home > Tosky's Archive > Archive 2004年 >
「Pen・友」第32号(2004年10月発行)掲載 PDFファイル
ギ リ シ ア 語 の 旅 路
酒 井 寿 紀
はじめになぞなぞをひとつ。「エロ、ポルノ、ミュージック、コーラス、アイデア、プログラム、グラフ、ライオン。これらに共通なもの、な〜に?」 答えは「みんな、もとはギリシア語」
どのようにしてこんなに多くのギリシア語が日本語の中に入って来たのだろうか? 以下はギリシア語が地球の反対側の日本にたどり着くまでの旅路の話である。
まったくの門外漢の小生がひまを見つけて調べたものなので、まだよく分からないことも多い。大胆(乱暴?)な推測も混じっているので、中には間違がっているものもあるかも知れない。もし間違いを見つけられたらご教示頂ければ幸いである。
現在世界中で使われている言葉には、ギリシア語から出たものがたくさんあるが、どの言葉がそうなのだろうか? それを見つけだす簡単な方法はないものだろうか? 日本語の中から、ギリシア語出身の言葉を見つけだすのは難しい。しかし、英語、フランス語、ドイツ語などの中からいくつかのギリシア語出身の言葉を見つけだすことはかなり容易にできる。それは簡単なルールがあるからだ。まずそれをご紹介しよう。
ルール1・・・英語、フランス語、ドイツ語などで、「f」の音を「ph」で表す言葉はギリシア語から来たものである。
例えは英語の、「phase(相)」、「phrase(句)」、「photograph(写真)」、「sphere(球)」、「nymph(精霊)」、「pharmacy(薬屋)」、「phantom(幽霊)」、「physics(物理学)」、「philosophy(哲学)」など。
これらの「ph」はギリシア語の「φ(ファイ)」を書き換えたものだ。現在のギリシア語では「φ」の発音は「f」なのに、なぜ英語などでは「f」でなく「ph」にしたのだろうか?
古代ギリシア語では「φ」の発音は「f」でなく、有気音の「p」(簡単に言えば、強い「p」)だった。無気音の「p」(簡単に言えば、弱い「p」)に対しては、おなじみの「π(パイ)」という文字が別にあった。
最初にギリシア語から大量に言葉を取り入れたのはラテン語である。その際、ギリシア語の「π」にはラテン語の「p」を当て、「φ」は「ph」で表わしたのである。古代ローマの人たちは「p」と「ph」をちゃんと区別して発音していたという。そして、これらのギリシア語が英語、フランス語、ドイツ語などに入ってきた時、この「ph」の表記がそのまま引き継がれた。
ところがその後、ギリシア語の「φ」の音が「f」に変わってしまい、ラテン語でも「ph」が「f」の音で読まれるようになった。そして、英語、フランス語、ドイツ語などでも、同様に「ph」を「f」と発音するようになった。そのため、これらの言語では「f」の音を表わすのに「f」と「ph」の2通りの表記ができてしまったのだ。
「ph」を使う言葉がすべてギリシア語出身なら、「Philadelphia」はどうだろうか? 「phil」はギリシア語の「philos(友達)」で、「adelphia」は「兄弟」のことである。つまり「Philadelphia」とはギリシア語で「兄弟愛」を意味する。この名前は、米国のこの地方を開拓したウィリアム・ペンが付けたもので、この地方のオランダ人、スウェーデン人、アメリカ原住民などの間での友愛の大切さを訴えたものだそうだ。
では名前の「Philip」はどうだろうか? これはキリストの12使徒の一人の名前だったので、その後、ヨーロッパ中でポピュラーな名前になった。この名前のもとは新約聖書で、それは当初ギリシア語で書かれていたことを考えると、「ph」が使われていることが頷ける。
では、ラテン語を源とするイタリア語ではどうだろうか? 面白いことに、イタリア語は英語などと違い、「ph」をみんな「f」にしてしまっている。たとえば、英語の「photograpf」は「fotografia」、「phylosophy」は「filosofia」という具合である。いわばラテン語の親類の子供のような英語、フランス語、ドイツ語などがラテン語の表記をちゃんと引き継いでいるのに、ラテン語の直系の子供であるイタリア語は、親のせっかくの意図を無視して、「ph」を「f」に変えてしまったのだ。
これは、イタリア人の、規則にとらわれない、実用を重視する国民性のためなのだろうか? それもあるかも知れないが、それだけではなさそうだ。
言葉は常に変化するものである。変化する方が自然なのだ。従って、ラテン語が変化してできたイタリア語が、ラテン語の表記を時代とともに変えていくのはごく自然なことなのだ。一方、英語やドイツ語にとって、ラテン語からの外来語はあくまでも外から取り入れた少数の借りものである。一般的に、自国語を変化させる力はあっても、こういう少数派の言葉を変化させる力はあまりない。もとイギリスの植民地だった国で、今でも昔の英語が使われていたり、日本人の移民が、移民してきた何世代も前の時代の日本語を今も使っていたりするという。英語やドイツ語の中のラテン語も、これらの例と同じように、ラテン語から持ち込まれたまま塩漬けにされてしまったのだろう。そして、そのラテン語の中にギリシア語も混ざっていたのだ。
何ごとにも例外があるように、このルールにも例外がある。英語の「fantasy」はギリシア語出身だが、普通はギリシア語の「φ」を「ph」でなく「f」と書く。フランス語も同じで「fantasie」である。しかしドイツ語では「Phantasie」、ラテン語でも「phantasia」である。どうしてこうなったのだろうか? 英語はフランス語から取り入れた可能性が大きいと思うので、フランス語と英語が原則から外れている責任はどうもフランス人にありそうだ。ドイツ人が原則を忠実に守っているのは国民性も影響しているのかも知れない。
さて、ラテン語の「ph」を全面的に「f」にしてしまったのは、前述のイタリア語だけではない。スペイン語も全面的に「f」だが、これはスペイン語が、フランス語などに比べて、ラテン語やイタリア語にきわめて近い関係にあることを示すものだろう。
ところが、ラテン語やイタリア語とまったく関係がない言語で、「φ」を「f」で表わす言語もある。例えばマレー語では、英語の「photograpf」を「fotograf」、「physics」を「fizik」と書く。インドネシア人などは「f」の音を「f」と書いたり、「ph」と書いたりするという煩わしいことはせず、すべて「f」で表しているようだ。彼らにとっては、ヨーロッパの言葉が背負っている歴史など関係ないのだろう。この方がずっと実用的である。
+ + + + + + + + + + + + + + + +
ルール2・・・フランス語、ドイツ語などで「t」の音を「th」で表す言葉はギリシア語から来たものである。
英語にはもともと「three」、「think」など「th」のつく言葉があるので、このルールは適用できない。フランス語で例を挙げると、「théorie(理論)」、「théatre(劇場。正しくは、aにaccent circonflexeが付くが、小生のパソコンでは入力不可)」、「thème(テーマ)」、「mythe(神話)」、「rythme(リズム)」、「sympathie(同情)」、「méthode(方法)」などである。これらの言葉は英語にもほとんど同じスペルで取り入れられている。
これらの「th」はギリシア語の「θ(シータ)」を表わしたものである。「θ」は古代ギリシア語では有気音の「t」と発音された。無気音の「t」に対しては「τ(タウ)」という字が別にあった。
そしてラテン語は、ギリシア語を取り込むとき、「τ」を「t」で、「θ」を「th」で表わして区別した。有気音の「p」を「ph」で表わしたのと同じ方法を取ったのである。「t」と「th」についても、「p」と「ph」同様、昔のローマの人はちゃんと区別して発音していたという。しかし、いつの間にか「th」は「t」と同じように発音されるようになってしまった。そして、これらのギリシア語がラテン語から、フランス語やドイツ語に取り入れられた時、「th」の表記がそのまま引き継がれた。
その後、ギリシア語の「θ」の音は、不思議なことに、英語の「th」に近い音に変わった。この音の変化は紀元前で、英語が文字で書かれるようになるよりずっと前なので、英語が「three」などの「th」の音を「th」と書くのはラテン語の中のギリシア語の表記の真似をしたのだろう。そして英語では、ギリシア語からの外来語の「th」も「three」などの「th」と同じように発音した。そのため英語では、もともとの英語の「th」とギリシア語からの外来語の「th」が、文字でも発音でも区別がつかないことになった。
こうして、現在は英語の「th」の発音が一番ギリシア語の「θ」に近い。英語の「th」の発音記号が「θ」なのはこのためである。
この「θ」についても、イタリア語は「th」でなく、ただの「t」にしてしまった。例えば、英語の「theater(劇場)」は「teatro」、「theme(テーマ)」は「tema」という具合である。親であるラテン語の遺志を引き継がなかった点は「ph」と同じである。
このルールにも例外がある。例えば、フランス語では「茶」を「thé」と書くが、これは中国語から来たもので、ギリシア語には関係ない。ではなぜ「th」を使っているのだろうか? 「茶」の北京語は「チャ」だが、その「チ」は中国語での有気音の「チ」である。「thé」のスペルを作ったフランス人が、もとの中国語が有気音であることを尊重して、「té」でなく「thé」にしたのかも知れない。
+ + + + + + + + + + + + + + + +
ルール3・・・英語、フランス語などで「k」の音を「ch」で表す言葉はギリシア語出身。
例えば英語の「Christ(キリスト)」、「chorus(合唱)」、「school(学校)」、「technique(技術)」、「synchronize(同期化する)」、「architecture(建築)」などである。
これらの「ch」はギリシア語の「χ(カイ)」を表したものだ。古代ギリシア語では「χ」の音は有気音の「k」だった。ラテン語では、それを「k」や「c」と区別するために「ch」で表すことにした。
これについても、古代ローマの人たちは「k」や「c」と区別して発音していたという。しかし、フランス語や英語に入ると、完全に「k」と同じ音になってしまった。ドイツ語では、「Christ」などのように「k」と発音される場合と、「technik」などのように「ヒ」と発音される場合がある。
ここでも、イタリア語は親の遺産をさっさと捨ててしまった。例えば、英語の「Christ」は「Cristo」、「technique」は「tecnica」と書く。
+ + + + + + + + + + + + + + + +
ルール4・・・英語、フランス語、ドイツ語などで「r」の音を「rh」と書くのはギリシア語。
例えば英語の「rhythm(リズム)」、「rhapsody(狂詩曲)」、「rhetoric(修辞学)」、「rhinoceros(サイ)」など。
これらはギリシア語の「ρ(ロー)」を「rh」で表したものだ。ギリシア語の「ρ」とラテン語の「r」の音の違いを表そうとしたのだろう。しかし、古代ローマ人が「r」と「rh」を区別して発音していたのかどうかはよく分らない。「rh」をギリシア語風の巻き舌で発音して得意になっていたローマ人もいたのかも知れない。しかしいつの間にかラテン語の「rh」はただの「r」と同じ音になってしまい、英語などでもスペルに痕跡を残すだけになった。
これについてもイタリア語は、英語の「rhythm」を「ritmo」、「rhetric」を「retrico」という具合に、ラテン語で使っていた「rh」を「r」にしてしまった。
+ + + + + + + + + + + + + + + +
ルール5・・・英語、フランス語、ドイツ語などで、子音にはさまれた「i」の音を「y」で表す言葉はキリシア語から来た。
例えば英語の、「myth(神話)」、「nymph(精霊)」、「cycle(周期)」、「rhythm(リズム)」、「symbol」、「system」、「mystery」、「physics(物理学)」、「synchronize(同期化する)」などである。英語では「ai」と発音するが、「dynamic」、「hydrogen(水素)」などもギリシア語から出たものである。
これらはギリシア語の「υ(イプシロン、大文字はY)」を「y」で表したものである。古代ギリシア人は、これをフランス語の「tu(おまえ)」の「u」(日本語の「ユ」に近い音)のように発音したという。ラテン語にはこういう音がなく、従ってそれを表す文字もなかったので、ギリシア語から文字そのものももらってきた。ただし、ギリシア語の「υ」の文字は「u」に似ていて紛らわしいので、その大文字の「Y」をベースにして「y」という文字を新たに作ったのだろう。そのためラテン語では「y」はギリシア語の「υ」を表すときしか使われない。フランス語で「y」のことを「イグレック(ギリシア語の『i』)」と呼ぶのはこのためだろう。この「y」も英語、フランス語、ドイツ語などに引き継がれた。
古代ラテン語では「y」は古代ギリシア語の「υ」と同じように発音され、「i」の音とは区別されていたという。しかし、現在の英語、フランス語、ドイツ語などでは、「y」はすべて「i」と同じように発音されるようになった。ギリシア語の発音を尊重してラテン語に「y」の字を取り入れた先人の苦労は完全に無視されてしまった。
そして、イタリア語は「y」の文字を使うこともやめてしまった。例えば、英語の「cycle」は「ciclo」、「symbol」は「simbolo」などと書く。そのため、現在のイタリア語では「y」はほとんど使われない。私が持っているイタリア語の小さい辞書では、「y」がつくのは国名の「Yemen」だけである。
さて、もしギリシア語が、ラテン語を経由せずに直接フランス語に入っていたらどうなっていただろうか? フランス語にはギリシア語の「υ」に近い発音の「u」があるため、フランス語の、「mythe(神話)」は「muthe」、「nymphe(精霊)」は「numphe」、「cycle」は「cucle」、「symbole」は「sumbole」と書かれるようになっていたかも知れない。
+ + + + + + + + + + + + + + + +
ルール6・・・英語、フランス語、ドイツ語などで「ps」がつくのはギリシア語。
例えば英語の「psalm(賛美歌)」、「psychology(心理学)」、「pseudo(準)」など。
これらはギリシア語で「ψ(プシー)」がつくものである。「ps」は、ラテン語、イタリア語、フランス語、ドイツ語では、ギリシア語と同じ「ps」の音で読まれるが、ラテン語、フランス語を経由してたどり着いたと思われる英語では、ただの「s」の音になってしまった。流れ流れてたどり着いたので、ギリシア語の音に縁遠く、「ps」などというもともと英語にない音を発音するのは面倒だったからだろう。
+ + + + + + + + + + + + + + + +
ルール7・・・英語、フランス語、ドイツ語などで「x」で始まる言葉はギリシア語。
例えば英語の、「xylophone(シロフォン)」、「Xerography(乾式複写)」など。
これらの「x」はギリシア語の「ξ(クシー)」を表わしたものだ。「x」はフランス語やドイツ語ではギリシア語に忠実に「ks」と発音されるが、英語では歴史的いきさつは無視して「z」の音にしてしまった。これも英語がギリシア語と縁が薄いことを示すものだろう。
+ + + + + + + + + + + + + + + +
以上七つのルールを挙げた。これらはギリシア語の発音の特徴がスペルに残っているために、出身がギリシア語であることが分るものである。こういうスペル上の特徴がないため、簡単にはギリシア語出身と分らないものも多い。例えば、英語の「erotic」、「music」、「disk」、「comedy」、「democracy」などいくらでもある。
しかし、以上七つのルールで、英語、フランス語、ドイツ語などの言葉の中から、相当数のギリシア語系の言葉を見つけることができることは確かだ。
キリスト教誕生の時代からルネサンスまでの約1,500年間に、ヨーロッパで最も読まれた本と言えば聖書である。その聖書はローマ時代にはギリシア語で読まれていた。聖書が始めて正式にラテン語に訳されたのは4世紀の末である。そして、ラテン語以外の言語に訳されたのは、14世紀にウィクリフが英語に訳したのが最初である。この間の約1,000年は、書き言葉の世界ではラテン語がヨーロッパ中を支配していた。
今まで見てきたように、英語も、フランス語も、ドイツ語も、ギリシア語の表記について、ラテン語の影響を強くとどめているのはこのためである。英語やフランス語やドイツ語で本が書かれるようになった時代には、ラテン語の中のギリシア語からの外来語は、完全にラテン語に溶け込んでしまっていたのである。
現在の日本語にはギリシア語から取り入れた言葉が大量にある。これらはどういう経路で日本語に入ってきたのだろうか?
日本語の中の外来語は圧倒的に英語が多い。そして英語は、11世紀のノルマン人による征服以来数百年に渡って、フランス語を大量に取り入れた。そのフランス語はラテン語にケルト系言語とゲルマン系言語が混ざってできたものだ。そしてラテン語は、まだローマがギリシア文化圏の一地方都市だった頃、当時の先進文明のギリシアで使われていた言葉を大量に取り込んだ。
こうたどっていくと、日本にギリシア語が伝わってきたメインルートは自ずとはっきりする。つまり、「ギリシア語 → ラテン語 → フランス語 → 英語 → 日本語」というのがメインルートだ。
ではその他のルートとしてはどういうものがあるのだろうか?
日本語の哲学とか科学の用語にはドイツ語から導入したものが多い。この時紛れ込んできたギリシア語系の言葉に、「イデオロギー」、「ヒエラルヒー」、「エネルギー」などがある。これらの言葉の経路は、「ギリシア語 → ラテン語 → ドイツ語 → 日本語」となる。実際には、ドイツ語より上流が、「ラテン語 → フランス語 → ドイツ語」のものもあるだろう。
落ちこぼれたギリシア語、生き延びたギリシア語
日本語の中のギリシア系の言葉の大部分は、英語から取り込んだものだが、もちろん、英語の中のギリシア語で、日本語には取り込まれなかったものも多い。これには、もともと日本語に言葉があったために取り込む必要がなかったものと、新しい日本語を作って対応したものの2種類がある。
例えば、「sphere」には「たま」または「球」、「phantom」には「幽霊」、「elephant」には「象」という日本語がもともとあったために取り込む必要がなかった。
そして、例えば、「physics」には「物理学」、「philosophy」には「哲学」、「democracy」には「民主主義」という言葉を新たに作って解決した。これらの新しく作られた言葉には、中国人が作ったものをもらってきたものと、日本人が作ったものがある。例えば、「geometry」を「幾何学」としたのは中国人だろう。「幾何」は中国語で「チーホー」で、多分「geo」の音からとったものと思われる。そして、「哲学」は明治時代に西周(にしあまね)が命名したもので、現在は中国でも使われている。
英語から日本語にたどり着いたギリシア語と、たどり着かなかったものがあるように、フランス語から英語にも、たどり着いたものとたどり着かなかったものがある。例えばフランス語の、「phare(灯台)」はギリシア語から出たものだが、英語ではこの言葉は使わず、「lighthouse」というゲルマン系の言葉を使う。
同様に、ラテン語の中のギリシア語にも、フランス語までたどり着かなかったものがあるのだと思う。
こうして、ギリシア語 → ラテン語 → フランス語 → 英語 → 日本語と、各段階で「落ちこぼれ」を出しながらギリシア語が伝わってきた。最下流の日本語にも相当数のギリシア語が流れ着いているので、上流のフランス語、ラテン語にはさらに大量のギリシア語が取り込まれていたことが想像される。
ドイツ人の抵抗
ドイツ語には、フランス語や英語に比べると、ギリシア語からの外来語が少ない。これは、ゲルマン語系のドイツ語は、ラテン語を親とするフランス語に比べ、ラテン語に対するなじみがはるかに薄いためだろう。そして、ギリシア語はラテン語の一部になっていたので、ラテン語に対するなじみが薄いということは、ギリシア語に対してもなじみが薄いことになるからだ。
例えば「歴史」は、英語ではギリシア語系の「history」だが、ドイツ語ではゲルマン語系の「Geschichte」と言う。そして、英語では「詩」はギリシア語系の「poem」だが、ドイツ語ではゲルマン語系の「Gedicht」だ。
また、英語では「河馬」のことを「hippopotamus」と言う。これはギリシア語で、「hippo」は「馬」、「potamos」は「川」だ。しかしドイツ語では「Flußpferd」と言う。「Fluß」は「川」、「Pferd」は「馬」である。ギリシア語を分解して、部品の意味をゲルマン系の言葉で置き換えたのだ。日本語や中国語で「河馬」と書くのもギリシア語の真似だろう。
近代になって、特に科学技術の分野で、ギリシア語を部品として使う言葉が大量に作られた。しかし、これに対してもドイツ人は抵抗を示した。例えば「酸素」はギリシア語系の「oxygen」でなく、「Sauerstoff(すっぱいもの)」と言う。また、「水素」はギリシア語系の「hydrogen」でなく「Wasserstoff(水のもと)」と言う。ここでもギリシア語の意味をゲルマン系の言葉で置き換えている。
今まではギリシア語を最上流として扱ってきたが、古代ギリシア語自身多くの外来語を取り込んでいた。
ギリシアの外の地名、ギリシア人以外の人名、そしてギリシアにない動植物の名前はほかの言語から持ち込まれたはずだ。そしてこれがラテン語を経由して、ヨーロッパの諸言語に流れ込んでいった。
地名では、「Egypt」、「Syria」、「Babylonia」、「Bethlehem」、「Ethiopia」、「Rhein(ライン川のドイツ語)」などが「ギリシア語発見法」を適用すると、ギリシア語から取り込まれたものである。アジアやアフリカの地名だけでなく、ドイツ語での「ライン川」の書き方までギリシア語から取り入れたのである。ライン川沿岸地帯に住んでいたゲルマン人は文字を持っていなかったのだからしかたがない。
また「Mesopotamia」はギリシア語で「川の間」の意味で、その土地の人でなく、ギリシア人が付けた名前である。
人名では、前に出た「Philip」のほか、「Thomas」、「Joseph」なども、「ギリシア語発見法」によればギリシア語系である。これらは聖書に出てくるユダヤ人の名前がヨーロッパのいろいろな国で使われるようになったものである。これらの人名にギリシア語の影響が残っているのは、聖書がギリシア語で書かれていたからである。
次に動物はどうか? これもたくさんある。例えば英語では、「lion(ライオン)」、「tiger(虎)」、「leopard(豹)」、「elephant(象)」、「camel(ラクダ)」、「ostrich(駝鳥)」など、ヨーロッパにいない動物の名前はほとんどギリシア語から取り入れたものである。これらの動物はギリシアにいたわけではないので、ギリシア語がほかの言語から取り入れたのだろうが、ギリシア語より前のことはよく分からないものが多いようだ。
要するにギリシア語は、アジア、アフリカなど、外の世界に対するヨーロッパの窓口だったのだ。
近代に入ると、ギリシア以外のところでギリシア語を使って、大量に新しい言葉が作られた。科学技術の世界で特に多い。その中には日本語でもそのままカタカナ書きで使われているものと、ギリシア語の意味を漢字で表わしたものがある。
そのまま使っているものには、例えば元素名の、「ヘリウム」、「リチウム」、「クロム」、「キセノン」などがある。そのほか、「シンクロスコープ」、「マイクロメータ」、「サイクロトロン」、「テレパシー」など枚挙にいとまがない。
ギリシア語の意味を漢字にしたものには元素名の、「水素(hydrogen)」、「酸素(oxygen)」、「塩素(chlorine)」などがある。また例えば、「顕微鏡(microscope)」、「望遠鏡(telescope)」、「電子(electron)」などもこの部類だ。
ギリシア語の「部品」を使って新しい言葉を作るときは、ギリシア語の部品だけを使うのが普通だが、なかにはギリシア語の部品とラテン語の部品が混ざってしまっているものもある。
「television」がその一例だ。「tele(遠い)」はギリシア語で、「vision(見ること)」はラテン語だ。ギリシア語だけにすると、「telescope」になり、「望遠鏡」になってしまうためだろうか?
「bicyle(自転車)」もおかしい。「bi(二)」はラテン語で、「cycle」はギリシア語である。半導体の「bipoler(バイポーラ)」もおかしい。ギリシア語の「pole(極)」にラテン語の「bi」が付いている。純粋なギリシア語だと「dipoler」だが、電気工学で「dipole」という言葉が別の意味に使われていたのでこうしたのだろうか?
これらの言葉を作った人にとっては、ラテン語の言葉の中にギリシア語が完全の溶け込んで混ざってしまっていたのだろう。そのため、ラテン語から借りてきたのか、ラテン語経由でギリシア語から又借りしたのかの意識があまりなかったのではないかと思う。
こうしてほかの国で作られたギリシア語が、現在はギリシアにも逆輸入されて使われている。例えば、「telescope(望遠鏡)」、「oxygen(酸素)」などの言葉は現在ギリシアでも使われているが、近代になってからギリシア以外で発明・発見されたものなので、ほかの国が製造元でギリシアに逆輸入された言葉だろう。ギリシアが製造元なのか、ほかの国が製造元なのかが分らない言葉も多い。
+ + + + + + + + + + + + + + + +
こうして、ギリシア語は分流を繰り返し、その間に落ちこぼれも生じたが、新語の部品としても使われて、現在世界中の言葉の中で生き続けている。それはギリシア文明の影響の大きさをよく物語っている。
(完)
「Tosky's Archive」掲載通知サービス : 新しい記事が掲載された際 、メールでご連絡します。