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モンレアーレ

12世紀のままの「王の山」

パレルモの中心地から、内陸の山の方に向かって8kmほど行ったところにモンレアーレという街がある。イタリア語で「王の山」という意味だ。ここにノルマン人の王グリエルモ(英語ではWilliam)2世が12世紀後半に建てた大聖堂が、当時のままの姿で残っているというので行ってみた。

内装は、全面に金箔が貼られていて、中央のアプス(祭壇がある半円形の空間)の上部にはキリストの上半身が描かれている。アプスは全部で三つあり、その外壁は美しい幾何学模様で飾られている。

これらの点は、パレルモの街にあるパラティーナ礼拝堂とそっくりだ。パラティーナ礼拝堂は、グリエルモ2世の祖父でノルマン王朝の初代の王であるルッジェーロ(英語ではRoger)2世が12世紀前半に建てたという。モンレアーレの大聖堂は、その孫が同じ様式を引き継いでさらに立派なものを建てたのだろう。パレルモの中心地から離れているだけに、建設当時の状況がよく保存されているようだ。

この大聖堂には修道院が隣接していて、立派な回廊がある。それをスケッチした。絵では省略してしまったが、その回廊の柱は、11本違う幾何学模様で飾られている。

大聖堂にも回廊にも、ノルマン様式、ビザンティン様式、アラブ様式が取り入れられているという。私はイスタンブールには行ったことがないが、モザイクや幾何学模様にはビザンティン様式の影響が特に大きいのではないかと思う。いずれにしてもシチリアは、いろいろな文化が混ざって独特な世界を作り上げているようだ。

 

よそ者に支配されてきた国

どうしてシチリアは、このようにいろいろな文化の影響を受けたのだろうか? 調べてみると、ナポリと共に、実にさまざまな勢力に支配されてきたことが分かった。とても詳細は無理だが、その一端をご紹介しよう。

ナポリもシチリアも、紀元前8世紀頃からギリシャの植民地だった。ナポリという名前の元はギリシャ語のネオポリス(新しい町)だという。シチリアにも、いたるところにギリシャの遺跡がある。

5世紀には両者ともゲルマン人の東ゴート族に侵略された。67世紀にはシチリアは東ローマ帝国に支配され、そのため、その頃シチリア島ではギリシャ語が広く使われていたそうだ。幾何学模様やモザイクなどにビザンティン文化の影響が強く残っているのはこのためだろう。

10世紀から11世紀にかけて、シチリアはアラブに支配されるようになり、今でもパレルモにはイスラム風の建物が多く残っている。

そして、12世紀にはナポリもシチリアもノルマン人に征服され、パレルモを首都にするシチリア王国の支配下に入った。

13世紀以降、ナポリとシチリアはフランスのアンジュー家、スペインのアラゴン家、ハプスブルク家、ブルボン家に支配されてきて、1860年にイタリア王国に併合されたという。

このように、ナポリとシチリアはお互いにくっついたり離れたりしながら、ずっとよそ者に支配されてきた。この地方の文化がいろいろな要素を含んでいるのはそのためだろう。

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