当時の日立のレーザービーム・プリンタはすべて連続紙に印刷するものだった。一方ゼロックスはカット紙用のプリンタを販売しており、日立もそれに対抗する製品を開発することになった。毎分135ページを両面に印刷するという、当時としては世界最高速のものだった。
開発に当たっては、いわゆる「特研」の体制が組まれ、中央研究所、日立研究所の関係者が動員された。「特研」のメンバーが定期的に勝田市(現 ひたちなか市)の日立工機に集まり、議論を繰り返した。
何故DIPS設計部がレーザービーム・プリンタを担当していたかというと、DIPS用の漢字プリンタの開発からスタートしたからだった。神奈川工場としてはまったく新しい技術への挑戦だったが、DIPS設計部の先輩たちは研究所の力を糾合して、新分野を開拓したのだった。
しかし、今やプリンタの機構部分の開発については日立工機が充分に力をつけ、神奈川工場が口を挟むことはほとんどなくなっていた。
カット紙プリンタの技術的問題は、両面に印刷するため紙を裏返しにする機構の問題とか、まだ紙が熱いうちに裏面にも印刷するためのトナーの問題とか、みんな機構部分の問題だった。これらの問題には、中央研究所や日立研究所の専門家が日立工機の人といっしょになって取り組んでおり、もはや神奈川工場の出る幕はなかった。
しかし、日立工機の権守 博社長や、小林常樹常務の強い要望で、「特研」は形式上神奈川工場が取りまとめる形になっていた。
権守社長は、自ら毎回特研の会議に出席され、みんなの議論をじっと聞いておられた。議論に参加されることはなかったが、会社としていかにこの製品に期待しているかが出席者全員に伝わった。
日立工機の設計者が何回も試作をやり直して苦労していた。少しでもバックアップしようと、会議の後の立食パーティーの席で、私は権守さんに、
「コンピュータ製品の開発には大変な金がかかります」
と申し上げた。前に家電製品を担当されていた権守さんにとっては開発投資の規模は信じ難かったのではないかと思う。
私も毎回特研会議には出席していたが、ほとんど黙って座っていた。ある時、出席されていた中央研究所の所長の堀越 彌さんに言われた。
「もっと発言しないと大物になれないよ」
それはそうかも知れないが、細かい技術的なことが分からないのに、野次馬的発言で専門家の議論の貴重な時間を割く気にはなれなかった。
小林常務の下で、片桐茂暢部長他が大変な苦労をされていた。私はこの人達を影で支える役割に徹しようとしていた。
将来は制御装置も含めて日立工機で担当してもらってもいいと考えていた。ひとつの製品の機構部と制御装置を別会社が担当しているのは不自然だった。そして、神奈川工場には他にやるべきことがいくらでもあった。
日立工機も、日立製作所を通さず直接外部に販売するものについては制御装置の設計を始めていた。私はそれが拡大することをバックアップしようとしていた。
こうして開発された高速カット紙プリンタは90年6月に「H-6286ページプリンタ」として世に出た。
89年8月に、ほかの仕事の関係で、レーザービーム・プリンタの仕事をほかの部に移すことになった。しばらくして、権守社長が私をゴルフに誘って下さった。私はゴルフがあまりうまくないので気が引けたが、せっかくのお誘いなのでお受けした。前日日立工機のクラブで片桐さんらを含めて皆さんと会食し、翌日笠間東洋というゴルフ場で、権守社長、小林常務、コンピュータ事業部でプリンタを担当していた奥平捨男さんとゴルフをした。
ゴルフ場の設備は立派で、天気もよかった。キャディーも美人で、グリーンで球の曲がり方を聞くと、小走りにカップの反対側へ行って、
「酒井様。左でございます」
とか言う。何だか殿様になったような気分だった。
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