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ローマ

きれいになったローマ

昨年は、西暦2000年でミレニアムの年だった。そのため、ローマには世界中からキリスト教徒が集まって来ていた。その中には、私のように、キリスト教とは関係ない野次馬も相当いるのだろう。そのためどこも旅行者でいっぱいだった。

それに備えてローマは、大変な金をかけて受入態勢を整えていた。

ヨーロッパ行きの日本航空のスチュアデスが、

「ローマのテルミニ駅は見違えるようにきれいになりました」

と言っていた。私は前のテルミニ駅を知らないので比較はできないが、行ってみると確かに近代的できれいな駅になっていた。

見かけだけでなく、座席指定の予約をするところは、待ち順の番号札を発行機から取って、番号が呼ばれるまで椅子に座って待っていればいいようになっていた。日本の銀行と同じで、長時間立って並ばなくても済む。

外観だけでなく、こういう「しくみ」の面でもよくなっていた。

ローマの空港に着いた時は夜も遅かった。市内へ行くタクシーの窓から見ると、ローマの市街に入る城門やフォロ・ロマーノの遺跡がライトアップされていて大変きれいだった。これは今年だけなのだろうか? それとも今後ずっと続けるのだろうか?

町を歩いていると、そこここの空き地にインフォメーション・センターや医療センターの仮小屋が設けられていて、旅行者の対応に大変な金をかけている様子が伺えた。

 

ローマ人の風呂とは?

私が前にローマに行った時に、非常に不思議に思ったものにカラカラ浴場がある。こんなに馬鹿でかい建物が浴場とは! 現在は天井がないが、昔はどうなっていたのだろう? いったいローマ人にとって風呂とは何だったのだろうか?diocle.jpg (29504 バイト)

そこで、今回はローマに着くと真っ先にテルミニ駅前のディオクレティアヌスの浴場に行った。これもカラカラ浴場と同じように大変大きい建物だが、やはり傷みが激しく、今は天井もなく、昔の姿はよく分らない。

しかたがないので、ガイドブックを買って、帰国後読んでみた。まだ分らないこともあるが、それを読んでだいぶ分った。

ディオクレティアヌスの浴場の敷地は、現在は一部道路等になって狭くなっているが、もとは約14万平方メートルあったという。日比谷公園(約16万平方メートル)に近い広さだ。そして建物は、幅250メートル、奥行180メートルの大きさだったという。日本の国会議事堂の幅が大体200メートルぐらいなので、幅だけでもこれよりひとまわり大きい。

建物の中には、面積が2,500平方メートルという、馬鹿でかい水泳用のプールがあったという。プールの長さは100メートル近くあったようだ。この部分にはもともと屋根がなかった。

この屋外プールの周りには、室内プールとか、冷水の風呂とか、着替え室とか、たくさんの部屋があったようである。その部屋のひとつには床暖房が設けられていたという。大きいサウナ風呂のようなものだったのだろうか?

同時に3,000人が利用できたという。これはカラカラ浴場の2倍だそうである。

また建物の一部には図書館もあったという。

どうもこれは、浴場というよりも、スポーツセンター兼ヘルスセンター兼図書館、言い換えれば、総合レクレーションセンターのようなものだったようだ。ローマ市民にとって最大の娯楽施設であり、また社交場だったのではなかろうか?

前にフランスのアルルに行った時、ローマ時代の遺跡として、闘技場、野外劇場の他に浴場があるのを知って驚いたことがある。ローマ人にとっては浴場は闘技場、劇場とともに、市民生活に必要不可欠な施設だったようだ。

しかし、私にはまだまだ分らないことが多い。この中では水着のようなものを着けていたのだろうか? それとも素っ裸だったのだろうか? そして、男女混浴だったのだろうか? それとも、別々の部屋に別れていたのだろうか? そもそも、女も入れたのだろうか?

ギリシアがお手本

テルミニ駅のすぐ前に、ローマ国立博物館がある。この建物はマッシモ家の宮殿の跡だという。

ここにはローマ時代の彫刻がたくさん陳列されていた。

ローマの皇帝の像が数多く並んでいる。写真で見たことがある円盤投げの選手の像もある。

そしてギリシア神話の神様が大勢いる。展示物についている名前もギリシア神話のゼウス、アフロディテ、ディオニュソス等である。ローマ神話でこれらの神に当たる、ジュピター、ヴィーナス、バッカスではない。私にはギリシアの彫刻とまったく区別がつかない。

あとでガイドブックを見ると、ギリシアの彫刻のコピーも多いようだ。あの有名な円盤投げの選手も、完全な姿をしているものは、紀元前5世紀のギリシアの彫刻を紀元2世紀のローマ人がコピーしたものだという。

ローマ人はギリシアの美術品のコピーから始めたのだ。日本人が中国の作品のコピーから始めたのと同じである。だから、ローマの初期の作品が、素人には、ギリシアのものとまったく区別がつかないのは当たり前なのだ。

多分これは美術の世界だけでなく、文学や哲学の世界でも同じなのだろうと思う。ローマ人にとってギリシア人は先生だったのだ。

前に「プルターク英雄伝」を読んで驚いたことがある。ブルートゥスは、フィリッポイの戦いで敗れて自殺する直前に、ギリシア語で思い出話をしたというのだ。この人はギリシアの詩の暗誦が得意だったという。それにしても、戦場で死ぬ直前にギリシア語で話したということは、普段からギリシア語を自国語と同じように使いこなしていたのだろう。

そしてこの人がギリシア語で話したということは、聞く方もギリシア語が分ったということだ。

プルタークが特別に驚いていないところを見ると、ローマの教養人にとってギリシア語を話すことは当たり前だったのだろう。

ローマの文化はギリシアの文化をお手本にしたものなのだ。ギリシア人の偉大さを、このローマ国立博物館で改めて感じた。

 

天国への階段

ヴァティカンのサン・ピエトロ寺院はミレニアムの来訪者で大変な人だった。18年前にここへ来たときは、1月末の真冬だったせいもあるが、まったく閑散としていた。大変な違いである。mass.jpg (35075 バイト)

胸に、「英語」とか「ドイツ語」とか書いたゼッケンを吊るしたヴォランティアのガイドが大勢いて案内をしていた。

行ったのは木曜日だったが、ミサをやっていた。今年は毎日やっているのだろうか?

ドームの丸い屋根をクーポラというが、その上に登るエレベーターがあったので、登ってみることにした。ところが、エレベータで行けるのはクーポラの半球形の部分の下迄で、そこから上は階段を登らなければならない。

下から見るとたいしたことはなさそうだが、これが大変な長さで、石造りの狭いトンネルのような階段を延々と登らされた。全体の高さが136メートルだというので、この部分だけで40メートルぐらいありそうだ。10階建てのビルと同じぐらいである。

途中で、前を登っていたイギリス人かドイツ人らしい太ったおばちゃんがフーフー言っているので、

「Going to the Heaven.(天国へ行くところだね)」

と言うと、

「Yes. Nearer to the Heaven.(そう、天国が近づいてきたわ)」

と言ってにっこり笑った。

まさに、「天国へ行くのも楽ではない」という感じだった。それを悟らせるためにこういうものを作ったのかも知れない。

しかし、クーポラのてっぺんにたどり着くと、そこからはローマの市街が一望のもとに見渡せて素晴らしい眺めだった。

心臓と脚に問題がない方には、ヴァティカンへ来たらこのクーポラに登ることを是非お勧めしたい。

不便になった(?)ヴァティカン美術館

サン・ピエトロ寺院の隣りにヴァティカン美術館がある。私は前にも見ているし、全部見るのは大変なので、今回は女房にシスティーナ礼拝堂だけ見てもらおうと思った。ところが、そうはいかなかった。

システィーナ礼拝堂はヴァティカン美術館の入口から一番遠いところにあるので、そこまで歩いて行かなければならない。それはしかたがないのだが、今はまっすぐに歩いて行けないのだ。完全に順路が決まっていて、2階に登ったり、1階に降りたりして、途中の部屋を全部見ないとたどり着けないようになっていた。その上、人がいっぱいで速く歩くこともできず、予想外に時間がかかってしまった。

実は私は、システィーナ礼拝堂の隣りにある、「ボルジアの間」というのを見たいと思っていた。塩野七生さんのチェーザレ・ボルジアを取り上げた小説を読んで、この悪徳を極めたルネサンス人に興味を持ったからである。laocoon-l.jpg (19724 バイト)laocoon-r.jpg (19946 バイト)

もっとも、自分の政治目的達成の為の殺人を「悪徳」と言うと、塩野さんには、全然分っちゃいないと言われるかも知れない。私は、チェーザレ・ボルジアに興味を持ったというよりも、こういう、目的の為には手段を選ばず、殺人を平気で行うような男に惚れ込んだ、塩野七生という女性に興味を持ったのかも知れない。

このチェーザレ・ボルジアの父親の法王アレッサンドロ6世が住んでいたという部屋を見ようと思ったのだが、見そこなってしまった。どうも、順路が二つに分かれていたところで、別の方へ行ってしまったようだ。後で気がついたが、大変な人で、流れに逆らって戻るのは到底無理なのであきらめた。

ヴァティカン美術館の入口のところには、新しく食堂やトイレ等が整備されていたが、見たいところだけさっと見たい人にはかえって不便になってしまった。しかし、ミレニアムでやって来る大量の観光客をさばく為には、これもやむを得ないのかも知れない。

ヴァティカン美術館にはローマ時代の彫刻がたくさん陳列されている。私は、彫刻の実物を見るときは、正面からだけでなく、横や後ろからもできるだけ見るようにしている。正面からのものは美術全集でも見られるが、横や後ろからの姿は一般に実物でしか見られず、そこに新発見があることもあるからだ。

例えば、有名な「ラオコーン」を左右両側から見ると写真のように見える。

 

城壁と城門prt-paolo.jpg (29820 バイト)

ヨーロッパの町には、今でも城壁や城門が残っているところが多い。ローマもそうである。このヨーロッパ最古の大都会の城壁や城門はどんなものだったのだろうか? 地下鉄でローマの町の南端のピラミデ駅に行ってみた。

ここには、ローマの南の出入り口であるサン・パオロ門とそれにつながる城壁がよく残っている。空港からタクシーでローマ市内に入る時もここから入った。城門やその隣にあるピラミッドがライトアップされていてきれいだった。

前にローマに来たときに、北端のピンチアーナ門に行ったことがある。その時はこの門のそばのホテルに滞在していた。地図で測ると、これら二つの門の間の距離は3.7キロメートルしかない。新橋から秋葉原ぐらいである。歩いても1時間で行けただろう。全ヨーロッパを支配していた大都会といっても、こんなものだったのだ。

 

ヨーロッパ人にとってのローマ

前にゲーテの「イタリア紀行」を読んだときに、フィレンツェには1泊もせず、さっと見ただけで、ただひたすらにローマにあこがれ、ローマへの道を急いだのに大変驚いた。ゲーテはルネサンスの美術には興味がなかったのだろうか? いや、そうではない。ローマではルネサンスの美術品をずいぶん見てまわっている。

とにかく、1日も早くローマを見たいという気持ちでいっぱいだったのだろう。あこがれのローマが日一日と近づくと、そわそわうきうき、フィレンツェどころではなかったのだ。ヨーロッパの人にとって、ローマはそれぐらい心の奥の重たい存在なのだと思う。

全ヨーロッパがローマ帝国の一部だったこともあるのだ。後にできた「神聖ローマ帝国」はローマとは関係がないのに何故こういう名前になったのだろう? 多分これは「ヨーロッパ統一帝国」というほどの意味だったのだろう。そういう意味では、現在のEUは「新ローマ帝国」と言っていいのかも知れない。今回の「新ローマ帝国」にはローマも含まれている。

しかし、イタリア統一後、1871年にローマに首都が定められたときには、ローマは廃虚に近い荒れようで、市内を羊がさまっていたという。

そうかも知れない。4世紀に西ローマ帝国の首都がミラノに移って以来、ローマは法王の門前町で、政治や経済の中心ではなかったのだ。新しくイタリアの首都になるまでに、教会関係の建物は別にして、約1,500年間のブランクがあったのだ。

現在大統領官邸に使われているクィリナーレ宮も、国立博物館に使われているマッシモ宮も、美術館に使われているバルベリーニ宮もすべてローマ法王の棲家だったのだ。そしてトレヴィの泉もナヴォーナ広場もローマ法王が作らせたものだという。

古代ローマと法王の門前町とイタリアの首都と三重構造の町。それがローマだ。


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