ヨーロッパの町で、場所も価格も適当なホテルを予約するのはなかなか難しいことがある。そのため、ホテルはかなり前から予約していた。ところが出発間際になって、フィレンツェのホテルがダブルブッキングで駄目になったと旅行会社から連絡があった。
代わりのホテルを捜してもらったが、適当なのがなく、部屋が小さく、バスタブも半分の部屋にしか付いてなく、あとの部屋はシャワーだけというホテルしか取れないという。しかたがないので、小さい部屋で我慢することにし、バスタブ付きの部屋を頼んだが、それも保証できないという。
どうしてそんなに混んでいるのかと聞くと、何か催し物があるらしいが、何かは分らないと言う。
電話で何回も聞いていたら、そのうち、
「分りました。だけど読めません」
と言う。いったい何だろうと思っていたら、そのうちに、
「分りました。テンカンの学会だそうです」
と言う。「癲癇」をちゃんと読めた人が近くにいたらしい。
この学会のために、フィレンツェ中のホテルの値段が上がってしまい、予約も難しくなってしまったのだ。変なものにぶち当たってしまったものだ。
しかしフィレンツェ市内のホテルを取れた人はまだいい。昼食を摂ったレストランでたまたま隣り合わせた、ツアーで旅行中の日本人のカップルは、市内に宿泊できず、車で1時間近くかかるところに泊まらされていると言っていた。
われわれが泊まったホテルは、確かにスーツケースを広げると足の踏み場もないほど狭かったが、駅のすぐそばで交通の便は非常によかった。ローマからフィレンツェに移動する日の朝、ローマのホテルから電話を入れて、バス付きの部屋を頼んでおいたらそうしてくれたので助かった。やはりバスに浸かった方が疲れが取れる。
フィレンツェへ着いた次の日は、何はともあれ先ずウフィッツィ美術館へ行こうと思った。フィレンツェは小さな町で、ホテルから美術館までたいした距離はないので町を見ながら歩いて行くことにした。
ローマは快晴で暑く、半袖のシャツの人も大勢いたが、フィレンツェは雨で肌寒かった。大変な違いだった。
途中にドゥオーモの大きい建物があった。この建物は、表側は最近清掃したのかきれいだったが、裏側はきたなく、足場が組んであった。現在お化粧の途中なのだろう。
私は、あまりにきれいにしたものより、古びていて歴史を感じさせるものの方が好きなのだが、ここの人にはそうもいかないのだろう。何せ歴史的建造物であると同時に現役の教会でもあるのだ。
ウフィッツィ美術館の前には、驚いたことに、大変な行列ができていた。聞くと、中に入るまでに2時間はかかるという。パリのルーブル等いつもがらがらのようだが、これはまた何としたことだ。
あとでフィレンツェのレストランで働いている日本人の女性に聞いたら、混むときは混んでいるが、そのうちがらがらに空いてしまうという。やはりシーズンによるようだ。
美術館の人に聞くと、前売券があって、それを持って指定された時間に来ればすぐ入れてくれるという。仕方がないので前売券を買って次の日に見に来ることにした。
翌日はピサに行き、夕方ピサから帰ったあと再度ここに来た。その日も行列ができていたが、前売券を持っていたのですぐ入れてくれた。
美術館の中も人でいっぱいで、ゆっくり見られなかった。落ち着いて見ることができないので、ボッティチェリとラファエロとティツィアーノだけしっかり見てあとはざっとしか見なかった。
もっと空いているときに来て、ゆっくり見たいものだと思った。前売券で美術館を見たのは始めてである。
ウフィッツィ美術館が満員で入れなかったので、サン・マルコ修道院にフラ・アンジェリコの壁画を見に行った。フラ・アンジェリコはこの修道院の修道僧で、廊下や各個室(英語でcell)の壁にフレスコを描いたという。
個室が並んでいる2階の廊下に、有名な「受胎告知」がある。受胎を告げる天使は何という穏やかな顔をしているのだろう。まるで東洋の仏像のようだ。これが描かれたのは15世紀の半ばだということだが、中世の絵には見られない人間らしい表情を見ることができる。そして全体の淡い中間色は日本画を思い起こさせる。
43ある個室には一つずつフレスコが描かれている。キリストの生涯のいろいろな絵であるが、磔にあって心臓から血が吹き出ている絵が多い。修道院の個室では昼だけ修行していたのか、夜も寝泊まりしていたのか、私は知らないが、血が吹き出ているキリストの絵を朝晩見て暮らした修道僧はどんな気持ちだったのだろうか?
15世紀の末にはサヴォナローラがここの修道院長を務めていたという。メディチ家やローマ法王を非難する激烈な説教をして、最後にはウフィッツィ美術館の前のシニョリーア広場で火刑に処せられたという男である。このサヴォナローラの部屋が現在もちゃんと残っている。
あの穏やかなフラ・アンジェリコの天使の顔を毎日見て暮らした男が、火のような説教をして最後は火あぶりになったとは、どう考えたらいいのだろうか? 日本でも、毎日仏像を眺めていたはずの坊主が、謀反を企てて島流しになっているのだから、別に驚くことはないのだろう。
「芸術の無力」を感じざるを得ない。
サン・マルコ修道院のあと、メディチ家代々の当主が葬られているメディチ家礼拝堂に行った。石棺を飾るミケランジェロの彫刻が有名なところである。
写真では見たことがあったが、男女の裸像を間近に見ると、実物よりはるかに大きく、すごい迫力である。
特にジュリアーノ・デ・メディチの棺の上に横たわる裸婦はスポーツ選手のように筋肉が盛り上がり、腹のところの筋肉が何段にもくびれて、いわゆる三段腹になっている。そういう意味では元スポーツ選手と言うべきかも知れない。棺の上にこんな女に寝そべられて、ジュリアーノさんはどんな気持ちなのだろう?
男の裸像にはどれにも、股間の「いちもつ」の克明な複製がついている。ここのものに限らず、ミケランジェロのダヴィデ像を始めみんなそうだ。東洋人とはちょっと感覚が違う。これも元はギリシアの文化だ。
店屋でこの部分の拡大写真を集めて1枚に印刷した絵葉書を売っていた。まさにチン列である。真ん中に、ひときわ大きいダヴィデの「もの」があって、赤い丸で囲んで「Wow! David!」と書かれていた。
買って帰ろうかと思ったが、女房や娘がコ―フンすると困るのでやめた。英語で書かれていたのは、こんなものを喜んで買うのはアメリカ人ぐらいということだろうか?
ミケランジェロの彫刻は、人物というより物理的な物体の複製としての見事さでわれわれを感嘆させる。ダヴィデの筋肉には静脈が走り回っているのを始めて知った。
私が好きな網干啓四郎さんという画家はイタリアが好きで、毎年のようにイタリアへスケッチ旅行に行かれる。この方が描かれたイタリアの古い街並みのスケッチを見て、私もこういう絵を描きたいと思っていた。
アッシジにも、ペルージアにも、フィレンツェにも、絵に描きたい古い街並みが残っていた。煉瓦が剥げた壁、石が崩れかけた門、擦り減った石畳の道。何百年も経った建造物が、特別な史跡としてでなく、ごく当たり前のように生活に供されているのは日本では考えられない。
フィレンツェで、女房が買物をしている間に、ドゥオーモの広場から1本裏通りに入ったところをやっと1枚描くことができた。 ( スケッチ 1 )
フィレンツェは、例のテンカンの学会のためか、ホテルだけでなくレストランも混んでいた。
東京にも何軒かあるサバティーニで食事をしようとしたが満席で予約できなかった。
ホテルのそばのレストランのパスタがうまいとガイドブックに書いてあったので行ってみたが、予約してなければ駄目と断られた。いあわせた若い4人連れは、女2人は予約していたが、男2人が予約していなかったので入れてもらえなかった。どうもその辺で知り合ったばかりのようだった。
ホテルの部屋から、なるべく地元の人が行きそうな、うまいものが食べられそうなレストランに片っ端から電話したところ、「Ostaria dei Cento Poveri (百人の乞食の食堂)」という変わった名前のレストランで10時からの席がやっと取れた。行ってみると超満員で、隣りの席では地元の若者達が、もう相当アルコールも回って大騒ぎをしていた。名前の通り大衆的だった。
魚介類の料理が得意なようなので、ムール貝を頼んだ。スープがうまかったので、一滴も残さずパンで拭いて食べた。
厨房で東洋人の女性が働いていたので、英語を話すウェイトレスに、
「あそこで働いている東洋人の女性は日本人ですか?」
と聞くと、やはりそうで、仕事が終わってから席に呼んでくれた。
日本で銀行に勤めていたが、辞めてここに来たんだという。厨房の仕事は忙しくて大変だと言っていた。われわれの娘も1年間フランスのケーキ屋で住み込みで働いていたので、大変なことはよく分ると話した。
日本にご両親がいるのだが、電話は高く、郵便は非常に時間がかかるので、滅多に連絡してないと言う。そこで、女房が電話番号を聞いて、帰国後お母さんに電話をかけて様子を伝えてあげた。突然知らない人から電話がかかってきてさぞ驚かれたと思うが、話を聞いて、安心して喜んで頂けたようだ。
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