ヨーロッパ今昔シリーズ (4)
ウィーン今昔
(rev.
1)
酒 井 寿紀
はじめに
この「ヨーロッパ今昔シリーズ」を始めたいきさつについては「パリ 今昔」の「はじめに」をご覧下さい。
なお、現在の写真は「パリ今昔」等と同様にすべてGoogleのStreet Viewによるものです。
新旧対比表
No. | 約100年前(1900~1920年頃?) | 現在(2020年) |
1 |
シュテファン大
聖堂 (Stephansdom) |
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2 |
シュテファン広場 (Stephansplatz) |
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3 |
グラーベン通り (Graben) |
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4 |
ケルントナー通り (Kärntnerstraße) |
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5 |
ウィーン国立歌劇場 (Staatsoper) |
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6 |
旧
王宮 (Hofburg) |
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7 |
旧
王宮の両サイドの彫像 ("Die Macht Zur See"," Die Macht zu
Lande") |
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8 |
英
雄広場と新王宮 (Heldenplatz & Neue Burg) |
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9 |
ブルク劇場 (Burgtheater) |
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10 |
キュンストラーハウスと楽友協会 (Künstlerhaus &
Musikverein) |
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11 |
マリア・テレジア広場 (Maria-Theresien-Platz) |
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12 |
美術史博物館 (Kunsthistorisches
Museum) |
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13 |
市庁舎 (Rathaus) |
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14 |
ウィーン大学 (Universität
Wien) |
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15 |
シェーンブルン宮殿 (Schloss
Schönbrunn) |
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おわりに
ウィーンは二重の城壁に囲まれてていた
ウィーンの中心部は、リンク通りという幅の広い立派な環状道路で囲まれている。この道路は城壁の跡を利用して建設されたものである。(No. 5, 9, 14参照)
ウィーンは1529年と1683年の2度にわたってトルコ軍に攻められたため、堅固な城壁で防備を固めた。私は20年以上前にウィーン市の歴史博物館で、当時 の城壁の模型、血染めの軍服や軍旗、破損した武器等を見て、当時の防備の厳重さと戦闘の激しさに驚いた。かつてはウィーンの街全体が要塞そのものだったのだ。 この博物館は現在は休館中のようだが、再開したら、ウィーンの歴史に関心のある方には是非ここを訪れることをお薦めしたい。
1704年にレオポルト1世によって、この城壁の外側に「リーニエンヴァル(Linienwall)」という頑丈な土塁が建設された。リーニエンヴァルは高 さ、幅とも4mあり、長さは13.5kmあったと言われている。こうしてウィーンは二重の城壁で厳重に守られていた。
こういう城壁は19世紀に入って必要がなくなり、1857年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が内側の城壁の撤去を命じた。その跡に作られたのがリンク通りだ。 リーニエンヴァルも1873年には取り崩され、その跡に「ギュルテル(Gürtel)」と呼ばれる環状道路が建設された。
ウィーンはパリと同じように、時計回りに渦巻き状に番号が付けられた地区に分けられていて、現在は第1区から第23区まである。概略を記すと、第1区はリンク 通りの内側で、第2区~第9区はその外側でギュルテルの内側、第10区以降はさらにその外側の郊外になる。
前記の「新旧対比表」のNo. 1~No. 9の建物はリンク通りの内側(第1区)にあり、No. 10~No. 14はリンク通りの外側でギュルテルの内側にある。大きな広場や博物館、市庁舎や大学は、ほとんど19世紀後半以降ここに作られたものだ。No. 15のシェーンブルン宮殿だけはギュルテルのさらに外側の第13区にある。
増築に増築を重ねた王宮
現在の王宮の場所にオーストリアの支配者が住み着いたのは13世紀だという。
王宮の建物は当初は少なかったがその後増築が進み、現在は16を数えるようになった。初期には建物同士が離れていた時代もあったが、その後の増築で建物が相互 に接続され、現在は16の部分からなる一つの巨大な建造物になっている。それを構成する各建物は「翼(ヨク、ドイツ語でTrakt、英語でWing)」と呼ば れている。
一番古い建物は「スイス翼」で13世紀からあったという。写真No. 6の旧王宮やNo. 8の新王宮は「翼」の一つだ。その他の翼には、舞踏会用、祭式用、図書館用等がある。
古い建物を撤去して新しい建物を同じ場所に建てずに、次々と新しい建物を増築したところに日本の文化との違いを感じる。この違いの原因は石造と木造の違いだけ なのだろうか?
当初はスイス翼しかなかったので、初期のハプスブルク家はここで暮らしていたのだろう。しかし 旧王宮が完成したのは、本文にも記したように19世紀末頃だというので、その時は築後600年も経っていたのだ。それまで王族の人々は、マリア・テレジアやマ リー・アントワネット、フランツ・ヨーゼフ1世を含めて、どの建物で生活していたのだろうか?
マリア・テレジアが1741年にヨーゼフ2世を出産したのはシェーブルン宮殿だという。そして、マリア・テレジアが1762年に初めて6歳のモーツァルトに 会ったのもこの宮殿だと言われる。また、フランツ・ヨーゼフ1世は生まれたのも死んだのもここだそうだ。
従って、シェーンブルン宮殿ができてからはこの宮殿にいることが多かったのかも知れないが、依然として疑問は残る。この疑問は資料が少なくてよく分からないの で、今後の課題にしたい。
(完) 2021年2月26日
(rev. 1) 2023年5月3日