「設計部長の一人や二人いつでも首にできる」

部の名前だけ変えれば片付くのなら話は簡単だ。しかしそうはいかない。DIPSと汎用製品の共通化に向けて、製品開発計画に軌道修正をかける必要があった。

当時はDIPSの小型機は野上康一君という、汎用製品の担当とは別の主任技師が担当していた。しかし、M-620/630の次の製品については汎用製品とDIPSのCPUのLSIを共通化し、装置についてもできるだけ共通化を図ることを考えていた。

そこで、汎用製品担当の永福君にDIPSも含めてまとめてもらうことにし、野上君のところにいたDIPSのCPUの関係者は全員永福君のところに移ってもらった。

そして、汎用製品との共通化については横須賀にあったNTTの通研と何回も打ち合せを行った。汎用製品との共通化を進めるのは基本的にはNTTの方針でもあった。もはやNTTといえども専用のコンピュータをメーカーに作らせる時代ではなくなっていた。

しかし、営業部門からは必ずしも快く受け入れられなかった。彼らから見ると、部の名前を変えたことに始まって、わえわれがどんどんDIPSから遠ざかって行くように見えたのだろう。

ある会合で当時NTT営業本部長だった西田治義さんに、当時のわれわれの対応について散々文句を言われた挙げ句、

「設計部長の一人や二人いつでも首にできる」

と脅かされた。しかし、こんな脅しにひるんでいたら設計なんか務まらない。私は、「もはや時代の流れは変らない。DIPSの世界をいかにして汎用製品の世界にソフト・ランディングさせるかがこれからの課題だ。何と言われようと、今舵を切っておかないと後でみんな困ることになる」と確信していた。

その西田さんは、日立を退職された後、医療関係の会社の社長になられた。後にある会合でお会いした時、

「医者はみんなアップルのパソコンを使ってるんだ。自分も使わないと医者との話が噛み合わないんで、最近使い出したんだ。あれはすごいね。あれを考えた奴は大変な天才だね。いや、もうDIPSなんかの時代じゃないね。ワッハッハ」

と笑われた。

 

ある時ソフトウェア工場で、その工場のDIPS部の設立15周年の式典があり、私も招待された。関連会社も含め、何百人という人が出席した盛大な立食パーティーだった。関連会社の人にこれからも協力をお願いしたいという式典の趣旨が伺えた。DIPSのハードウェアの開発は店じまいにかかっていたが、ソフトウェアの仕事はまだまだあることを実感した。

私は神奈川工場の代表として挨拶させられたが、その後で当時のソフトウェア工場の高須昭輔工場長に、

「何だあの挨拶は!」

と怒られてしまった。

私は、遅かれ早かれ、ソフトウェアにとってもDIPSの時代が終ることを確信していた。パーティーの趣旨は理解し、話し方には気をつけていた積もりだったが、ビールの勢いで口が滑ったのかも知れなかった。

私の考えは間違ってはいなかったのだが、表に出てしまったのは私の稚拙さだった。式典の主催者だったDIPS部の部長の鮫島隆展さんには申し訳なく思った。


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