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(株)エム・システム技研 「エムエスツデー2013年10月号 掲載        PDFファイル (エム・システム技研のサイトへ)

      

ITの昨日、今日、明日 

 

第4回 オープン化への道

 

酒井ITビジネス研究所  代表 酒 井 寿 紀

 

コンピュータの世界では、当初は各メーカーが独自仕様のハード、ソフトの製品を提供していました。それらの製品間の接続仕様は各社の知的所有権に基づくプロプライエタリなもので、他社の製品とは接続できませんでした。

しかし、時代と共にこのプロプライエタリな壁は崩れてゆき、各社が共通な接続仕様の下でハード、ソフトの製品を分業するようになりました。プロプライエタリからオープンな世界に変わってきたのです。また、ソフトの中身をオープンにして、共同で開発しようという運動も起きました。

なぜこのように「オープン」に向かって進んだのでしょうか? コンピュータの歴史を振り返ってみましょう。

 

メインフレームの時代・・・PCMの繁栄

初期のコンピュータは、メインフレームと呼ばれる非常に高価なもので、政府機関や大企業しか使っていませんでした。製造・販売するメーカーも限られ、1960年代の米国では白雪姫と7人の小人と呼ばれる8社だけでした。これらのメーカーがそれぞれ独自のプロプライエタリな世界を構築していたのです。

しかし、小人たちは1970年以降順次姿を消し、最後に残ったのは白雪姫のIBMだけでした。IBMのメインフレームが「事実上の標準」になって世界中で使われるようになったのです。

そうなると、IBMの接続仕様に基づいて開発された磁気テープ装置、磁気ディスク装置などが現れ、PCM (Plug-Compatible Machine)と呼ばれました。そして、ついにIBMCPU自身を置き換えるPCMが現れ、IBMの市場の一端を侵食しました。

こうして、IBMのプロプライエタリな壁は事実上崩れてゆき、製品ごとの分業が始まったのです。これはIBMによる独占の弊害から逃れるため、ユーザーが強く望んだことでもありました。当時は「オープン」という言葉は使われませんでしたが、これはコンピュータの市場のオープン化の始まりともいえます。

 

パソコンの時代・・・「この指止まれ」

1970年代にパソコンが誕生しました。これもメインフレーム同様、当初は各社がプロプライエタリな世界を構築していました。

1981年にIBMがパソコン市場に参入しました。同社は後発だったので、開発期間を短縮するために、CPUをインテル、OSをマイクロソフトから調達し、また、短期間に関連製品を揃えるため、内部の接続バスの仕様を公開して、増設メモリや外部機器の接続回路などを提供する企業を募りました。同社は、メインフレームのときと違い、最初から意図的に接続仕様のオープン化を図ったのです。

この「この指止まれ」作戦は大成功し、IBMのパソコンの仕様が事実上の標準になりました。その結果、IBMのパソコンの付加機構などの市場が育つと同時に、IBMのパソコン自身のクローン(メインフレームのPCMに相当)が出現し、同社の市場を奪い始めました。オープン化は「諸刃の剣」だったのです。

IBMはその対策として、PS/2という、高度な技術を使い、クローンの開発が困難なパソコンを開発しました。しかし、事実上の標準は変わりませんでした。もはや生みの親のIBMもこれを変えることはできなかったのです。現在でもこの事実上の標準が継続しています。

 

インターネットの時代・・・ボランティアの活躍

1980年代に入ると、米国の大学で「フリー・ソフトウェア運動」が始まりました。ソフトの使用、改変、再配布は自由であるべきだという主張です。

自由に改変できるためには、ソフトの知的所有権を制限して、「ソースコード」(実行用に変換する前のプログラム)が公開されることが必要です。そのためこの運動は「オープンソース運動」とも呼ばれます。

1980年代にはこの運動の成果は限られていましたが、1990年代に入りインターネットが広まると本格的に日の目を見ました。インターネットは、元々大学や政府機関の研究者がボランティアとして開発してきたものなので、開発したソフトを無料で公開したり、公開されたソフトを共同で改善したりすることに抵抗がなかったためです。

こうして、電子メールやウェブのソフトが次々と無料で公開されるようになり、今日に至っています。

 

なぜオープンか?

では、なぜこのようにITの世界はプロプライエタリからオープンに変わってきたのでしょうか?

まず第1に、「ITの市場の独占化/寡占化が進むと必然的にオープンになる」ためです。

IT製品は半導体とソフトウェアのかたまりです。その原価の大半は固定費なので、量産効果が極めて大きく、大企業はますます大きくなり、中小の企業は太刀打ち困難になります。

そのため、市場の独占化/寡占化が進み、事実上の標準が決まります。中には標準規格の組織が中心になって規格を定めたものもありますが、その場合でも力のある大企業の意見が大きく反映されてきました。

事実上の標準が世界中に普及すると、そのシステムに使われる製品を全部1社で供給することは、いかに大企業といえども困難になり、必然的に、製品ごとに分業するオープンな市場が出現するのです。

2に、「プロプライエタリなソフトは、ユーザーの多様な要求をタイムリーに満たすことができず、また短期間で品質を安定させることが難しい」ことがあります。そこで、ソースコードを公開して世界中の技術者を動員して、多様化するユーザーの要求に対応し、またバグの発見・対策に協力してもらおうという発想が生まれたのです。

ただし、このソースコードの無料での公開には、メールやウェブなどのソフトのビジネスを成り立たなくしてしまったという弊害もありました。他に安定した収入源がある大学の研究者などの片手間の仕事のために、多数のプログラマが失業しました。しかし、オープン化のお陰で、インターネットのユーザーが無料で大量のソフトを使うことができるようになり、莫大な恩恵を蒙っているのも事実です。今後もプロプライエタリとオープンなソフトは共存していくことと思われます。

 

[関連記事]

(a) 酒井 寿紀、「プロプライエタリからオープンへ」OHM、2006年1月号、オーム社 (http://www.toskyworld.com/archive/2006/ar0601ohm.htm)

  


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