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「Pen・友」第35号(2006年4月発行)掲載     PDFファイル

 

スペイン、ポルトガルの旅から

 

  井  寿  紀

 

 ベースキャンプは3ヶ所

昨年(2005)の6月に、女房と二人でスペインとポルトガルに行った。いろいろなところに行ってみたかったのだが、何せ国が広いので容易ではない。重い荷物を持って鉄道を使って渡り歩くのは、前に行ったイタリアで懲りた。荷物もやっかいだが、毎日のようにホテルを替わるのも大変だ。

そこで今回はスペインのバルセロナとマドリッド、ポルトガルのリスボンでそれぞれ3泊し、その間は飛行機で移動することにした。そしてこの3ヶ所をベースキャンプにして、そこから日帰りで行ける範囲に行くことにした。これなら空港とホテルの間にタクシーを使えば、重い荷物を持ち歩かないで済む。本当はアルハンブラ宮殿なども行きたかったのだが今回はあきらめることにした。

 

これ、何語?

先ず、パリで飛行機を乗り継いでバルセロナに入った。

バルセロナ空港の案内板は3ヶ国語で書かれていた。その真ん中が英語だったので、それを見ながら歩いた。スペイン語はよく知らないが、英語の下がスペイン語のようだ。ところで一番上は何語なんだろう? イタリア語やフランス語と似ているが違う。「これ、何語?」 その時は見当もつかなかった。

空港でバルセロナの地図を買った。ホテルの部屋でそれを広げると、どうも様子が変だ。もちろん外国の地名なので知らない言葉だらけなのだが、「公園」、「広場」、「通り」などの言葉がスペイン語と違うのだ。「何故だ?」 これもその時はまったく分らなかった。

次の日ピカソ美術館に行くと、2ヶ国語の説明パネルが掲示されていた。一方はスペイン語だが、もう一方が何語か分らない。スペイン語と似ているが違う。スペイン語のほうに「padre()」、「madre()」と書いてあるので、ピカソの両親の説明だなと思ってもう一方を見ると、「pare」、「mare」と書いてある。フランス語でもイタリア語でもない。「これ、何語?」

日本へ帰ってから調べて驚いた。バルセロナ近辺のカタルーニャ地方では、スペイン語と並んでカタルーニャ語が公用語なのだという。現地で何語か分らなかったものはすべてカタルーニャ語だったのだ。

スペインのウェブサイトには、言語の選択が「カスティーリャ語、カタルーニャ語、英語、・・・」となっていて、スペイン語がないものがある。このカスティーリャ語というのが実はスペイン語のことなのだ。マドリッド付近のカスティーリャ地方で使われていたカスティーリャ語がスペインの標準語になりスペイン語と呼ばれるようになった。しかし、カタルーニャではカタルーニャ語も公用語として使われているので、両者を区別するときは現在でもスペイン語のことをカスティーリャ語と呼んでいるのだ。

カスティーリャとカタルーニャはもともと別の国だったが、15世紀の末にカスティーリャの女王イサベル1世とアラゴン(カタルーニャにあった国)の国王フェルナンド2世が結婚して一つになった。この時から言葉も現在のスペイン語に統一されたものとばかり思っていたら、そうではないのだ。

18世紀始めのスペイン継承戦争は、スペイン国内ではカスティーリャの中央政府とカタルーニャの主導権争いでもあったという。このときカタルーニャは破れ、カスティーリャに服従させられた。そして、20世紀になってマドリッドのフランコ独裁政権はカタルーニャ語の使用を大幅に制限したという。

両地方の対立は15世紀以前から延々と続いているのだ。そして現在もカタルーニャはカタルーニャ語の普及に努め、カスティーリャの中央政府に対抗している。バルセロナ空港の案内板の一番上の言語がカタルーニャ語だったのもそのためだ。

現在カタルーニャ州の全スペインに対する割合は、面積は6%、人口は16%だが、工業生産は25%だという。マドリッドの政府と張り合うだけの力を充分に持っているのだ。

オリンピックも、バルセロナがマドリッドに先行して1992年に開催した。バルセロナのあと訪れたマドリッドでは、政府の建物に「2012年マドリッドでオリンピック開催」と書かれた大きな垂れ幕が掲げられていたが、今回も誘致に失敗した。マドリッドはバルセロナに対し口惜しい思いをしているのだろう。

ヨーロッパの国は遠い昔からのしがらみを引きずっていることを改めて感じた。われわれは日本の公用語が一つであることを先人に感謝しなければならない。

 

ピカソの原点

バルセロナの旧市街の一角にピカソ美術館がある。昔、フランスの映画監督アンリ-ジョルジュ・クルーゾーが作った「ピカソ 天才の秘密」という映画を見たときから、この人のほとばしり出るような創作力には大変畏敬の念を抱いているので、バルセロナでは真っ先にこの美術館に行った。

本格的な画家になってからのピカソの絵は、パリのピカソ美術館などほかでもずいぶん見た。これらはピカソが20代になってからのものだ。ここではそれより前に描かれたものを見ることができる。少年時代のピカソの絵である。ちゃんとしたキャンバスを買うカネがなかったのか、木の切れっ端のようなものに描いたものが多い。しかし、その描写力はやはり並みのものではない。その後の抽象絵画とは違い、極めて写実的なものばかりだ。ピカソの原点を知りたければ是非ともこの美術館に行く必要がある。

 

ガウディ・・・いたずらとはったりの天才?

バルセロナには、ガウディという有名な建築家の作品が町のいたるところにある。そのいくつかを訪れた。

サグラダ・ファミリアという教会は1882年に着工したというが、いまだに建築中である。100メートル以上の高さの鐘楼が何本も建っていて、その前に立つとその高さと異様な姿に圧倒される。塔の上にエレベーターで昇るとバルセロナの町を一望の下に見渡せた。しかし、着工からすでに100年以上経っているのに教会の内部はまだほとんどできていない。そして、今後さらに170メートルの高さの塔を追加するのだという。いったいいつになったら完成するのだろうか。

しかし驚いてはいけないのかもしれない。パリのノートルダム寺院も、ミラノのドゥオーモも、着工から現在の姿になるまでには何百年もかかっているという。教会の建築とはそういうものなのかも知れない。

ガウディが作った建造物があるというグエル公園にも行ってみた。そこには、波打った背もたれが延々と続くベンチがあった。また、街なかにあるカサ・ミラという6階建ての共同住宅の中にも入ってみた。この建物は外壁が丸みを持って大きく波打っている。

ガウディという人はこの地方に生まれた建築の天才だそうだが、これらの建造物の価値は私にはよく分からない。しかし大変いたずら心のある人だったのではないかと思う。グエル公園の変わったベンチやおとぎ話の国にあるような建物、そして丸みを帯びた共同住宅の外壁などにそれを感じた。建築の世界でもいたずら心は大事なのではなかろうか? 

そして、もう一つ感じたのははったりの強さだ。サグラダ・ファミリアの前に立つ人をその威容で圧倒し畏怖の念を抱かせるのは一種のはったりだろう。しかしすべての教会建築ははったりのかたまりかも知れない。訪れる信者を威圧し、神の力の前にひれ伏させることができなければ教会建築としては落第だ。

ガウディの建造物の価値は私にはよく分らない。しかし、ガウディはいたずらとはったりの天才だというのが私の勝手な判定である。両方とも人を驚かす点では同じだ。

  

1キログラム270円のサクランボ

バルセロナにはランブラスという変わった通りがある。道路の中央が広い歩道になっていて、花、小鳥、新聞、食べ物などを売る小屋が並んでいる。小屋と小屋の間では大道芸人がいろんな芸を繰り広げている。そして歩道の両側が狭い車道になっている。何回もこの通りを往復したが、ここはバルセロナ一の繁華街のようでいつも人で溢れていた。

この通りのからちょっと入ったところにボケリア市場という食料品の市場があり、肉、野菜、果物など、あらゆる食材を売っていた。肉や野菜を買ってもしょうがないので果物を買うことにした。サクランボが1キログラムで2ユーロ(270)だった。1キログラムが1万円以上する日本のサクランボに比べると30分の1以下だ。ほかの果物では、オレンジが安くてうまかった。気の向くままに歩いて地元の市場でうまそうなものを買って帰り、ホテルの部屋で食べるのもいいものだ。

まだ6月上旬だったのに連日35度の暑さで、その上乾燥しているので歩き回るとすぐのどが渇いた。これはあとで行ったマドリッドやリスボンでも同じだった。そのため毎朝近所のスーパーで安い水を買って持ち歩いた。そして途中で休んではビールを飲んだ。スペインのビールは安くてうまかったが、これは空気が乾燥していたためも大きいだろう。ホテルへの帰りがけにはスーパーで安いビールを買って、ホテルのミニバーの高いビールと入れ替えておいた。

 

裏通りでスケッチ

古い街並みをスケッチすることが今回の旅行目的の一つだった。3年前から水彩画のスケッチのグループに入り、東京都内をうろついてスケッチを描いている。このグループの展覧会が年に2回あり、毎回10点ほど作品を用意する必要がある。この旅行でそのうちの何点かを描きたいと思っていた。

ヨーロッパの古い街は、どこへ行ってもスケッチの題材には事欠かない。バルセロナでは旧市街のレイアール広場のそばの狭い裏通りを描いた。描いていると、汚い格好をした浮浪者のような男が寄ってきて、後ろに立ってじっと見ている。気持ちが悪いので早く行って欲しいのだが、なかなか動こうとしない。そのうち、「日本人か?」と聞くので、「そうだ」と答えると、やっと行ってくれてほっとした。こういうことはスケッチをしているとよくあるが、腹を決めて描き続けるしかない。

リスボンの旧市街の通りで描いていた時は、アイルランド人の船乗りだという男が話しかけてきた。日本に行ったことがあるという。サセホ、サッポロなどと思い出す地名を次々と挙げていたが、突然、「ワタシ アナタヲ アイシテマス」と日本語で言い出したのには驚いた。日本のどこかの港に昔仲良くなった女がいたらしい。

 

3人のゴヤ?

マドリッドでは、まずプラド美術館に行った。プラド美術館はスペイン最大の美術館で、ここへ行くことが今回の旅行の主目的の一つだった。大美術館の常で大変な数の絵が展示されている。そのため、パンフレットでベラスケス、ゴヤ、ムリリョ、エル・グレコ、ルーベンスなどが展示されている部屋を探し、そこに的を絞って見ることにした。

ところが見終わって外へ出てからゴヤの晩年の作品をまったく見てないことに気がついた。ゴヤの作品は一通り展示されているはずなのに変だと思って、ホテルに帰ってからもう一度パンフレットを見直すと、ゴヤの展示室の一部を見落としたことが分った。これではスペインに来た主目的が果たせないと、翌日再度プラド美術館に行った。時間とカネを無駄にしたが、おかげでゴヤの絵をじっくり見ることができた。

ゴヤは見れば見るほど不思議な絵描きだ。ゴヤについてはあまりよく知らないが、ゴヤの絵には少なくとも三つのまったく違うグループがあるように思う。

若いとき描いたタピスリー(壁掛けの織物)の下絵は、明るく淡い色調で、市民の日常生活が描かれている。若い男女が遊んでいるところの絵が多く、題材も明るく軽やかだ。

次に肖像画のグループがある。国王のカルロス4世とその家族や、貴族たちの肖像画である。依頼人が写真のなかった時代に自分の姿を後世に残すために描かせたものなので、もちろん本人そっくりに描かれているのだろう。しかしゴヤの絵のすごさは外面的に似ていることだけではない。男の肖像からはその男の有能さ無能さ、権勢欲の強さなどが伝わってくる。女性の肖像からはその人の人柄が分り、ゴヤがその女性を好ましく思っていたかいなかったかが伝わってくる。ここまで心の中をえぐり出されると描かれる方はたまったものではない。しかし、当人にそれを読み取る力がなければ別に何とも思わなかったのかも知れない。

そして第三に、晩年のいわゆる「黒い絵」の一群がある。真っ黒い画面の中で黒い服をまとった老婆が薄気味悪く笑っているような絵だ。中には血だらけになって自分の子を食べている悪魔の絵もある。この時代にはゴヤは聴覚障害になっていたというが、精神にも異常を来たしていたのではなかろうか。

これら三つの作品群を描いた絵描きが同一人物だとはとても思えない。それほどこれらの作品群には相互に距離がある。これもゴヤという天才の多面性を示しているのだろう。

このゴヤが最晩年には清純な若い女性を描いている。ゴヤという男は凡人の理解を超える複雑怪奇な天才だという思いを強くしてプラド美術館を後にした。

 

ヘミングウェイ行きつけのレストラン

旅行先でその土地の名物料理を食べるのも楽しみの一つだ。

マドリッドにはボティンという古いレストランがある。1725年の開店で、ギネス・ブックで世界最古のレストランとして認定されているそうだ。アーネスト・ヘミングウェイがこのレストランの常連だったという。ヘミングウェイには、「誰が為に鐘は鳴る」、「日はまた昇る」など、スペインを舞台にした小説が多い。長期間に渡ってスペインに滞在したときにここへよく行ったのだろう。

このレストランに行き、ここの名物料理の仔豚の丸焼きに挑戦することにした。街の市場に行くと仔豚を一匹丸ごと売っている。鼻も耳も足もちゃんと付いている。ボティンでは一人前を頼んだので、まさか一匹出てくることはないだろうが、鼻や耳が付いているものが出てきたらいやだなと思っていた。こっちの心配が通じたのか、出てきたのは幸いにして胴体のところだったので一安心した。

隣のテーブルでアメリカ人の一家と思われる人たちが賑やかに食事をしていた。私のところに仔豚が出てくると、年配の男がそれを見つけて、「オーッ!」と言って両手の親指を立てて合図を送ってきた。後でその男にも同じものが出た。派手なジェスチャーは、「ここでは、それを食わなきゃ!」という意味だったようだ。

われわれ夫婦は地階の部屋に案内されて、そこで食事をしていた。そこは元ワイン・セラーだったものを改造したという。低い天井とレンガの壁は昔のワイン・セラーの面影をとどめていた。

われわれのテーブルのすぐ脇に小さな出入口があって、「出口ではありません」と書いてある。始めのうちそこを出入りする人はいなかったが、そのうち一人二人とその出入口から下の方へ降りて行く。いったい何があるんだろうと薄暗いところを覗き込むと、そこには瓶らしきものがぎっしりと並んでいた。これはワインの貯蔵庫に違いないと、私も行ってみた。そこはかなりの広さで、ずらっと並んだ棚に分厚い埃で覆われたワインの瓶がぎっしりと並んでいた。レストランに改造したワイン・セラーの下に、さらにもう一つのワイン・セラーがあったのだ。

 

有名ダンサーのフラメンコを見る

スペインと言えばフラメンコが有名なので、フラメンコのショーを見ることにした。フラメンコはセビーリャなどがあるアンダルシア地方が本場だそうだが、そっちの方には行かないのでマドリッドで見ることにした。インターネットで調べると、コラル・デ・ラ・モレリアという店があってブランカ・デル・レイという有名なダンサーが出演しているという。ヘミングウェイ、ピカソ、ケネディ大統領なども訪れたことがあるそうだ。

フラメンコは前に一回見ただけで、詳しいことは知らない。従って、何を見ても値打ちが分らないのだが、この店がいいらしいので日本からインターネットで予約を入れておいた。土曜日だったせいもあるかも知れないが店は超満員で、予約は必須のようだ。店の玄関にはマレーネ・ディートリッヒ、ジーナ・ロロブリジーダ、ロック・ハドソン、リチャード・ギアなど、この店へ来たスターの写真が壁一面に貼ってあった。

前座では、女性二人と男性一人のダンサーが激しく床を踏み鳴らして踊った。暗くてよく見えなかったがたぶん汗と埃を近くの客席に振りまいていたのだろう。

休憩のあと、かなり年配と思われる女性がおそろしくしずしずと舞台に登場して薄暗い舞台の片隅でうずくまっていた。こんな人に激しいフラメンコが踊れるのだろうかと思ったら、それがブランカ・デル・レイだった。いったん踊り始めると、死人が突然生き返ったかのようで、その激しさは前座の人たちに決して負けなかった。フラメンコの技術的なことはまったく分らないが、前座の人に比べると何となく芸の奥深さを感じさせた。

食事をしてショーを一通り見たので帰ることにした。しかしまだ席を立つ人は少なく、予約なしでショーだけを見に来た人が席が空くのを待っていた。店が開くのは夜8時半で遅い予約は夜中の12時からなので、たぶん夜中の2時頃まではやっているのだろう。スペイン人の宵っ張りに付き合うのは大変だ。

玄関ホールのスターの写真をバックにして店の人に写真を1枚撮ってもらい、コラル・デ・ラ・モレリアを後にした。

 

ここからはバス!

マドリッドから日帰りでトレドに行った。マドリッドも古い町だが、近年大発展を遂げたところなので、古い街並みが残っていると言っても限度がある。トレドはカスティーリャの王宮がマドリッドに移る前に王宮があったところなので、マドリッドよりさらに古い街並みが残っていそうだ。そのためここで昔のスペインの面影を探すことにした。インターネットでスペインの国鉄の時刻表を調べると、マドリッドからトレドまでは鉄道で1時間半ぐらいだったので、鉄道で行くことにした。

カスティーリャの平原を列車は順調に走っていった。なだらかな丘陵が続き、オリーブの木がところどころに生えていた。ウェブページを印刷した時刻表で途中駅を確認しながら安心して乗っていた。ところがトレドの一つ手前の駅で、何を言っているのかよく分からない車内放送があり、全員列車から降ろされてしまった。駅員に、「トレドへ行きたいんだ」と言うと、「ブス!(バスのスペイン語)」と大声で言う。日本の女性が聞いたら気を悪くしただろう。しかたなく鉄道が用意したバスに乗ると30分ほどでトレドの駅に着いた。

始めは故障か事故でもあったのだろうと思っていたが、トレドに着くと線路が工事中でどうも様子がおかしい。しかし何が起きているのか現地では何も分らなかった。帰国後調べると、広軌の鉄道線路を標準軌に変更中なのだそうだ。スペインでは従来広軌が中心だったが、EUの統合でほかの国との鉄道の相互乗り入れを進めることになり、順次標準軌に切り替え中なのだという。

そんなことは現地ではまったく分らなかったが、とにかく帰りの足が心配だった。またバスで次の駅まで運んでくれるのだろうが、バスがいつどこから出るのか、英語の説明はおろかスペイン語でもまったく説明がない。トレドの駅には英語が分りそうな駅員もいない。どうにかなるだろうとトレドの街を一日歩き回っていると、カテドラルの広場の脇にインフォメーションの印を見つけた。そこで英語を話す女性に聞いたところ、時刻表に載っている発車時刻までに駅に行けばバスで次の駅まで運んでくれると言う。これを聞いて一安心した。

列車の時刻表を見て駅へ行けば、ほぼ予定の時刻までに目的地に運んでくれる。そのため、一部バスになることなど時刻表にも駅にも何の表示もなく、切符を買うときも何も言ってくれない。「結果よければすべてよし! わずらわしい説明など不要!」というのがスペイン流のようだ。こういう点はイタリアに似ている。やはり民族的に近いためだろうか。日本人ももう少しスペイン流、イタリア流を学ぶ必要があるかも知れない。重要なのは言い訳ではなく結果である。

 

16世紀にタイムスリップ

トレドの旧市街は直径が1キロメートルぐらいの小高い丘の上にある。20分も歩けば端から端まで行ってしまう小さな街だ。そして東、南、西の三方が、湾曲して流れるタホ川に囲まれていて、これが天然の濠になっている。地図を見ると北側には城壁の跡らしいものが見える。街が完璧な要塞になっているわけだ。

この小高い丘の上全体が古い建物と迷路のような小道で覆われている。いや、小道というよりも建物と建物の隙間と言った方がいいかも知れない。車はおろか人がすれ違うのもやっとというところが多い。しかも坂が多く、階段になっているところもある。そしてまともな十字路などほとんどなく、曲がり角は5差路、6差路など、変な多角形だらけだ。現地で買った、道路の名前がすべて出ている地図を片手に歩いたが、それでも何回も道に迷った。ヨーロッパの古い町は道が分りにくいところが多いが、これほど酷いところは初めてだ。

トレドは西ゴート族やイスラム教徒の時代以来、カスティーリャ地方最大の都市だった。しかし16世紀にフェリペ2世が首都をマドリッドに移し、トレドの繁栄は終わった。従って現在のトレドの街並みはたぶん16世紀からあまり変わってないのだろう。鉄道や自動車道路、そして近年の建物はすべて旧市街を囲むタホ川や城壁の外にある。旧市街は16世紀に塩漬けにされたまま今日まで残っている。街を歩くと16世紀にタイムスリップしたような感覚に襲われる。

 

 

 

大地震のあかし

リスボンの旧市街はトレドの旧市街とは大違いで、幅の広い道が整然と碁盤目のように走っている。リスボンは1755年に大地震に襲われ、その後の再建時に区画整理をしたためだそうだ。このように町全体が再建されたのは、地震で壊滅状態になったためだろう。

この時のリスボンの地震のマグニチュードは9と推定されている。関東大震災のマグニチュードは7.9なので、リスボンの地震はそれより1以上大きい。マグニチュードが1大きいということは、地震のエネルギーが約30倍ということなので、リスボンの地震のエネルギーは関東大震災のエネルギーより30倍以上大きかったことになる。市街地が壊滅状態になったこともうなずける。再建からは200年以上経っているが、それでもヨーロッパのほかの町の旧市街に比べればはるかに新しい。ほかの都市に比べ道路が整然としているわけだ。

リスボンにはカルモ教会という建物がある。大地震で屋根が落ち柱だけ残った状態をそのまま保存している。現在、中は博物館になっている。市街地を再建すると同時に、後世への戒めとしてこの教会だけ破壊されたままの姿で残したのだろう。

ヨーロッパには地震に会った経験がない人が多く、日本でほんのちょっとした地震に出くわすと、青くなって「おーっ、神様!」と叫んだりする。しかし、ヨーロッパにもこんなにすごい大地震があったのだ。

 

ファドが聞こえてきそうな裏通り

リスボンには小山の上にサン・ジョルジェ城という城跡がある。そこへ行ってみると、大半はいたんだ城壁が残っているだけだった。中には立派な城壁もあったが、ほかの部分に比べてきれいすぎるので最近修復したものと思われる。崩れかけた城壁の方が風情があっていいので、それを一枚スケッチした。ここには紀元前のローマ時代から要塞があり、その後西ゴート族やイスラム教徒が城を築いたという。リスボンは昔から軍事上の重要拠点だったようだ。

城跡のある小山から海岸まで歩いて下りた。途中は階段だらけの細い道で、両側にはきたない建物がぎっしりと建ち並んでいる。頭上には洗濯物が干してある。ところどころに野菜や魚を売っている店屋があり、貧しい人たちの生活の匂いが漂ってくる。ポルトガルの演歌であるファドの悲しげな歌声が聞こえてきそうだ。

海へ向かって下っていく狭い階段は、昔「望郷」というフランス映画で見たカスバの街を思い出させた。ここには映画のカスバのようにギャングは潜んでないかも知れないが、どうも旅行者が迷い込むところではないようだ。何事もなく海岸の通りまで出ることができてほっとした。

海岸沿いに歩くと、「くちばしの家」という壁一面にピラミッド状の突起がある変わった建物があった。16世紀に建てられたというわりにはきれいだと思ったら、1755年の大地震で壊れ、近年修復したのだという。

その建物の前にテーブルが並んでいて、レストランになっていた。ちょうど昼飯時だったのでそこで食事をした。そこのイワシが新鮮で、そのうまさが今でも忘れられない。高級レストランでも何を食べたか覚えているものは少ないのに、ここのイワシは今でもよく覚えている。期待が大きすぎるとがっかりするせいもあるかも知れない。

 

定年後はポルトガルで?

食べ物はスペインも安いと思ったが、ポルトガルではさらに安く感じた。OECD20056月の統計によると、ポルトガルの物価は日本の60%だという。西ヨーロッパ諸国の中では一番安いようだ。

帰りのJALの飛行機は、当時事故が続いたせいかがらがらに空いていた。手持ち無沙汰なスチュアデスにポルトガルに行ったと話すと、真剣な顔になって、定年になったら日本で年金で暮らすのは大変なので物価の安いポルトガルに住みたいと思っていると言う。二、三年ごとに違うところに住むのが夢なのだそうだ。

ヨーロッパ便のスチュアデスはヨーロッパ中旅行しているのかと思ったら、現地で二、三日休みがあっても、不測の事態を避けるため飛行機を使った旅行は禁じられているので、あまり旅行はしてないと言う。ポルトガルにもまだ行ったことがないそうだ。

数少ない体験からだが、スペインに比べるとポルトガルのレストランや店屋の方が英語を話す人が多いように感じた。われわれが行ったレストランのウェイターは完璧な英語を話したし、空港でオリーブ・オイルなどを買った食料品屋のオバチャンもちゃんとした英語を話した。これはポルトガルが人口約1,000万人の小国なだけに、外に向かって商売せざるを得ないためではなかろうか? この点でも外国人にとってポルトガルは住みやすい国のようだ。

(完)


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