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ヨーロッパ今昔シリーズ (4)

ウィーン今昔

酒井 寿紀

はじめに

この「ヨーロッパ今昔シリーズ」を始めたいきさつについては「パリ今昔」の「はじめに」をご覧下さい。

なお、現在の写真は「パリ今昔」等と同様にすべてGoogleのStreet Veiwによるものです。

新旧対比表

No. 約100年前(1900~1920年頃?) 現在(2020年)
1

 シュテファン大聖堂 (Stephansdom)
 ウィーンの街の中央にそびえ立つ、ウィーンのシンボル的存在。
 当初12世紀に建てられたが改築されて、現在の建物は14世紀に建築されたものだという。

2

 シュテファン広場 (Stephansplatz)
 
No. 1の大聖堂の前の広場。
 大聖堂の手前に隣接している小屋風の建物も100年前のまま。

3

 グラーベン通り (Graben)
 道路中央の二つの彫像は昔のまま。
 昔は馬車が走っていたが、現在は歩行者専用のようだ。

4

 ケルントナー通り (Kärntnerstraße)
 リンク通り側のケルントナー 通りの入口。通りの先にシュテファン大聖堂の尖塔が見える。
 左手前の建物は国立歌劇場。右手前の建物はホテル・ブリストル。
 古い写真のホテル・ブリストルは1913年の改築の前のものであろう。     

5

 ウィーン国立歌劇場 (Staatsoper)
 手前を左右に走っているのがリンク通り(昔の城壁の跡)。
 右手を奥に向かうのがケルントナー通り。100年ほど前には路面電車が走っていたようだ。     

 旧王宮 (Hofburg)
 ハプスブルク家の旧王宮。

 1725年から計画があったが、実際に着工したのは1890年頃だという。
 現在はミヒャエル宮殿とも呼ばれている。

 旧王宮の両サイドの彫像  ("Die Macht Zur See"," Die Macht zu Lande")
 1890年代に造られた彫像。
 左が「海の力」、右が「陸の力」。海軍力と陸軍力を誇示したのだろうか?

       

 英雄広場と新王宮 (Heldenplatz & Neue Burg)
 古い写真は英雄広場で、新王宮はまだなかったのだと思われる。
 新しい写真の(上)は英雄広場と新王宮の左端、(下)は新王宮を英雄広場から見たもの。
 新王宮は1913年に完成したが、オーストリア帝国は1918年に消滅し、
 その後は武器や古楽器の展示場として使われている。

 

 ブルク劇場 (Burgtheater)
 
手前を左右に走るのがリンク通りで、この通りを挟んで市庁舎(No. 13)と相対している。
 古い写真は市庁舎の塔から撮ったものと思われ、遠方にシュテファン大聖堂の尖塔が見える。
 元は王宮内にあったが、1888年にここに移された。
 1945年に爆撃と火災で大破したが、1955年に修復が完了したという。

10

 キュンストラーハウスと楽友協会 (Künstlerhaus & Musikverein)
 右の建物は楽友協会。毎年元日にニューイヤー・コンサートが開催されるところ。
 私はここで、モーツァルトの時代のコスチュームで演奏するコンサートを聴いたことがある。
 左の建物は1868年に完成したキュンストラーハウス(芸術家の家)。
 絵画や彫刻を展示していたが、21世紀に入ってこの建物は現在改築中。

11

 マリア・テレジア広場 (Maria-Theresien-Platz)
 1890年前後にリンク通りを挟んで王宮と相対するところに建設された。
 中央にマリア・テレジアの像があり、没後も王宮ににらみをきかせているように見える。
 現在の写真の左手の建物は美術史博物館、右手は自然史博物館。 

12

 美術史博物館 (Kunsthistorisches Museum)
 周りの樹木が育った以外は100年前と変わってないようだ。
 ハプスブルク家が所蔵していた多数の絵画が展示されている。
 マリア・テレジア像の反対側には同じデザインの自然史博物館(Naturhistorisches Museum)がある。

13

 市庁舎 (Rathaus)
 リンク通り沿いの市庁舎広場に1872年~1883年に建てられたもの。
 2012年~2023年の予定で現在改修中。正面の塔に足場が組まれている。
 冬場は前庭が屋外スケート場として使われているようだ。

14

 ウィーン大学 (Universität Wien)
 
元は街の中心部にあった。
 しかし、1857年からウィーンの城壁が撤去され、その跡にリンク通りが建設されると、
 リンク通りに面して1877年~1884年にこの大学本部が建てられた。

15

 シェーンブルン宮殿 (Schloss Schönbrunn)
 ウィーンの中心部から南西に5kmほどのところにあるハプスブルク家の夏の離宮。
 女帝マリア・テレジアの時代の1740年~1750年頃建設された。


おわりに

ウィーンは二重の城壁に囲まれてていた

ウィーンの中心部は、リンク通りという幅の広い立派な環状道路で囲まれている。この道路は城壁の跡を利用して建設されたものである。(No. 5, 9, 14参照)

ウィーンは1529年と1683年の2度にわたってトルコ軍に攻められたため、堅固な城壁で防備を固めた。私は20年以上前にウィーン市の歴史博物館で、当時の城壁の模型、血染めの軍服や軍旗、破損した武器等を見て、当時の防備の厳重さと戦闘の激しさに驚いた。かつてはウィーンの街全体が要塞そのものだったのだ。この博物館は現在は休館中のようだが、再開したら、ウィーンの歴史に関心のある方には是非ここを訪れることをお薦めしたい。

1704年にレオポルト1世によって、この城壁の外側に「リーニエンヴァル(Linienwall)」という頑丈な土塁が建設された。リーニエンヴァルは高さ、幅とも4mあり、長さは13.5kmあったと言われている。こうしてウィーンは二重の城壁で厳重に守られていた。

こういう城壁は19世紀に入って必要がなくなり、1857年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が内側の城壁の撤去を命じた。その跡に作られたのがリンク通りだ。リーニエンヴァルも1873年には取り崩され、その跡に「ギュルテル(Gürtel)」と呼ばれる環状道路が建設された。

ウィーンはパリと同じように、時計回りに渦巻き状に番号が付けられた地区に分けられていて、現在は第1区から第23区まである。概略を記すと、第1区はリンク通りの内側で、第2区~第9区はその外側でギュルテルの内側、第10区以降はさらにその外側の郊外になる。

前記の「新旧対比表」のNo. 1~No. 9の建物はリンク通りの内側(第1区)にあり、No. 10~No. 14はリンク通りの外側でギュルテルの内側にある。大きな広場や博物館、市庁舎や大学は、ほとんど19世紀後半以降ここに作られたものだ。No. 15のシェーンブルン宮殿だけはギュルテルのさらに外側の第13区にある。

増築に増築を重ねた王宮

現在の王宮の場所にオーストリアの支配者が住み着いたのは13世紀だという。

王宮の建物は当初は少なかったがその後増築が進み、現在は16を数えるようになった。初期には建物同士が離れていた時代もあったが、その後の増築で建物が相互に接続され、現在は16の部分からなる一つの巨大な建造物になっている。それを構成する各建物は「翼(ヨク、ドイツ語でTrakt、英語でWing)」と呼ばれている。

一番古い建物は「スイス翼」で13世紀からあったという。写真No. 6の旧王宮やNo. 8の新王宮は「翼」の一つだ。その他の翼には、舞踏会用、祭式用、図書館用等がある。

古い建物を撤去して新しい建物を同じ場所に建てずに、次々と新しい建物を増築したところに日本の文化との違いを感じる。この違いの原因は石造と木造の違いだけなのだろうか?

当初はスイス翼しかなかったので、初期のハプスブルク家はここで暮らしていたのだろう。しかし 旧王宮が完成したのは、本文にも記したように19世紀末頃だというので、その時は築後600年も経っていたのだ。それまで王族の人々は、マリア・テレジアやマリー・アントワネット、フランツ・ヨーゼフ1世を含めて、どの建物で生活していたのだろうか? 

マリア・テレジアが1741年にヨーゼフ2世を出産したのはシェーブルン宮殿だという。そして、マリア・テレジアが1762年に初めて6歳のモーツァルトに会ったのもこの宮殿だと言われる。また、フランツ・ヨーゼフ1世は生まれたのも死んだのもここだそうだ。

従って、シェーンブルン宮殿ができてからはこの宮殿にいることが多かったのかも知れないが、依然として疑問は残る。この疑問は資料が少なくてよく分からないので、今後の課題にしたい。

 

 (完) 2021年2月26日


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