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(株)エム・システム技研 「MS TODAY2007年6月号 掲載        PDFファイル [(株)エム・システム技研のご提供による]

ITビジネスから見た海外事情

 

(第6回)  中国人はどこへ行く?

 

酒井ITビジネス研究所 代表 酒 井 寿 紀

 

「毛語録」からポルシェへ

私が始めて中国に行ったのは1981年のことでした。1966年から1976年まで10年間続いた文化大革命が終わって間もない頃です。北京空港に着くと兵隊だらけで、税関の検査をしたのも、人民解放軍の軍服を着た若い女性の兵士でした。街を歩いている人も、政府の高官や大学教授も、みんな人民服を着ていました。その頃、日本に仕事で来た人の中には背広を着た人もいましたが、サイズが合わないダブダブのものでした。おそらく、日本に行くというので、生まれて初めて背広を作ったのでしょう。当時、コンピュータの勉強のために日本に滞在していたグループは、毎朝、毛沢東の言葉を記した「毛語録」の学習の時間を設けていました。日本へ来ても、これは欠かせない日課のようでした。

それから20年あまりしか経ってない現在はどうでしょう。私の太極拳の先生の中国人は、麻布のマンションに住み、ロールスロイス風に改造したクルマに乗って、世界中を駆け回って俳優やダンスや美人コンテストの仕事をしています。また、太極拳をいっしょに習っていた若い女性は、上海と東京に家があって行ったり来たりし、今はBMWに乗っているのだけど、次はポルシェにしたいと言っていました。これらはちょっと極端な例かも知れませんが、いったい中国人はどう変わったのでしょうか、そして、これからどうなっていくのでしょうか?

 

変わった人、変わらない人

1981年に上海に行ったとき、瑞金賓館というホテルに泊まりました。当時は外国人が自由にホテルを選ぶことができず、中国側がわれわれにこのホテルを割り振ったのです。このホテルは元イギリス人の富豪の私邸だったそうで、広大な敷地にいくつもの建物が点在していました。ここには、一時周恩来など政府の要人も住んでいたことがあるそうです。そこの建物の一つの、大きい部屋の片隅のベッドで寝たのですが、部屋が広すぎて何とも落ち着きませんでした。

ここで食事をしたときは、いつもわれわれに後ろに年取ったウェイターが直立不動で立っていました。その人は、中国語のできる同行者が前に住んでいた人のことなどを聞いてもいっさい答えませんでした。その態度は、「私の務めは、ご主人の食事中は、じっと後ろに立ってご用を待っていることです。ご主人がイギリス人の富豪であろうと、中国政府の高官であろうと、日本からの訪問者であろうと、私にはまったく関係ありません」と言っているようでした。

その前に訪れたホテルの食堂では、若いウェイトレスが仲間うちでおしゃべりをしていて、用があって呼んでもなかなか来てくれませんでした。彼女たちには、共産主義教育が徹底しているせいかサービス精神の片鱗も感じられませんでした。こういう苦い経験が多かったため、瑞金賓館の年配のウェイターの態度にはことさら驚きました。

またあるとき、北京で買物をしていると、年老いた店の人が、私が日本人だとわかると片言の日本語で話しかけてきました。どこで日本語を習ったのか聞くと、昔大連に住んでいて、隣の日本人に教わったということでした。そして、「あの頃はよかった。隣の日本人が大変親切にしてくれた。それにひきかえ、今の中国はまったくだめだ。あの頃が懐かしい」と、しみじみと話し出しました。

中国では、共産主義思想や反日思想を叩き込むために、毎日「毛語録」の学習をさせ、街中にスローガンを書いた看板を掲げてきました。その結果がこの有様です。たった2人の老人の例ですが、人間の頭を切り変えることは至難の業で、変わらない人はまったく変わらないのだということを強く感じました。

 

文化大革命の傷跡

1981年に北京に行ったときは、まだ文化大革命が終わってから5年しか経ってなかったので、その傷跡が生々しく感じられました。われわれが会った精華大学の教授は、雑談中に英語で、「南方でバッファローのドライバーをやってました」と言っていました。水牛を使って農耕作業をやらされていたのでしょう。しかし、このように笑い話にすることができる人は幸せなのでしょう。慣れない肉体労働で体を壊し、一生を棒に振った人も多いのだと思います。

仕事の合間にはよく骨董屋を見てまわりました。すると、山水画の山の上に赤旗が立っているのを見つけました。驚いて現地に駐在していた人に聞いたところ、文化大革命中は必ずどこかに赤旗を描かないといけなかったのだそうです。それがまだ店頭に残っていたのです。「何たる愚行!」と思って、そのときはまったく買う気にもなりませんでしたが、今思えば、その時買っておけば歴史的価値が出たかも知れません。

中国人は一般に酒好きで、宴会の途中で何回も乾杯を繰り返します。正式な宴会には50度以上ある茅台(マオタイ)酒が使われます。これを一気に飲み干して、杯を逆さにして空になったことを示さないといけないので、まともに付き合うのは大変です。しかし、年配の人にはこういう習慣がまだ残っているようでしたが、若手のエリート官僚には酒をあまり飲まない人が多いようでした。中国の事情に詳しい人の話では、文化大革命中はあまり酒を飲まず、その時期に青年時代を過ごした人は酒を飲む習慣が身についていないとのことでした。

また、文化大革命中はあまり勉強をしなかったようです。1950年代に生まれた人を中心にして、その影響は一生残るでしょう。しかし、文化大革命と言ってもたかだか10年の異常な期間です。その前の世代にとっては、もう過去の思い出話になっているようです。そして、その後の世代にとっては完全に歴史の一こまで、その影響はほとんど感じられません。

 

ひと言では片付かない中国人

中国で医学を勉強し、日本で整体の仕事をしている人に身体を見てもらったことがあります。その人が、私の身体をもみながら、「私はハルビンの出身です。731部隊があったところです」と言うので、ギクッとしたことがあります。というのは、731部隊とは日本陸軍で細菌兵器を研究していた部隊で、中国人の捕虜を人体実験に使ったと聞いていたからです。日本人としては最も触れてもらいたくない話で、中国人にとっても、太平洋戦争の最も悲惨な一面のはずです。それを、雑談の中でニコニコ顔で話すので、私は一瞬言葉を失いました。

しかし、考えてみれば、中国は過去何千年に渡って異民族との戦いを繰り返してきました。戦争となれば、虐殺、強姦、略奪は常です。政府は、国益を守り、外交を有利に展開するために過去の他国の非をいつまでも執拗に非難し、国民をたきつけますが、個人はそんなことにいつまでもかかわっていても、何ら得ることがありません。この整体師はそれをよくわかっているようでした。新聞を賑わせている反日運動が中国のすべてではないのです。

また、この人は日本人の女性と結婚していて、日本の国籍を取るか、中国の国籍のままにするかを悩んでいました。帰国したときに、共産党員の友達に相談したところ、「それは日本の国籍を取るべきだ」と言われたと言っていました。共産党員も変わりつつあるようです。

同じ中国人といっても、共産主義政権の成立前に青少年時代を過ごした世代と、共産主義の全盛時代、特に文化大革命の時期に青少年時代を過ごした世代、そして、その後の世代には大変な違いがあるように感じます。

中国で共産主義が華々しく讃えられたのは、三千年以上の歴史の中のたかだか40年程度に過ぎません。共産主義時代の真っ只中でさえ、その影響がまったく感じられない人がいたのですから、長期的な影響は微々たるものでしょう。最近の若い中国人の言動から強くそう感じます。

 


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