おわりに

 

従来から、私といっしょに仕事をしてもらった人には大変な苦労をかけてきた。8500の開発の時も、8350の開発の時も、M-150やM-240の時も、少ない人員、短い持ち時間で過大な期待に対しよく頑張ってもらった。

M-620/630やレーザービーム・プリンタについても同じだった。そして、少しでも仕事をしやすくするために私が心がけたことは、できることとできないことをできるだけ早く見極めることだった。そして、やることとやらないことを旗幟鮮明にして内外に示し、内部の意思統一を図ると共に、内部の人を外部の雑音から守ってあげることだった。

しかし、HARPの開発部隊にかけた苦労は、ほかの比ではなかった。これについては、今までに私が手がけたほかの仕事と違い、私にもまったく成算がなかった。

私の部隊だけではどうすることもできず、全工場をあげて取り組まなければならないことは明白だった。そして、これがビジネスとして立ち上がるのは、たとえうまく行ったとしても相当先になり、私には最後まで見届けられないことも明白だった。

HARPの開発は、第1戦では成功はおぼつかないと思っていた。何せ、まったくの新技術にチャレンジするのだ。そして、開発環境もRISCに適しているとは言えなかった。第2戦か第3戦で成功すれば上出来だと思っていた。ということはHPとの関係をうまく繋いでいくには、今後相当難しい駆け引きが要求されるということだった。

そして、HARPだけ完成すれば済むというわけではなかった。ビジネスとして立ち上げるには、HARPを使った装置の開発も、ソフトウェアの開発も必要だった。

また、RISCが重要だと分かればIBMほかのコンピュータの大メーカーがみんな参入してくるだろう。そうすれば世界の勢力地図も変ってくる。その時HPと組んでいるのがいいかどうかは分からない。状況に応じた柔軟な戦略が要るだろうと思われた。

これらの問題は、すべてあとの人に託すことになるだろうと思っていた。

こういうもろもろの困難が予想されたにもかかわらず、自分の非力も省みずに私がRISCの開発を始めたのは、今着手しないと将来大変なことになるだろうという危機感からだけだった。

問題は多く、平穏なサラリーマン人生の道を選ぶならば、こんなことを始めるべきでないことは分かっていた。険路に引き込んでしまった結果、多くの人を巻き添えにしてしまったことを申し訳なく思っている。

当時から10年以上経ち、世の中も日立の状況もすっかり変ってしまった。しかし、神奈川工場の後身であるエンタープライズ・サーバー事業部は、現在RISCを使った装置の仕事に将来を見いだそうとしている。今迄に散々骨を折ってきた人達の苦労が少しでも報われることを祈るのみである。

 

(完)

2001年8月


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