ヨーロッパ今昔シリーズ (12)
ブリュッセル今昔
酒井 寿紀
はじめに
この「ヨーロッパ今昔シリーズ」を始めたいきさつについては「パリ今昔」の「はじめに」をご覧下さい。
「現在」の写真はすべてGoogleの "Street View" によるものです。
「約100年前」の写真はすべて当時の写真集から取ったものです。
新旧対比表
No. | 約100年前(1900~1920年頃?) | 現在(2010~2020年頃) |
1 |
市庁舎 (Hôtel
de ville) |
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2 |
王の家 (Maison
du Roi) |
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3 |
グラン=プラス 北側 (Grand-Place
North Side) |
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4 |
グラン=プラス 南側 (Grand-Place
South Side) |
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5 |
ブリュッセル証券取引所 (Bourse
de Bruxelles) |
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6 |
モネ劇場 (Théâtre
Royal de la Monnaie) |
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7 |
聖ミカエルと聖グドゥラ
大聖堂 (Cathédrale
Saints-Michel-et-Gudule) |
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8 |
王宮 (Palais
Royal) |
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9 |
ブリュッセル最高裁判所 (Palais
de Justice de Bruxelles) |
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10 |
サンカントネール凱旋門 (Arc
du Cinquantenaire) |
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11 |
アル門 (Porte
de Hal) |
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12 |
ロジエ広場 (Place
Rogier) |
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13 |
旧
ブリュッセル北駅 (Old
Gare de Bruxelles-Nord) |
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14 |
新
ブリュッセル北駅 (New
Gare de Bruxelles-Nord) |
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なし |
おわりに
ベルギー及びブリュッセルの歴史について私見も交えて若干補足しておく。
ベルギーは新興国!
1815年にナポレオンがこの地方(ネーデルラント)から撤退して以来、ここはハプスブルク家が支配していた。しかし、1830年にフランスで7月革命が起きると、南ネーデルラントの住民はハプスブルク家の専制支配に反旗を翻し、ベルギー国が建国された。
従って、ベルギーは歴史がまだ200年にならず、アメリカ合衆国等より若い。シャルルマーニュもこの付近の出身というが、近代国家として成立したのはつい最近なのである。日本等と比較にならないほど若い国だ。
ブリュッセルは多言語混在都市
ネーデルラントから独立を勝ち取ったベルギーの南半分では主にフランス語が使われ、北半分では主にオランダ語が使われ、ブリュッセル近辺の中央部では両言語が使われている。国が付いたり離れたりするときは民族や言語ごとにまとまるのが一般的なので、そういう意味ではベルギーのオランダ語圏はオランダと一緒になるのが普通だったのかも知れない。
そうならなかったのはハプスブルク家の専制支配に対する反発が強く、オランダと違いカトリックの信者が多かったためという。宗教や宗派の違いが国境線の確定に決定的役割を演じたところは日本の歴史とはだいぶ違うようだ。
なかでもブリュッセル付近では両言語が併用され、役所の窓口や教育機関は両言語用に別の組織が用意されているという。
ベルギー王は「雇われ国王」
ヨーロッパの列強がベルギーの独立を承認した時、その国王をどうするかが問題になった。すでに、アメリカ合衆国等、国王をいただかない国があったのに、なぜそいう選択肢が検討されなかったのかは分からない。大議論の結果、後のジョージ5世、エリザベス2世等のイギリス国王の先祖になるドイツ系の貴族の一員が選ばれ、ベルギー王「レオポルド1世」になった。
この人はベルギー国王となることを当初ためらっていたようだ。突然、民族も、言語も、宗教も違う国の国王になってくれと頼まれたのだから当然であろう。
社内に次期社長の適切な人材がいない時、社外から「雇われ社長」を迎えることがある。レオポルド1世は言わば「雇われ国王」だったのだ。この人は同じ「雇われ国王」でも 、イギリスのような歴史ある大国の国王の座を期待していたのかも知れない。大会社の社長の座を狙っていたのに、新興の小企業の社長になれと言われたように感じたのかも知れない。
国王がブリュッセルの王宮に住まなかったわけは?
レオポルド1世はベルギー王就任後、ブリュッセルの王宮(No. 8)には住まず、ブリュッセル郊外の別の王宮に住むことにした。何故だろうか?
オランダ王ウィレム1世の時代に、ブリュッセルはオランダの第2の首都になり、現在の王宮や関連施設が整備された。しかしウィレム1世はオランダ語教育の推進、プロテスタントの優遇等で、後にベルギーとなった南部地方の不評を買い、ベルギーはオランダから独立することになった。しかし、1830年の独立後もウィレム1世はそれをなかなか認めようとせず、ウィレム1世が最終的に独立を認めたのは1839年になってからだった。
そういう経緯があったために、レオポルド1世はウィレム1世の息のかかったブリュッセルの王宮を嫌い、郊外の別の王宮に住むことにしたのかも知れない。
レオポルド1世は1865年に死去し、息子のレオポルド2世が跡を継いだ。この国王は父親と違い、ブリュッセルの王宮の整備に力を入れたが、やはり公式行事に使っただけで、ここには住まなかった。それは今日に至るまで続いている。
(完) 2021年12月21日