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(株)エム・システム技研 「MS TODAY20104月号 掲載        PDFファイル [(株)エム・システム技研のサイトへのリンク]

 

 

海外よもやま話 

 

2回 1980年代の中国

酒井ITビジネス研究所  代表 酒 井 寿 紀

 

夜もライトをつけないクルマ

最近はテレビなどで、高層ビルが林立し、きれいに着飾った人々が行き来する北京や上海の街がよく紹介されます。私は1981年から86年にかけて仕事で5回中国に行きましたが、最近の変化には驚くばかりです。そこで今回は、当時の中国の一端をご紹介しましょう。

北京市内の移動にはいつもタクシーを使っていました。現地の人の通勤は主にバスか自転車で、通勤時間帯には自転車が道一杯に広がって走っていました。タクシーに乗っていても、時々自転車や歩行者にヒヤッとしましたが、歩いて道路を横断するのは命がけでした。長安街のような幅の広い道路にも横断歩道や歩行者用の信号はなく、みんな勝手に道路を横断するのです。クルマが来ると車線の間の白線の上に立ってやりすごすのですが、前後をクルマが高速でとばすので生きた心地がしませんでした。

もう一つ驚いたのは、夜になってもクルマがほとんどライトをつけないのです。街外れの真っ暗な道をライトもつけずに時速100キロに近いスピードでとばすのには肝を冷やしました。現地の駐在員に聞くと、軍事上の理由とか、照明が普及してなく暗いのに慣れているので、暗くても見えるとか、バッテリーの品質が悪いので、バッテリーの使用を極力避けるためとか言われているが、よく分からないとのことでした。

80年代の半ばに北京を訪れると、街角に「夜はライトをつけよう!」という大看板が立っていて、ほとんどのクルマが夜はライトをつけるようになっていました。スローガンを掲げた看板で大衆を指導するところは、さすがは中国だと思いました。われわれはやっと安心して夜クルマに乗れるようになりました。

 

李鵬副首相の会見に遅刻

80年代も半ばになると急速にクルマが増え、長安街などは時々ひどい渋滞になりました。この渋滞に巻き込まれて当時の李鵬(りほう)副首相の会見に遅刻するという失態を演じたことがあります。

当日は、私の勤務先の一団が、北京郊外の工場を見学したあと、中南海という政府の要人が住んでいるところに当時の李鵬副首相を訪問する予定でした。一団の代表が乗ったクルマにわれわれのマイクロバスが続いて工場を出たのですが、途中で渋滞に巻き込まれてバラバラになってしまいました。宿泊中だった北京飯店に立ち寄って時間調整をしてから中南海に向かうことにしていたのですが、北京飯店の前の長安街は特にひどい渋滞で、われわれが北京飯店に着いたときにはもう代表のクルマは出発したあとでした。

そのためわれわれは急いで中南海に向かいました。中南海は故宮に隣接した広大な敷地で、延々と続く赤い塀で囲まれていて中がまったく見えず、ところどころに門があって銃を持った兵隊が立っていました。マイクロバスの運転手はどこから入ればいいのか分からないので、門があると片っ端から聞いていましたが、一つの門で、話が伝わっていたらしくサッと入れてくれました。

一番の問題は、われわれの乗っていたマイクロバスにわれわれの通訳が乗っていたことでした。会見場に着いたときはもう李鵬さんの挨拶が始まっていて、次はわれわれの代表の挨拶なのに通訳が着かないのでみんな青くなっていました。そこへわれわれが到着したのでみんなほっとしていました。

遅刻したため、李鵬さんといっしょに写真に納まることはできませんでしたが、李鵬さんは全員と握手を交わしてくれました。会見の会場では、白い手袋をはめた若い女性が一人ひとりにひざまずいてお茶を出してくれて、さすがに他とは違う雰囲気でした。当時は中南海の中に入った日本人は極めて少ないと言われていました。

 

516分とチントンシャン

当時、われわれ外国人が簡単に食事をするところは、ホテルの食堂か国際倶楽部ぐらいしかありませんでした。タクシーで国際倶楽部へ行きたいときは、日本語で「516分」と言えばいいと商社の女性が教えてくれました。「国際倶楽部(クオジジュロブ)」が日本語の「516分」に近いからです。もちろん外国人が行くところは限られているためもあるのでしょう。

流しのタクシーがないので、街なかや観光地でタクシーを捕まえるのは困難でした。そのためタクシーで出かけたときは、タクシーに待っていてもらわないと帰りの足がありません。そういう時は運転手に「チントンシャン」と言えばいいと同じ女性が教えてくれました。これは「ちょっと待ってて ください」の中国語「請等一下(チントンイーシャー)」が「チントンシャン」に似ているためです。

もっともこれだけでうまく行くとは限りません。タクシーでいつも同乗者に料金を払ってもらっていましたが、たまには私が払おうとしてうまく行かなかったことがあります。数字は麻雀で得意だし、お金の単位は1(ユワン)10(ジャオ)と聞いていたので分かるだろうと、運転手に「多少銭(トオシャオチエン、いくら)?」と聞きました。すると「スークァイウー」と言います。「スー」は4、「ウー」は5のようですが、「クァイ」が分かりません。すると同乗者が「クァイ」は「元」のことだと教えてくれました。料金は4.5元だったのです。日常使われている言葉を記載してない日本の中国語会話の本には困ったものですが、現地の人の言葉を聞き取る自信がないときは、やたらと外国語で話しかけてはいけないことが分かりました。「生兵法は怪我の元」です。

こういう現地に詳しい人の話を頼りに、仕事の合間に、掛軸、玉(ぎょく)や陶器の置物、硯や筆、漢方薬などの買い物に出かけました。とにかく値段が安いのが驚異的でした。

 

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(a) 酒井 寿紀、「中国の思い出」、海外ところどころ、1996年5月 (http://www.toskyworld.com/kaigai/china.htm)

  


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