フェラーラを出た列車は真っ平らなロンバルディア平原をヴェネツィアに向かう。ヴェネツィアに着いたときは、もう日も暮れて真っ暗だった。
先ずヴェネツィア・メストレ駅に着く。しかし、慌ててここで降りてはいけない。ここを出た列車は、海の上の鉄橋を約10分間走り、終点のヴェネツィア・サンタ・ルチア駅に着く。
そう、ヴェネツィアはまったくの島なのだ。島国ならぬ、「島都市」なのだ。どうしてこんな交通が不便なところに大都会ができたのだろう。
駅へ着いたら、ホテルまでどうやって行ったらいいんだろう。タクシーはないらしい。水上バスでホテルの近くまで行って、あとは歩くのが安そうだが、船着場からホテルまでの道が分らないし、どれぐらいの距離かも分らない。
水上タクシーというのがあるらしいが、金がかかるようだし、だいたいホテルに横付けしてくれるのだろうか? 変な所で降ろされて、あとは歩けと言われても困ってしまう。
列車の中でさんざん迷ったが、夜も遅く、早くホテルに着きたかったので、水上タクシーで行くことにした。タクシー乗り場の船頭に、サン・マルコ広場のそばのホテルの名前を言って、いくらだと聞くと、10万リラ(約5,000円)だという。法外な値段ではなさそうなので、それで行くことにした。
あたりが真っ暗でよく分らなかったが、始めは広い運河を水しぶきを上げてどんどん行った。しばらく行くと、狭い運河に入り、最後の方は、ボートがやっと入れるぐらいの狭い運河を、徐行運転でそろそろと行った。角を曲がる時は船体を岸壁の角に押し当てて、無理矢理方向を変えてボートを進めた。
着いたところはホテルの入口の真ん前だった。ヴェネツィアではホテル等の大きい建物はすべて運河に面しているようだ。何せ、船以外に交通機関がないのだからそうでないと大変だ。重たいスーツケースを引きずって歩く心配はいらなかったのだ。
狭い運河を、苦心惨澹してホテルの前まで送ってくれた船頭さんの苦労に感謝して1万リラ(約500円)のチップを渡した。しかし、彼らにしてみればこんなことは毎日何回もやっている当たり前のことなのだろう。
それにしても、何と交通が不便な町なのだろう。
ヴェネツィアは何とも不思議な町である。
どうして海の中の狭い島に住む必要があるのだろうか?
町の中は、運河と狭い道路が縦横に入り組んでいる。船を通すために橋がみんな中央部分が高く、階段で昇り降りするようになっているため車は通れない。どうして高架の平らな道路を作らないのだろうか? 人の移動は別にしても、商品や建築資材の運搬が全部船では不便で能率が悪いだろう。
塩野七生さんの小説に、ヴェネツィアの歴史を扱った「海の都の物語」というのがある。どうもよく分らないことが多いので、帰国後読み返してみた。
それによるとヴェネツィアは、もともと本土に住んでいた人が、5世紀にフン族やロンゴバルド族に追われて島に住み着いたのだという。好き好んで最初から島に住んでいたわけではないのだ。
当初は、まともな島であるリド島の一部の、マラモッコというところに住んでいたが、9世紀にフランク族の海軍に攻められて、船で一番攻めづらい潟(イタリア語でlaguna、英語でlagoon)の中央の小島が集まったところに逃げ込んだのだという。そこが現在のリアルト橋のあたりだそうだ。
フランク族と戦うと見せかけてそこから船を出し、潮が引き始めると退却し、追って来たフランク族の大きな軍船が干潟で動きが取れなくなると、火矢攻撃を仕掛けて全滅させたのだそうだ。
ヴェネツィアはまともな島ではなかったのだ。そして大量の土砂を運んで埋立て工事ができる時代でもなかった。そこで、仕方なしに、海面すれすれのところに家を建てたのだ。
この本は、木材を埋めて基礎を作り、その上に家を建てた方法を図入りで詳しく説明している。これほど戦争と土木工事が好きな女性は他に知らない。
ヴェネツィア成立の謎は、この本を読んでだいぶ分ったが、それにしても、軍事上の必要性がなくなってもここに住み続けている執念には驚ろかされる。しかしペルージアの人のように1,000年以上も山の上に住んでいる人もいるので、別に驚くには当たらないのかも知れない。
こういうところに住み続けるのは、今後100年経ってもおそらく変わらないのだろう。こういう点についてはイタリア人はおそろしく保守的なようだ。
しかし、現在のヴェネツィアの人口約30万人のうち、島の人口はだんだん減って約10万人で、あとは本土に住んでいるという。やはり島はビジネス活動には不便なのだろう。
ヴェネツィアへ着いた翌日は、先ずホテルに近いサン・マルコ寺院へ行った。その前が広々としたサン・マルコ広場なのだが、何と水浸しだった。
前の日の夜、夕食の後にちょっと来たときはからからだったが、一面に深さ10センチから20センチぐらいの水が覆っている。潮の満ち干で変わったのだろう。
観光客が歩けないので、高さ40センチぐらいの鉄の骨組みの上に、幅1.5メートルぐらいの板を並べて渡してある。観光客はその上を歩いている。板の上は大変な混雑で、容易に前へ進めない。
この鉄骨と板は、水が引くたびに通行の邪魔になるので片付けるのである。毎日大変な手間だ。
昔はこんなことはなかったようだが、いつ頃からこうなったのだろう。運河に面した家を見ると、1階の玄関のドアの下の方が海水で洗われている家や、入口の階段の途中まで水が来ている家が多かった。
地盤が沈下したのだろう。今後どうなってしまうのだろう。
平凡社の「世界大百科事典」によると、ヴェネツィアの水没は、ユネスコやイタリア政府も力を入れている大問題だそうで、地盤沈下防止のため、本土側でも地下水の汲み上げが禁止されているのだそうだ。
事態は相当深刻なようだ。ヴェネツィアへ行くなら早く行った方がいい。そして、サン・マルコ広場は干潮時に行った方が無難である。
ローマは暑くて、半袖のシャツの人も多かったが、ヴェネツィアは天気が悪くて寒かった。日本を出る前にインターネットで温度を調べ、普通のジャケットだけ持って来たが寒くて仕方がない。しょうがないのでリアルト橋のそばのデパートでセーターを買った。同じイタリアでもずいぶん違うものだ。
交通機関はもっぱら水上バスを利用した。3日間乗り放題のチケットが35,000リラ(約1,750円)なので、市内をあちこち行くには便利だ。地元の人も通勤や買物にみんなこれを使っているようだ。
この水上バスで3日間に渡って、アカデミア美術館、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会等を見てまわったが、一番印象に残ったのはスクオーラ・ディ・サン・ロッコである。
この建物は部屋中がティントレットの油絵で飾られていて、いわばティントレットの美術館である。しかし、ティントレットの絵を集めて来て飾ったわけではない。すべての絵はこの建物のためにティントレットが描いたのである。そういう意味では、ヴァティカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロ、フィレンツェのサン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコと同じである。これらと違うのは、ここの絵がフレスコではなくて、カンヴァスに油彩で描かれている点である。
スクオーラというのはキリスト教の活動をしていた市民の組織だという。そして、スクオーラ・ディ・サン・ロッコはヴェネツィアに六つあった大きいこういう組織の一つだという。
この建物はその組織の集会場だったのだろう。そこがティントレットに絵を発注したのだ。従って、絵はすべて聖書を題材にしたものだ。
ここの絵は、1564年から1587年にかけて描かれたという。ティントレットが生まれた年はっきりしないが、1594年に75歳で死んだという記録から逆算すると、1518年か1519年だという。従って、45歳頃から68歳頃にかけて描かれたことになる。円熟期に20年以上、全精力を傾けて描いた作品群といえるだろう。それだけに見ごたえがある。
一番大きい「磔」の絵は幅が12メートルもあり、何十人もの人が描かれているが、その一人一人が立派な肖像画になっているのに驚ろかされる。巨大なエネルギーが充満しているような絵だ。そういう絵が数十枚、壁をぎっしりと埋めているので圧倒される。
アカデミア美術館は満員で30分近く外で待たされたが、ここはあまり人気がないのかがらがらだった。しかし、ヴェネツィアへ行ったらここだけは見逃さない方がいい。
旅行中は毎日イタアリア料理ばかり食べていた。なるべく観光客が行かないような店で、好きな魚介類が食べられそうな店をガイドブックで選んで予約した。ローマでは「アルベルト・チャルラ(Alberto Ciarla)」という店で日本の伊勢エビに近いアラゴスタとガンベリという小型のエビを食べた。フィレンツェでは前に書いたようにムール貝を食べた。
ヴェネツィアの最初の夜は、着いたのも遅く、予約する時間もなかったので、ホテルのそばのレストランに行った。メニューに「エビをオリーブ・オイルとレモンで味付けしたもの」というのがあったので、それを注文した。すると驚いたことに、皿いっぱいの茹でたエビとオリーブ・オイルの瓶とレモンを持って来た。勝手に味をつけて食え、というのである。まったくあきれたものだ。しかし同じ店で頼んだ鰯はちゃんといい味がついていてなかなかうまかった。
同じ店でもこうも違うものかと思った。これでは星の数等つけようがない。こういうバラツキが大きい店は駄目で、何を食べてもうまいのが三つ星レストランかも知れない。しかし、そうは言っても同じレストランでも料理によるバラツキが大きいと思うので、レストランの格付けはあまり当てにしない。
ヴェネツィアでは「ダ・フランツ(Da Franz)」という町外れにある、あまり旅行者が行きそうもないレストランに行ってみた。水上バスを近くの船着場で降りると、住宅街なのか真っ暗で何も分らない。
しかも道路の名前が、地図は「Giuseppe」なのだが現地の表示は「Isepo」と書いてあり、どうも違っているようだ。これは後でレストランで聞いたら同じことなんだそうだ。まったく旅行者泣かせだ。
たまたま女性が一人歩いて来たので、その人に聞いてやっとレストランにたどり着いた。
店は空いていて、常連客らしいのがウェイターと話し込んでいた。
「イタリア語と英語とどっちにしますか?」
と聞くので、メニューが2通りあるのだと思い、
「英語をお願いします」
と言うと、何と書いたものは何もなく、全部口で言うのである。書いたメニューが一応あって、メニューにない本日の特別料理を口で補うのは普通だが、何もなくて始めから全部口で言うのは、言う方も聞く方も大変だ。聞き終わった頃には始めのものは忘れてしまう。
もうエビも貝もいろいろ食べたので、何にしようかと思っていたら、ウナギがあるというのでそれを食べてみることにした。さすがにイタリアだけあって、茹でたウナギをトマトで味付けしたものだった。決してまずくはなかったが、ウナギはやはり日本の蒲焼きの方がうまいと思った。彼らに日本の蒲焼きを食べさせたらどっちがうまいと言うだろうか?
この料理は、このレストランの腕を知る上では、最良の選択ではなかったかも知れない。
スケッチも楽ではない
ヴェネツィアでは見物の合間にスケッチを2枚描いた。1枚はサン・マルコ広場のそばの岸壁から対岸のサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会を描いたものである。( スケッチ 2 )
今にも雨が降って来そうな天気だったので、普段より急いで描いていたら、案の定雨が降り出した。幸いにしてだいたい描き終わっていたので、大急ぎで仕上げた。普通は1時間かけるのだが、この時は40分で描き終えた。最後の方は小雨の中だった。
翌日水上バスでこの教会に行ってみた。塔の上からの眺めがよさそうなので、エレベーターで登った。エレベータを運転していた牧師が、
「もうじき鐘が鳴ります」
と言う。
塔の上で、素晴らしい眺めを見ていると、突然耳元で大音響が響き出した。事前に聞いてなかったら腰を抜かすところだった。
もう1枚のスケッチは、われわれが泊まっていた小運河沿いのホテルを描いたものである。( スケッチ 3 ) これは最終日に空港行きの水上バスに乗る前にちょうど1時間あったので描いたものである。
小運河の岸の幅1メートルぐらいのスペースに座り込んで描いていた。すぐ近くに絵に描いた橋があったが、反対側は運河の上をふさぐように建物が建っていたので、行き止まりだとばかり思っていた。
ところがそこから突然恐い顔をしたおばさんが出て来て、大声で文句を言いはじめたので驚いてしまった。何を言っているのか分らないが、どうも通行の邪魔だからどけと言っているらしい。
行き止まりではなかったのだ。建物の下の高さ1メートルぐらいの隙間をくぐって、ここを通路に使っている人がいたのだ。
驚いてどいてあげたが、ヴェネツィアの裏町では、われわれには信じられないようなところが通路として使われているようだ。
イタリア語をほとんど知らないのでよく分らないが、どうもヴェネツィアには独特の言葉があるようだ。もし見当違いの話があったらご容赦願いたい。
大きい運河は、普通のイタリア語と同じようにヴェネツィアでも「canale」というが、小さい運河は「rio」という。「rio」は「Rio Grande」等で使われるようにスペイン語で「川」だが、現在のイタリア語では「川」は普通「fiume」だ。
裏通りの細い道のことを「calle」というのもヴェネツィア独特のようだ。他の町では「via」とか「viale」が普通だろう。
他の町で「piazza」と呼ばれる広場のことをヴェネツィアでは普通「campo」という。「piazza」と呼ばれているのはヴェネツィアではサン・マルコ広場だけのようだ。ここは別格なのだろう。
元首のことを「Doge(ドージェ)」と呼んだ町は、ヴェネツィアの他にもあるのだろうか?
あまりにも有名な「gondra」はヴェネツィア独特のものだ。
前に書いたように、地図の道路名と現地の表記が違うところがあるようだ。これは「標準語」と「ヴェネツィア語?」の違いかも知れない。
どうもヴェネツィアは地理的にだけでなく文化的にも「島都市」のようである。
旅行先が大都市が多かったせいもあると思うが、予想以上に英語を話す人が多いのに感心した。
イタリアで合計9泊し、6回の夕食を電話で予約した。満席で断られたものも含めると多分10回ぐらいレストランに電話したと思う。そのうち最初に電話に出た人が英語を話さなかったのは1回だけである。それもすぐ英語を話す人と替わってくれたので、英語で話ができなかったのは結局1回もなかった。
ホテルのレストランは1回だけで、あとはもっぱら地元の人が行くような店を選んだが、それでもこんな具合だった。
レストランでも、店屋でもだいたい若い人の方が英語ができる。
フィレンツェのレストランでは、若いウェイトレスは英語でてきぱきと外国人の要求をさばいていたが、年取ったウェイターは外国人に話しかけられそうになると逃げ回っていた。
これは郵便局でも同じだった。窓口の年配の女性に英語で話しかけたら、若い女性が替わって応対してくれた。
外国人に接する機会が多いはずなのに意外と英語が通じないのが鉄道の駅員である。年配の人が多いせいもあるだろうが、聞いていることとまったく関係ない答えが返って来たこともあった。
同じ鉄道でもローマの駅の窓口の若い女性はきちんとした英語を話した。
イタリアでも、英語を使わないと商売にならないという考えが広まっているようだ。商売の道具として若い人は英語を勉強しているのだろう。英語ができない年寄りは取り残されつつあるようだ。
買物をして荷物が増えたので、小包にして日本に送り返そうと思った。ホテルのフロントで聞くと、梱包用の箱と紐を郵便局や文房具屋で売っていると言う。郵便局はリアルト橋のそばにあるという。
そこへ行って聞くと、
「ここにはない、すぐそばの文房具屋で売っている」
と言う。そこへ行くと、そこのおやじは、
「ここにはない、郵便局にある」
と言って、人に腕を取って連れて行こうとするので、慌てて逃げ出した。
あとで、リアルト橋まで行かなくても、ホテルのそばに郵便局があることが分ったので、そこで聞いてみると、やはりないという。
女房が買物をした店の日本人の店員が文房具屋を教えてくれたので、そこへ行ってみたがやはりないという。
仕方がないので、あきらめて、手で持って帰ることにしたが、いったいどうなっているのだろうか? 専用の箱と紐があるという話が間違いで、みんな適当な梱包をして送っているのだろうか? いまだによく分らないが、それにしても、みんな自信満々で教えてくれるのには感心する。
こうもいい加減な話をまともに信用していたら、大変なことになってしまうし、腹が立ってしょうがないだろう。よくもこれで日常生活が成り立ち、平和が保たれているものだと思う。
いや、これは日本人の基準で彼らの話を信用し、腹を立てる方が悪いんだろう。
彼らがいくら自信たっぷりと話しても、簡単に信用してはいけない。そして他人の言うことは間違っている可能性があるという前提で行動し、たとえ間違っていても決して腹を立ててはいけないのだ。
前には仕事でイタリア人と付き合ったことも多く、イタリア人のことを決して悪く言うつもりはないが、イタリア人と付き合うときは、日本人はこれぐらいの考えを持たないとだめだろう。
これは善し悪しの問題ではない。文化の違いである。
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