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(株)エム・システム技研 「MS TODAY2007年9月号 掲載        PDFファイル [(株)エム・システム技研のご提供による]

ITビジネスから見た海外事情

 

(第9回) 歴史を肌で感じよう

酒井ITビジネス研究所 代表 酒 井 寿 紀

 

あったもの、なかったもの、なくなったもの

ヨーロッパの街を歩けば、その街の現在の姿を見ることができます。しかし、その街は、昔はどんな姿だったのでしょうか? たいていの街には、その街の歴史的なものを展示している博物館があります。こういうところを訪れて、その街の昔の姿を想像するのはなかなか楽しいものです。

パリでは、カルナヴァレ博物館というところがパリの歴史にちなむものをいろいろ展示しています。ここでパリの古い地図の複製を売っていました。1676年製というのでルイ14世の時代のものです。大きい地図でしたので、持ち帰るのに苦労すると思いましたが、興味があったので買い求めました。この地図を眺めていると、いろいろ面白いことがわかります。

まず、当時から「あったもの」があります。ルーブル、ノートルダム寺院、サン・ジェルマン・デ・プレ教会などです。これらは有名な大建造物ですが、当時からあったものはこれらだけではありません。パリのマレ地区には、現在カルナヴァレ博物館やピカソ美術館などになっている古い貴族の館がありますが、これらの建物が当時からあったことがわかります。それだけでなく、この地区の狭い道路に、当時も現在と同じ名前が付いていたことがわかります。たぶん道の曲がり具合などもあまり変わってないのでしょう。マレ地区の狭い通りを歩けば昔のパリの雰囲気に触れることができるようです。

逆に、当時は「なかったもの」もたくさんあります。凱旋門、コンコルド広場、シャンゼリゼ通りなどはありませんでした。いや、それどころか、現在これらがある場所は地図の範囲外です。つまりパリの市街ではなかったのです。そして、現在の盛り場のモンマルトルやモンパルナスなども地図上になく、当時はパリ市街ではなかったことがわかります。

そして、当時はあったが、現在は「なくなったもの」があります。フランス革命の発端になったバスティーユ牢獄がその一つです。現在はバスティーユ広場という地名に名前が残っています。そして、テンプル修道院の大きい建物が現在のレピュブリク広場のところにあったことがわかります。また、ルーブルのそばのテュィルリー宮殿がルーブルに劣らず大きかったことがわかります。これはパリ・コミューンのとき火事で焼けてしまったのだそうです。

こういうことを知った上で、17世紀の街並みを想像しながらパリの街を歩くのも一興でしょう。一般的には、フランス人は古い建物をよく残していると思います。その一方で、マレ地区の古い街並みに隣接して、石油化学プラントのようなポンピドゥー・センターを建てたり、ルーブルの中庭にガラス張りのピラミッドを作ったりしました。われわれには景観の破壊のように思えますが、あと100年も経てばこれらもパリの風景に溶け込むのかも知れません。エッフェル塔は、現在はパリの代表的風物になっていますが、建設当時は、グロテスクな鉄骨とみんな違和感を覚えたのではないでしょうか。

 

城塞都市ウィーン

ウィーンにも歴史博物館があります。ここにはウィーンの昔の市街の大きな模型が展示されています。それを見ると、ウィーンの旧市街全体が堅固な城壁と濠で囲まれていたことがわかります。そして、城壁のところどころから戦闘用の陣地が張り出しています。つまり、街全体がまさに強固な要塞になっていたのです。

その理由は展示品を見てわかりました。16世紀から17世紀にかけてオスマン・トルコの軍隊との戦いに使われた、折れた槍、傷だらけの盾、破れた軍旗などが多数展示されていて、当時の戦闘の激しさを生々しく感じさせられました。もしウィーンがオスマン・トルコ軍に敗れていたら、その後のヨーロッパの歴史はどうなったのでしょうか?

この城壁は1857年に取り壊され、今は1周約4キロメートルのリンクという大通りになっています。

このように城壁が市街全体を囲っていたのはウィーンに限りません。最近行ったフランスのカルカッソンヌなど、何と二重の城壁で囲まれています。これはスペイン軍との戦闘の激しさを物語っているようです。この二重の城壁は今もほぼ完全に残っていて、世界文化遺産になっています。

そのほか、私が行ったことがある街では、フランスのアルルやアヴィニョン、イタリアのペルージアやフェラーラ、スペインのトレドなども、旧市街全体を囲った城壁が残っていました。こういう街では、鉄道の駅も自動車道路も城壁の外にあって、城壁の内側は昔のままの姿をよくとどめているようです。

日本には、こういう市街全体を取り巻く城壁はありませんが、例えば北京などもこういう城壁で囲まれていたので、世界全体では、むしろ日本が例外的なのかも知れません。ヨーロッパなどでは、戦争はほとんど異民族との戦いです。そして、旧約聖書には、老若男女を問わず敵は皆殺しにせよという話が出てきます。こういう戦争の性格の違いが日本と諸外国の城壁の違いをもたらしたのかも知れません。

 

ミロのビーナスは最高傑作ではない?

美術館にもよく行きました。ローマのヴァティカン美術館に行ったときは、ギリシアやローマの人体の五体健全な彫刻のほかに、頭だけ、手だけ、足だけ、胴体だけの大理石のかけらが山のようにあるのに驚きました。五体健全なものやそれに近いものより、手だけ、足だけなどのバラバラなものの方がはるかに多いのです。ということは、これらの中にミロのビーナスを超える傑作があるかも知れないと思いました。ミロのビーナスには手がありませんが、それでも運良くバラバラにならなかったので、現在ルーブルでギリシア彫刻の傑作として世界中の人に讃えられているのだと思います。

こういうことは、日本で美術全集を見ていたのでは思いもよりません。手や足だけの彫刻の多さに圧倒されてはじめて感じることができます。

ヴァティカン美術館やルーブル美術館のほか、小さい美術館にも行きました。あるとき、ロンドン大学の中にコートールド・コレクションというのがあって、印象派やルーベンスの良い作品を集めていると聞きました。そこで、仕事の合間の週末に行ってみました。しかし、ロンドン大学といっても広く、何の案内もありません。聞き歩いてやっとたどり着くと、そこには年配の男の人が一人いるだけでした。そこの建物のエレベーターは、手で扉を開けて乗り、扉を閉める。そして、目的の階に着いたら、また手で扉を開けて降り、扉を閉めておく。この閉めるのを忘れると、次の人が使えない、という年代物でした。私が行ったときは、展示室には誰もいず、しばらくして、やっと一人入ってくるという有様でした。しかし、そこに展示されていた作品は素晴らしいものでした。

中でもルーベンスは何点もあり、ルーブルに展示されているような大作と違って、小品なだけにかえって画家の筆遣いの巧みさがよくわかるように感じました。

こういう素晴らしい美術品が、大学の片隅の実に不便なところにある老朽化した建物に何気なく展示されているとは、さすがにヨーロッパだと思いました。しかし、イギリス人も、やはりこれは問題だと思ったのでしょう。その後、このコートールド・コレクションは、テムズ川沿いの便利なところにあるサマセット・ハウスという立派な建物に移設されました。

現地で直接いろいろな文化遺産に接すると、ヨーロッパの歴史の本をいくら読んでもわからない、文化の層の厚さ、底辺の広がりというようなものを肌で感じることができます。

 


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