悪戦苦闘

 

契約交渉に平行して実際の開発を開始していた。

私の部では、プロセッサの設計のベテランでCMOS LSIの開発も経験していた池田公一君に中心になってもらった。彼はスタンフォード大学に留学していたことがあり、英語が達者だったので、HPのエンジニアとの打ち合せでも得意の英語で力を発揮した。

CMOS LSIの開発は、デバイス開発センタが中心になり、中央研究所、日立研究所の力を借りて、「特研」体制で進めることになった。神奈川工場ではこの時も山際君が中心になった。

デバイス開発センタのセンタ長は田中正美さんで、この人に今回開発するPA RISCのLSIをHARP (Hitachi Advanced RISC Processor)と命名して頂いた。その下では設計部長の喜田祐三さんが、ハワイの契約交渉にも同行し、開発の推進に大変な苦労をされていた。

何せ人が足りなかった。窮余の一策としてアメリカ人を二人契約社員として雇うことにした。アメリカの会社との共同作業なので、みんなにアメリカ人に慣れてもらう必要があることもあった。

一人はオクラホマ大学の出身で、前に日本に滞在していたことがあり、日本語が少しできる人だった。まだ独身だった。ご飯に納豆をかけて食べるのが好きだというので、

「われわれは生卵を入れるよ」

と言うと、

「私も入れます」

という変わり者だった。生卵を食べるアメリカ人は始めてだった。

もう一人はワシントン州立大学出身の人ですでに結婚していた。

当時アメリカの企業では、「日本に学べ!」という気運が高まっていた。HPの工場でも「KANBAN」と書いた紙が貼られていたりした。彼ら二人は日本の会社での勤務経験がひとつのキャリア・パスになると思って日本に来たのではなかろうか。

少しでも人手不足の解消に役立てばと思っていたが、二人とも長続きはしなかった。90年の8月に私が神奈川工場を離れてからほどなくして二人ともアメリカに戻ってしまった。

大型機の設計者にもRISCの開発に参加してもらおうと何回も働きかけたが、なかなかうまく行かなかった。次期大型機の開発に忙しくて余裕がないということだった。しかし、大型機の部隊にとっても将来のRISCの必要性はひとごとではないはずだった。

やっと一人RISCの部隊に移してもらったのは私が神奈川工場を離れるのと同時だった。

そして、HARPの最初のバージョンであるHARP-1を搭載した並列コンピュータSR2001が出荷になったのは4年後の94年だった。


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