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(株)エム・システム技研 「MS TODAY 」2007年8月号 掲載 PDFファイル [(株)エム・システム技研のご提供による]
ITビジネスから見た海外事情
(第8回) 日本文化を解さない者はインテリではない!?
酒井ITビジネス研究所 代表 酒 井 寿 紀
日本人の「Yes」、「No」は返事ではない!?
昔は、ヨーロッパ出張といえば、アンカレッジ経由の北回りか、インド、アラビア半島経由の南回りでした。ヨーロッパへ行くにはシベリア上空を突っ切るのがもっとも短距離なのですが、旧ソ連は領空の飛行を認めていませんでした。
1983年に、フィンランド航空が初めて、成田−ヘルシンキ間の直行便を開設し、短時間を謳い文句にしていたので、乗ってみました。途中で客室乗務員が、「これは “very best Japanese”とは思いませんが」と言って、日本人に印刷物を配りました。妙なことを言うなと思って見ると、それは日本語で書いた「北極通過証明書」でした。フィンランドで印刷したものか、確かにその日本語は “very best”とは言えませんでした。その飛行機のルートは、旧ソ連領空をかすめて、ベーリング海峡から北極海へ抜け、北極の真上を通ってヘルシンキへ向かうものでした。
機内誌には、なぜ今まで不可能だったヨーロッパ直行便が可能になったかが詳しく出ていました。航続距離を延長するために、DC-10の客席を減らして、その分燃料タンクを増やし、旧ソ連領空ぎりぎりを飛ぶ飛行ルートを開拓したのだそうです。これを読んでいるうちに、だんだん気持ちが悪くなりました。計器が狂って旧ソ連の領空を侵す可能性はないのだろうか? 風向きなどのためにヘルシンキまで行き着けないときは、旧ソ連の北極海沿岸に不時着できるような飛行場があるのだろうか? 読んでいるうちにだんだん心配になり、こんなフライトを選んだことを後悔しました。
そして、この機内誌は日本就航を記念した日本特集号で、日本人とビジネスをするときの注意事項が微に入り細にわたって記されていました。「日本の会社を訪問するときは、名刺とお土産を決して忘れるな」、「日本人のお辞儀には15度、30度、45度の3種類あるので気をつけろ」、「日本人に接待されても、お返しの接待はするな。彼らは信じがたいほど会社の費用を使うので、とても対抗することなどできない」というような話が載っていました。
そういう話の一つに、「日本人の『Yes』、『No』は返事と思ってはいけない」というのがありました。日本人に話をすると、途中で「Yes、Yes」と言うから分かってくれていると思うと、実は単に相槌にすぎないことがあるのでしょう。また、お詫びをして許しを乞うときに、相手に「No!」と言われても、それは、「許せません」という意味ではなく、「いいえ、気になさらなくて結構です」という意味のこともありそうです。日本人の「Yea」、「No」をまともに受け取ってはいけないと書いてありました。この記事の筆者も過去に散々苦労したのでしょう。欧米人が日本人との付き合いにいかに苦労しているかを改めて知りました。
「ムサシ」と「ショーグン」
われわれがいっしょに仕事をしていた米国の会社の人も、日本の会社との付き合い方に大変苦労していたようです。あるとき、われわれの会社に来るなり、開口一番、「どうも日本人の考えが分からないので、今回来るに当たって、『ムサシ』(吉川英治の『宮本武蔵』の英訳)と『ショーグン』(ジェームズ・クラベルの江戸時代を背景にした小説)を読んできた」と言っていました。これらの小説がはたして日本人とのビジネスの参考になったのでしょうか? その人は、「日本人のどこが分からないかがやっと分かってきた。何をどのレベルの人が決めているのかがまったく分からない。」と言っていました。
米国の会社では重要なことは上の人が決め、下に指図するのが常識です。日本のように、上の人がはっきりと指図しなくても、なんとなく物事がうまく進んでいくやり方が理解できないようでした。上の人に頼んでも必ずしも問題が解決しないことが分かったので、その人は会う人ごとに、上の人にも下の人にも、同じことを繰り返し頼んでいました。みんなに頼んでおけば、どれかは当たるだろうというわけです。
日本の会社の意思決定の仕組みに比べれば、米国流は単純明快です。上意下達が基本です。しかし、見かけは明快でも実態が伴っているかは別です。かげで、「そんなこと言ったってできるわけがない」と言っているのを耳にしたこともあります。
「ヨドバシカメラ」の「ヨド」って何?
今はもうありませんが、パンアメリカン航空の世界一周便というフライトがありました。ヨーロッパからの帰国時に都合でこれを利用したことがあります。途中で3回給油し、その度にクルーが交代しました。
インドを過ぎると飛行機はガラガラに空いて、乗客よりクルーの方が多いぐらいでした。インドのデリーで乗ってきた機長は、紙切れに漢字らしいものが書いてあるのを私に見せて、何と書いてあるのか教えてほしいと頼みました。しかし、漢字を知らない人が写したので、どっちが上かも分かりません。何に書いてあったのか聞くと、日本人の友人にもらった重箱のようなものに書いてあったということでした。困っていると、いっしょにいた客室乗務員の一人が、作者の名前じゃないかしらと言います。そう言われれば、一つの字は「作」のようでした。こうしてどっちが上かが分かり、ほかの字も大体読めました。
するとその機長は、さらにきたない字の紙切れを出してきました。それはひどいくずし字で、とても読めませんでした。何に書いてあったのか聞くと「根付け」だと言います。「根付け」というのは、昔の人が煙草入れなどを帯にぶら下げる紐に付けた飾りです。この機長は「根付け」の収集が趣味で、日本へ行くたびに京都などに買いに行くのだと言っていました。海外には日本人以上に日本の骨董が趣味の人がいるようです。
1980年頃から、日本料理が分からない人はインテリとは言えないというような風潮が欧米で広まりました。そのため、よく日本料理屋に案内しました。日本料理の初級は、すき焼き、天麩羅の類で、これならどんな人にも無難です。中級になると、寿司、刺身などです。米国でスシ・パーティーがあったとき、寿司ネタをかたっぱしから聞かれ、これは鮭の卵で、日本語で「イクラ」、これは「ウニ」、これは「アワビ」などと教えてあげると熱心に聞いていました。流行に乗り遅れたら大変と涙ぐましい(?)努力をしている様子でした。たとえば、「イクラ」は米国ではもともと魚釣の餌で、人間が食べるものではなかったので、現在でも本当においしいと思っている人はどれだけいるのでしょうか。流行に合わせているだけの人も多いでしょう。魚がきらいなアメリカ人は少なくないので、相手を見て料理屋に連れて行かないと逆効果になる恐れがあります。
さて、中級を卒業した人は上級コースへ案内しました。小料理屋の座敷に座って、骨付きの煮魚を箸でむしって食べてもらったこともあります。そのアメリカ人は好奇心とチャレンジ精神が旺盛だったので問題ありませんでしたが、もちろん一般向きではありません。
1980年代には日本びいきのアメリカ人が急に増えました。得意になって日本車を乗り回し、寿司屋やそば屋に通い、仕事で日本に来ると、ホテルよりも温泉旅館に泊まる方を好み、帰りには秋葉原で電気製品のお土産を買って帰りました。
質問攻めにあって往生したこともあります。「マスザケのマスはどこから飲むんだ?」とよく聞かれました。しかし、「ヨドバシカメラのバシはbridgeだろ、ところでヨドって何ですか?」などと聞かれると、もう勘弁して、と思うこともありました。第2次大戦後、映画からジャズまで、アメリカ文化が日本人の憧れの的でした。1980年代にはこれが逆転したように感じたものでした。
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