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御 坊 と 御 所

酒 井 寿 紀

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目  次

御   坊

1. はじめに

2. まず小学校が見つかる

3. 酒井家の墓と対面

4. 英語を習ったという寺も見つかる

御   所

1. はじめに

2. 御所再訪

3. ノミの出た家


御   坊

 

 

1. はじめに

 

私の母方の祖父である亀久次郎(きくじろう)は和歌山県の御坊の出身である。しかし私はそこに一度も行ったことがなかった。いや私だけではない。父も多分一度も行っていない。母も、行ったとしても、大阪に住んでいた子供の頃、1、2度行った位だろう。それどころか、祖父自身も、二十才前に大阪に出てしばらくしてからは、ほとんど御坊に戻ったことがないようだ。何しろつきあいのある親類縁者が、御坊にまったくいなくなってしまったのだから仕方がない。

祖父からも、子供の時の話をほとんど聞いたことがなかった。作り酒屋だったが、酒を腐らせてつぶれてしまったとか、酒屋だけに、5、6才の頃から酒を飲んでいたとか聞いた位である。

しかし祖父は、「亀の歩み」という書き物を残しておいてくれた。これを読んで初めて、子供の頃の御坊での様子を少し知ることができた。そして、一度どんなところか行ってみたいものと思っていた。

しかし、昔住んでいたという所が分かるだろうか? 何せもう100年近く経っているのだ。そのうえ、手がかりがまったくない。

「亀の歩み」には、昔住んでいた家の周りの図が描いてあるのだが、家の近くに、村道と、小川と、桜の木と柳の木が描いてあるだけで、これだけではどうしようもない。ところがもう1枚の図を見ると、近所に「往生寺」という寺が書いてある。これはもしかしたら手がかりになるかも知れないと思い、御坊市の地図を本屋で取り寄せてもらって調べると、そういう名前の寺が見つかった。

これは是非一度行ってみたいものだ、と思っていた。

93年11月某日女房と二人で思い切って出かけることにした。

何か見つかるという期待もあまりなかったため、和歌山市と白浜で一泊し、途中御坊に立ち寄るという、遊び半分の旅行だった。

 

 

2. まず小学校が見つかる

 

「亀の歩み」によると、祖父は「小松原小学校」という学校に通っていたとのことである。例の手書きの地図にその場所が描いてあるのだが、家からの距離はまったく分からず、鉄道もなかった時代なので、近くに目安になるものが何も描いてない。家からの方角を頼りに、御坊の地図で捜してみたが、そういう名前の学校は見つからない。そのあたりの小学校としては、「湯川小学校」というのがあるだけである。

御坊の駅からの道順としては、この湯川小学校が、例の往生寺へ行く途中になるので、何か手がかりがあるかも知れないと、先ずこの小学校に行ってみることにした。

御坊の駅を出て歩いて行くと、駅前に少し店屋があるだけで、すぐ空き地と畑になってしまった。昔から有名な町なのに、その寂れ方には驚いた。

御坊の駅は昔からの御坊の町から2〜3km離れたところに作られ、それ以来駅前はいっこうに発展しなかったようだ。何故だろう。こういう町も珍しいのではなかろうか?

祖父の生家があったあたりは、昔からの御坊の町より、御坊駅の方に近く、いまだにまったく開けていないところだった。

駅から10分ほど歩くと、湯川小学校にたどり着いた。

その日はちょうど日曜日で、人の気配がまったくない。これでは話を聞くこともできない、と思ったが、ちょっと校舎の中を見てみることにした。すると、年輩の男の人が一人部屋から出てきて、

「何かご用ですか?」と聞く。

「実は100年ほど前にこの辺にあった『小松原小学校』という学校を捜しているのですが」と言うと、

「この学校は昔そういう名前で呼ばれていたらしいですよ」

という答えが返ってきた。

なんとこの方はこの小学校の校長先生だった。日曜日に一人だけ出てきて、仕事をされていたようだ。

「まあちょっとお入りなさい」

と校長室に案内された。

「私もよく知らなかったのですが、昔のことを調べて、こういうものを書きました」

と言って、「開校記念日を迎えて」という記事が載っている「ゆかわ」という学校の新聞を一部下さった。

それによると、この学校は明治8年(1875年)に、「小松原小学校」として開校したのだそうである。その後、明治26年(1893年)に「湯川村尋常小学校」に改称になったとのことである。

明治17年(1884年)生まれの祖父がこの小学校に入ったのは「小松原小学校」の時代だ。

校長室に掛かっていた、昔の校舎の写真を写真に撮らせて頂き、お礼を言っておいとました。「昔の校舎」といっても、明治時代のものではなかったが。

 

 

3. 酒井家の墓と対面

 

この頃から、あいにく雨がひどくなってきた。雨の中を「往生寺」へ向かって歩いて行った。

祖父が描いた手書きの地図によると、「往生寺」の手前に「鎮守」と書いてある。本屋で取り寄せた地図の「財部(たから)神社」というのがこれだろうと見当をつけた。

神社らしいものはないかと捜すと、田圃の中に、ちょっとした木立があり、そこに小さな「ほこら」があった。「寶神社」と書いてある。「財部神社」をこういう風にも書いたのだろう。祖父は子供の頃この辺で遊んでいたのではなかろうか?

いずれにしても、昔の地図通りに残っていることが分かり、心強くなる。

さらに少し歩いて行くと、寺があった。「往生寺」とある。ここだ。

寺の中に入り、そこにいた女の人に、

「住職さんはいますか?」と聞くと、

「法事で墓地の方にいます」

とのこと。法事が済むのを待って、その住職さんに、

「ちょっとお伺いしますが、こちらは浄土宗でしょうか?」

と聞くと、

「そうです」

とのこと。酒井家は浄土宗なので、必要条件のひとつは確認できた。

「この近くで100年ほど前まで作り酒屋をしていた、酒井という家が、もしかしてお世話になっていませんか?」と聞くと、「あゝ、その家の墓ならうちにあるよ」

という答えが返ってきた。

あまりのあっけなさに、言葉も出なかった。

さらに驚いたことに、その墓にお参りしてくれている人がいるという。その人も「酒井」といい、酒屋だった酒井家の親戚で、その家の墓が、酒屋だった酒井家の墓の隣にあるので、自分の家の墓参りに来たついでに、酒屋の酒井の方の墓にもお参りしてくれているのだという。

「これがその墓ですよ」

と案内された墓は、たくさん墓石が並んでいる中の、古びた小さい墓石で、文字はつぶれてしまって、何と書いてあるのかまったく読めない。しかし聞いた通りちゃんと花が活けてあった。

早速そのお宅に連絡を取ってくれ、そこの奥さんが車で迎えにきてくれた。そのお宅にお伺いして、話を伺うと、その家の当主の酒井寛一(ひろかず)さんの5代前に、酒井友蔵という人がおり、この人が酒屋の家系の人で、寛一さんのお宅はこの人の娘の家の子孫だという。

念のため、この友蔵という人の、「唯譽弘願信士」という戒名と安政6年(1859年)没ということをメモして帰り、私の家にある古い位牌を調べると、一字一句同じ戒名を書いた位牌が見つかった。

寛一さんの家系とは、この「友蔵」さんでつながっていることがはっきりした。

「亀の歩み」には、亀久次郎の父、「友造」のことまでしか書いてないので、よく分からないが、位牌の没年から推定すると、「友蔵」さんは「友造」さんの祖父に当たる人のようである。そうだとすると、私も、寛一さんも「友蔵」さんの5代目の子孫ということになる。

こういう方が御坊に住んでいるということを祖父は知っていたのだろうか?

なお、寺で聞いた話では、酒屋だった酒井家の墓は、現在松江に住んでいる、亀久次郎の兄の娘さん(酒井千代さん)の家が松江に移したとのことだった。その際、往生寺の墓は、遠くてお参りもできないので、無縁仏にしてくれてよい、とのことだったというが、寺も寛一さんのお宅も、ちゃんと古い墓を守ってくれていたのだ。

それにしても、100年も前のことがこんなに簡単に分かるとは思いもよらなかった。東京など、人の動きの激しい所ではとても考えられないことだ。

 

 

4. 英語を習ったという寺も見つかる

 

「亀の歩み」によると、祖父は小学校卒業後、家業がおかしくなったため、上級学校へ進めず、淨国寺という寺の三原智覚という坊さんに英語を教わったという。

御坊の地図で捜すと、そういう名前の寺が御坊の町に今もあることが分かった。

寛一さんのお宅をおいとまして、大雨の中をタクシーで御坊の町に向かった。御坊の古い街並みは昔とあまり変わっていないようで、車がやっと通れるぐらいの道幅しかなかった。

淨国寺は古い御坊の町の真ん中にあるなかなか立派な寺だった。

その寺で、出てきた女の人に、

「100年位前に、このお寺に、三原というお坊さんがいたということですが、分かりますでしょうか?」

と聞くと、なんと、

「私が三原です」

という答えが返ってきた。

その人の話では、途中で三原家が絶え、関東の方から移って来て寺の跡を継いだのだという。

「実は私の祖父が昔ここで英語を教えてもらったということです」

とお話しした。またしてもあっけなく、昔のことが分かってしまった。

 

その日はその後、道成寺を見物して、白浜の温泉に向かった。ひどい雨で、靴下までずぶ濡れになって、往生したことを思い出す。

こんなにいろいろのことが分かるのなら、御坊でもう少し時間をとるのだった。手がかりがつかめるとはあまり期待しておらず、祖父が子供の頃過ごした御坊というところはどんな所か見ておこうと軽く考えていたのである。

今回だいぶ手がかりが得られたので、将来時間ができたらもう少しゆっくり訪ねてみたいと思っている。

 


 

御   所

 

 

1. はじめに

 

太平洋戦争の最後の年に、東京に住んでいた我々一家は、埼玉県の今の東松山市の近くに疎開した。当時はただ「松山」と言っていた。何故松山に疎開することになったかというと、父の勤務先の中島飛行機が、松山の近くの「吉見百穴」のある山に穴を掘って、地下工場を建設中だったためである。

私が4才から5才にかけての頃だったので、記憶が定かでないが、出かけたのは確か終戦の年の6月頃だったと思う。

最初は、松山の大通りに面した家に少しいた。その後、通りから少し入ったところにある家に移った。確か前が谷のようになっていて、湿気がひどく、ノミが出て閉口した。父が、湿気を吸った畳を上げて1日干し、畳の下に油紙を敷いていた。

この家にいたのも短期間で、その後、今の吉見町の「御所」というところに移った。途中吉見百穴の近くを通ると、地下工場の建設中で、ダイナマイトの音がし、トロッコで掘った土を運び出していた。

御所では、国島さんというお宅にお世話になった。藁葺きの大きい農家で、我々一家は客用の座敷を借りて住んだ。土間には蚕の棚がずらっと並んでいた。ご主人は村役場に勤めており、娘さんが小学校の先生をしていた。

ここで、空襲警報が鳴る度に防空壕に駆け込む東京の生活から解放され、3〜4ヶ月のんびりと過ごした。

 

 

2. 御所再訪

 

「昔疎開していたところは、その後どんな風になっているのだろう? すっかり開けて、東京のベッドタウンになっているのだろうか? 一度行ってみたいものだ」とずっと思っていた。

94年の6月のある休日に、意を決して、女房と二人で車で出かけた。

あらかじめ埼玉県の地図を買って、だいたいの見当をつけておいた。東松山で関越自動車道を降り、御所に行ってみると、道が舗装され、店屋が少しできていたが、それ以外は思いのほか変わってなかった。といっても、49年も経っており、私も幼かったので、記憶がはっきりしない。この付近と思われる所を、しばらく車でうろうろしていたが、とにかく誰かに聞いてみることにした。若い人に聞いてもしょうがないから、年寄りがいないかと思っていると、畑でおばあさんが二人立ち話をしていた。そこで、そこまで行って、

「ちょっとお尋ねしますが、この辺に国島さんというお宅がありませんか?」と聞くと、

「国島ならうちですけど」

という答えが返ってきた。

びっくりして家の方を見ると、藁葺きだった屋根がトタン屋根に変わり、広々としていた庭を半分野菜畑にしてしまっているが、家とか門は昔のたたずまいのままだった。

女の人の一人は、我々がお世話になった国島さんの長男の奥さんだった。長男の人は、我々の疎開中は戦争に行っていていなかった。

もちろんこの奥さんも当時はまだいなかったのだが、

「疎開に来た人のことは話に聞いています」

とのことだった。

もう一人の女性が、小学校の先生をしていた娘さんで、近所に住んでいるのだが、たまたま訪ねて来ていたのだった。

我々のことをよく覚えており、

「ケイコちゃんというかわいい女の子がいて、学校から帰るとおんぶして遊んであげていたのを覚えています」

と妹の名前まではっきり覚えているのには驚いた。50年近く前に、2〜3ヶ月一緒に暮らしただけなのに、よくこんなにすぐ名前まで出てくるものと、記憶力のよさに驚嘆した。

どういう訳か「男の子」はそれほど印象に残ってない様子だった。

家の中にはもう蚕の棚はなく、我々が借りていた客間は日常生活に使っているようで、すっかり変わっていた。

当時のいろいろな出来事を思い出した。

 

父が夜自転車で帰ってくる途中、川に落ち、ずぶ濡れになって帰ってきて、持っていたお札と自転車に積んでいた米を、床の間に並べて乾かしていた。

 

子供たちが、近所の沼で鰻を捕まえてきた。二軒で分けようと、二人がそれぞれ頭と尻尾を持ち、もう一人が芝刈り鋏で真ん中を切ろうとしたところ、頭を持っていた子供が鰻に噛みつかれた。

 

ある時、母に連れられて、妹と3人で、山道をずいぶん歩いて、知り合いの農家を訪ねた。途中で、突然戦闘機が1機低空を飛んできたので、あわてて近くの草むらに身を隠した。しかしそれは日本軍の戦闘機で、近所のの子供が手を振っていた。

訪問先の農家では、今まで食べたこともないような、大きく立派な卵焼きをご馳走になった。そこがどこだったのかはまったく分からない。

 

考えてみると、妙なことを、断片的によく覚えているものだ。

 

国島さんのお宅をおいとまし、東松山の町へ戻る途中、吉見百穴の地下軍需工場跡に立ち寄った。工場用に掘った穴が昔のまま残っており、奥の方には入れないが、入口近くは観光客が入れるようになっていた。

「昭和20年に、中島飛行機の大宮工場のエンジン部門をこの地下工場に移すことになり、日本全国から約3,000人の朝鮮人が集められて突貫工事を進め、7月に工事が完成したが、本格的生産開始前に終戦になった」という説明が看板に書かれていた。

 

 

3. ノミの出た家

 

東松山で、御所に移る前に住んでいた、ノミだらけの家を捜そうとした。この家の記憶は「御所」以上に曖昧だったが、母が残したメモに、隣に下駄屋が書いてあるのが頼りだった。

記憶に残っている、前が谷のようになっている場所を捜した。似たような地形の場所があったが、新しい家がぎっしりと建っていて、昔の面影はまったくない。下駄屋も見あたらない。ただ一軒、店を閉めている家があった。ガラス戸の隙間から覗き込むと、何やら古い履き物のようなものが見えたが、はっきりしない。誰かに聞こうにも、人の気配がまったくない。どうしようもないのであきらめて帰りかけた。すると後ろから年取った女の人が追いかけてきて、いぶかしげに、

「何かお捜しですか」と聞く。

「この辺に戦争中にあった下駄屋さんを捜しているんですが」

と言うと、

「それならうちですよ」とのこと。

何と覗き込んでいた家がその下駄屋だったのだ。

「実は隣にあった家に戦争中に疎開していた者です」と言うと、

「あゝ、そういう人がいましたね。男の子と女の子がいて、夕方になると、『お腹が空いた』と言って毎日泣いていたのを覚えていますよ。芋でも何でも食べさせておけばいいのに、東京の人はお米しか食べさせないんだな、と思っていましたよ」と言う。

何という記憶力! 国島さんと違い、この人の家に住んでいたわけではなく、しかも期間もせいぜい1ヶ月位と短いのに、よく覚えていてくれたものだ。

 

こうして、疎開していた御所の家が見つかり、また、まったくの偶然で、普段そこには住んでいない、当時小学校の先生をしていたその家の娘さんにも会うことができた。

また、まったく期待していなかったのだが、松山の町で我々のことを覚えている人に会うこともできた。

幸運だったと言うべきだろう。

それにしても、人間の記憶力には改めて驚かされた。

私など、つい最近会った人の名前も、忘れてしまって思い出せないことがしょっちゅうあるのに、50年も前のことを、こんなにはっきりと覚えていてくれるとはどういうことなのだろうか?

東京から移ってきた我々一家は、疎開先の人達に、よほど強い印象を与えたのだと思われる。

 

 

(完)

 

1996年2月(第1版)

1998年5月(第2版)


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