し生産しても、生産量の差で全世界を相手にする大メーカーには太刀打ちできない。どこかと組んで、製品を分担し、全世界に対する供給基地の一つになるのが進むべき道だと考えていた。
どこかと組むとなると、当時は選択肢はサンかHPかのいずれかしかなかった。IBMもDECもMIPSもまだRISCを発表していなかった。
両社のRISCを比較すると、HPのPA RISCの方が10進数の扱い等、ビジネス向けの用途も考慮してあって、日立の商売には適しているように思われた。
88年6月にコンピュータ事業部の浦城恒雄さん、ソフトウェア工場の八田恒明さん達といっしょに両社を訪問し、最新情報の入手を図った。
サンは、一時ウェスト博士が熱心に同志を募っていたが、もうこの時はその熱が冷めていた。日本でのパートナーはこの時もう既に富士通に決まっていたのかも知れない。
一方、日立の三浦副社長がHPのジョン・ドイル(John Doyle)副社長と非常にいい関係になっていた。技術提携では両社の幹部がいい関係にあることは重要だった。
結局提携先はHPに決まった。
PA RISCのビジネスがどこまで成功するかはまだよく分らなかった。しかし、たとえ将来どうなろうとも、HPのRISC技術の導入により、早く日立のRISC技術の立ち上げを図っておくべきだと考えた。
その後、IBMがPower、DEC (現Compaq)がAlpha、MIPS(現SGI)がMIPSと、各社はいろいろなRISCを発表した。
しかし、その後HPはIntelと組むことになり、Compaqも、SGIもRISCの自社開発を止めた。やはり市場が小さいところは開発費の負担に耐えられなかったのだ。どこかと組むという選択は正しかった。
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