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オーム社 技術総合誌「OHM20042月号 掲載   PDFファイル [(株)オーム社殿のご提供による]

 HEDLINE REVIEW   情報通信

酒井 寿紀 (さかい・としのり)

酒井ITビジネス研究所 代表 

 

トロンとマイクロソフトの歴史的誤解

 

Q トロンとマイクロソフトの最近の動向を教えてください 

 

2003年の925日にマイクロソフトとトロンの提携が発表されました。その内容は、マイクロソフトの組み込み用OS(オペレーティング・システム)であるWindows CEとトロンのOSの核であるカーネルを組み合わせて新しいOSを開発するというものです。その後、この提携に関する記事が新聞・雑誌を賑わせましたが、その中には不適切な記述や誤解を招く表現が多いように思います。ここではそのいくつかを取り上げてみたいと思います。

 

Q 当時、「トロンはアメリカの圧力を受けて頓挫した」と言われていますが、これは本当なのでしょうか

 

トロン(TRON)というのは、1984年に、現在の東京大学の坂村健教授によって提唱されたプロジェクトの名称で、“The Real-time Operating system Nucleus”の略です。このプロジェクトは、当初、表1に示す五つの計画から成っていました。

 

表1  トロン・プロジェクトの当初の計画とその後の普及状況  
No. 名 称 内  容 普及状況
1

ITRON (I=Industrial)

組み込み用OS仕様

2

BTRON (B=Business)

パソコン用のOSの仕様

×
3

CTRON (C=Central)

情報処理用のOSの仕様(注)

×
4

MTRON (M=Macro)

ネットワークの仕様

×
5

TRONチップ

マイクロプロセッサの仕様

×

(注) 現在の言葉で言えばサーバー用のOSの仕様

 

このうち、BTRONが、1989年にアメリカのUSTR*1によって非関税障壁の一つとして取り上げられました。しかし、USTRBTRONそのものに反対したわけではなく、旧通商産業省や旧文部省がBTRONを小中学校の教育用パソコンの標準OSに選定しようとしたことに反対し、市場の力によってどの製品が成功するかが決定されるべきだと主張したのです。

ほかの製品より安くて高性能で、アプリケーション・ソフトや周辺機器の品揃えが豊富になることが見込まれたら、学校の標準に採用されなくても普及したはずです。しかし、関連するソフトやハードが豊富に安く手に入るようになるためには、日本だけでなく、全世界で普及することが不可欠です。日本国内だけでの普及では、開発費の負担や量産効果、アプロケーション・ソフトや周辺機器の品揃えの面で、全世界で普及しているパソコンに到底太刀打ちできないからです。

日本の一部の人を除いて、BTRONが全世界で普及するものになるとは思わなかったことが、普及しなかった最大の原因です。たとえアメリカの圧力がなく、日本政府の支援で一時的に多少普及していたとしても、長期的には同じ結果になったでしょう。アメリカの圧力はそれを多少加速したにすぎません。

 

 

Q 「トロンは情報家電などの分野で業界標準になっている」というのは正しいのでしょうか

 

「情報家電」を、家庭で高度な情報を扱う、パソコン以外の製品とすると、まず、PDA*2、ビデオゲーム、携帯電話があります。しかし、世界中のほとんどのPDAOSはマイクロソフトかパームのものです。シャープは独自のOSを使っていましたが、最近はLinuxを使うようになりました。

ビデオゲームについては、ソニー、任天堂、マイクロソフト、それぞれ独自のOSを使っています。

携帯電話については、日本では確かに多くのものがITRON(表1)系のOSを使っています。しかし、ガートナー社によれば、全世界で販売されている携帯電話のOS80%以上はシンビアン(Symbian)のものだといいます。ITU*3の統計によれば、2002年末の日本の携帯電話の利用者数は全世界の7%にすぎないので、たとえ日本でのシェアが圧倒的に高くても、全世界から見ればたかが知れているわけです。

OSやマイクロプロセッサなどの基幹製品については全世界でのシェアが重要です。これらは世界中で共通に使えるものなので、全世界でのシェアが高い製品が圧倒的に有利な戦いを展開できるからです。

そして、日本でも、NTTドコモの立川敬二社長は、200312月に、第3世代の携帯電話用にはシンビアンのOSLinuxを推奨すると表明しました。携帯電話の機能が高度化すると、これらの周辺ソフトが揃っているOSの方が望ましく、また、全世界で事業を展開するには、これらの世界中で使われているOSの方が有利だからだと思われます。すでに富士通は、NTTドコモ向けの第3世代の携帯電話にシンビアンのOSを使っています。

このような状況なので、情報家電の世界でITRON系のOSが圧倒的に優勢だというわけではありません。ITRON系が優勢なのは、日本のAV機器、自動車、家電品、計測器など、どちらかというと高度な情報処理を必要としない分野です。

 

Q 「マイクロソフトは自社技術路線を転換してトロンと提携した」というのは正しいのでしょうか

 

マイクロソフトの現在の繁栄の元になったDOSは、1981年に同社がシアトル・コンピュータ・プロダクツから5万ドルで買い取ったものです。そして、2003年同社は検索エンジンの「グーグル(Google)」を買収しようとしたと報じられました。このように、マイクロソフトは決して自社技術路線にこだわる会社ではありません。

マイクロソフトは、ビジネスに必要なものは、必要とあれば、外部から調達してきました。したがって、Windows CEのカーネルにITRONを使うことにしたのは路線変更とは言えません。

 

Q 「トロンとマイクロソフトは歴史的和解をして今回の提携に至った」というのは本当でしょうか

 

「和解」というのは、戦争でも裁判でも、戦っていた当事者同士が戦うのをやめて握手することです。しかし、マイクロソフトとトロン陣営は戦っていたことがあるのでしょうか? パソコン用のOSの世界ではBTRONが本格的に市場に出たことはありませんでした。CTRON(表1)は、元はメインフレームが使われていた分野をねらったOSなので、1980年代のマイクロソフトにとっては関係のない世界でした。

広い意味で同じである市場でぶつかったのは、組み込み用OSの世界だけです。しかし、ここでも、マイクロソフトが使われているPDAではITRONは使われていません。また、ITRONが使われている携帯電話の世界にマイクロソフトが参入したのは2002年で、同社のOSを使った携帯電話が世の中に出始めたのは2003年です。したがって、携帯電話で競合するとしても、それは今後の話です。

そして、ITRONOSが普及しているAV機器などの分野ではWindows CE系のOSはほとんど使われていません。このように、両者はどの市場をとっても今までに本格的な競合関係にあったことはありません。したがって、和解の必要などなかったのです。

 

 

Q 最近、トロンが新しいソフトを公開すると聞きますが、今後トロンはどう変わるのでしょうか

 

ITRONは登場以来、ずっとOSの仕様であり、OSのソフトウェアそのものではありませんでした。その仕様に基づいてどういうOSを作るかはユーザーの自由で、それを「弱い標準化」と称していました。

そのため、ITRONの仕様に準拠したOSが多数存在し、業界全体で大変な重複開発になっていました。また、これはOS間の互換性の障害になり、周辺ソフトの市場形成の妨げにもなっていました。一方、組み込み用OSを使う機器は、ネットワーク接続、ファイル管理などでますます高度な情報処理を必要とするようになり、周辺ソフトの豊富な品揃えに対するニーズが従来以上に高まってきました。

そこで、トロンは従来の方針を変更し、“T-Kernel”というOSの核を無料で提供し、周辺ソフトや開発ツールの市場の形成を促すようにしました。つまり、ほかのソフトウェア製品と同じような、「強い標準化」に変身したのです。

組み込み用OSには、マイクロソフトのWindows CEのように、情報処理には強いがリアルタイム性能に問題があるもの、従来のリアルタイムOSのようにその逆のもの、Linuxをベースにしてリアルタイム性能の改善を図ったものなど多数あります(表2) 情報処理機能の充実とリアルタイム性能の向上という相容れない要求を同時に実現するのは難しく、二つのOSを組み合わせてこれを実現しようという試みもいろいろ行われています。今回のトロンとマイクロソフトの提携もそういう試みの一つです。

 

表2 主な組み込み用OS(全世界での出荷高順    
順位 ベンダー名 代表的製品名 特  徴
1

マイクロソフト(Microsoft)

Windows CE

情報系

2

ウィンド・リバー・システムズ(Wind River Systems)

VxWorks

リアルタイム系

3

シンビアン(Symbian)

Symbian OS

情報系

4

パーム(Palm)

Palm OS

情報系

5

QNX

Neutrino

リアルタイム系、Linux互換(注2

6

エニア・データ(Enea Data)

OSE

リアルタイム系

7

グリーン・ヒルズ・ソフトウェア(Green Hills Software)

INTEGRITY

リアルタイム系

8

リナックスワークス(LynuxWorks)

LynxOS

リアルタイム系、Linux互換(注2

9

モンタビスタ・ソフトウェア(MontaVista Software)

MontaVista Linux

リアルタイム系、Linuxベース

10

アクセラレーテッド・テクノロジー(Accelerated Technology)

Nucleus Plus

リアルタイム系

(注1) 順位については Venture Development Corporation の資料 "Winds of Change: VDC Finds Embeded OS Market Share Shifts"( http://www.vdc-corp.com/embedded/press/03/pr03-23.html )による。

[組み込み用OS・関連製品・関連サービスについて、ベンダーごとに合計した2002年の全世界での出荷高の順位]

(注2) Linuxのアプリケーション・プログラムが使える。

 

ITRONは今回の変身で、初めて“T-Kernel”という一つのOSになり、性能、信頼性、互換性、移植性、開発環境などがようやく一つに定まりました。今後、周辺ソフトも順次充実して行くことと思われます。世界に多数ある組み込み用OSの戦場に“T-Kernel”が新たに参入し、新しい戦いがこれから始まるわけです。

 

*1  US Trade Representative、米通商代表部

*2  Personal Digital Assist、個人用の携帯情報端末

*3  International Telecommunication Union、国際電気通信連合

 


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