home > Tosky's Archive > Archive 2004年 >

 

 

 

Pen・友」第31号(20044月発行)掲載    PDFファイル

 一コンピュータ屋が見た 欧米文化のシッポ

 

酒井寿紀

 

私は、1980年代を中心にして、コンピュータ関係の仕事でアメリカやヨーロッパの人とつきあうことが多かった。以下は彼らとのつきあいで、私が感じた欧米の文化の一端である。もとより象のシッポの端に触ったようなものなので、これをもって象の全体像を云々するつもりは毛頭ない。

 

ドイツ人のユーモア

 

アメリカ人のジョーク好きは有名である。はじめから下らない話で恐縮だが、私が今から30年以上前にアメリカの会社の人との会食で聞いた話を一つ紹介しよう。

「ある図書館に、毎週分厚い本を何冊も借りていく男がいた。図書館の人が、本当に全部読んでるんだろうかと思って、ある時、借りていく本の間に電話帳を入れておいた。次の週、その男が本を返しに来たとき、図書館の人が、『あの本はどうでしたか』と聞くと、『そうねえ、プロットが弱く、登場人物が多すぎたね』と答えた」

こういうたわいもない話を五つか六つできないと、アメリカでは仕事ができないようだ。

アメリカ人に比べるとドイツ人は、最初はちょっと堅苦しい感じがした。しかしつきあってみるとなかなかユーモアのセンスがある人たちだった。

ある時、天気がよかったので、マンハイムの公園でみんなで昼めしを食べていた。すると上空を小型飛行機が旋回し始めた。それを見て一人が言った。

「あれはドクターUかも知れない。彼はいつも上の方からわれわれを見ている」

ドクターUは彼らの業務のトップで、飛行機の操縦が趣味だった。

またある時テニスの話になった。一人がもう一人を指して、

「彼はわれわれの部で一番のテニス・プレーヤーだ」

と言うと、そう言われた人が、すかさず、

「僕はわれわれの部でただ一人のテニス・プレーヤーです」

と言って大笑いになった。

またある雪の日に、一人が会議の途中でオーバーシューズを脱ぎ、そのままそれを忘れて帰ってしまった。私が気付いて、

Hさんは足を持って帰るのを忘れた」

と言うと、一人が言った。

「このまえ頭を持って帰るのを忘れた人がいた」

こうして、アメリカ人、イタリア人に比べるとはじめはうちとけなかったドイツの会社の人たちとも親しくなった。やはりどの国でも、仕事をする上でユーモアは欠かせないようだ。

 

イタリア人が大食いなわけ

 

イタリアの会社の人ともよくつきあったが、イタリア人は、「いっしょに仕事を始める前に先ず友達になる」という考えのようで、よくいっしょに食事をした。

ある時、イタリアの会社の人に誘われて、何人かでミラノのレストランへ行った。前菜を一皿食べ終わったとき、

「ここにはバイキング式の前菜があって、うまいから取りに行こう」

と誘われて、また前菜を一皿食べた。確かにうまかったので、

「うまい、うまい」

と言うと、

「じゃあもう1回取りに行こう」

とまた誘われた。食いしん坊の私は、誘惑に負けて、とうとう前菜を3皿平らげてしまった。

次は第2の前菜のパスタである。日本のレストランで昼飯に食べるスパゲッティぐらいの量は充分にある。これを食べるのが正式なディナーだというので私もつきあった。これが終わると、

「さあメインディッシュだ」

と言う。もう腹一杯になっていたが、何も食べないわけにもいくまいと、できるだけ軽そうなものを頼んだ。ところが前菜を勧めたイタリア人は、

「私はパスする」

と言う。食事に誘われたので、メインディッシュも何か食べなければ失礼に当たるだろうと、無理して頼んだ私はだまされてしまった。しまったと思ったが、もう手遅れだった。

彼らは食事中、実によく話す。のべつまくなしにしゃべる。一皿平らげたあと、次の皿がくるまで激論を交わす。これが腹ごなしになるのだ。

最初のうちは、われわれがいるので、彼ら同士も英語でやってくれるのだが、そのうちだんだん興奮してくると、われわれがいることを忘れてしまって、いつのまにかイタリア語になってしまい、われわれは完全に蚊帳の外に放り出されてしまう。

激論が一段落した頃、次の皿が出てくるようになっていて、腹ごなしが終わった彼らは、「さあ食おう」ということになるのだが、腹ごなしが充分に終わってないわれわれもいっしょに食べさせられることになる。このハンディキャップは大きかった。

イタリア人はだいたい会社の仕事よりも個人の生活の方を大事にしているようだった。「企業戦士」とか「猛烈ビジネスマン」とかいう言葉は、彼らには無縁のようだった。7月から8月にかけては、休みを取る人が多く、まったく仕事にならなかった。

 

アウトバーンのドイツ、ロータリーのイタリア

 

仕事の関係で、同じ時期にドイツとイタリアへ何回か出かけた。

この二つの国はいろいろな意味で対照的なところが多かった。車の運転のしかたを見ていてもお国柄が出ていた。

ドイツはアウトバーンの国である。制限速度がないから、速い車は200キロ近いスピードで走っている。スピードの差が大きく危険なので、右側からの追い越しは禁止されていた。つまり追い越すときは必ず中央分離帯寄りのレーンを使わなければならない。これは厳格に守られていた。日本のように、右からも左からも追い越すようなことはしない。

そのかわり、遅い車が速い車に追いつかれると、レーンを譲らなければならない。アウディがベンツに追いつかれると、アウディはレーンを譲らなければならない。しかしベンツがポルシェに追いつかれると、今度はベンツが譲らなければならない。車格の序列がはっきりしていた。これに従わない車があると、後ろの車が、ライトの点滅やクラクションで無理矢理押しのけていた。当然の権力の行使という感じだった。

アウディに乗っていた駐在員の人が、長いトラックの列を追い越す途中でポルシェなどに追いつかれると脂汗が出てくると言っていた。

一方、イタリアの街はロータリーが多い。車が四方八方からロータリーに流れ込んで、ぐるぐる廻って、また散って行く。相当なスピードで、車間距離もあまり取らず、よくぶつからないものだと感心する。よく見ていると、暗黙のルールがあるようだったが、怖くてわれわれにはとても運転できないと思った。

しかしロータリーというのは合理的な面もある。信号があると、横切ろうとする道に車がいなくても、信号が青になるまで待たなければならないし、信号を切り替える時は、いったん両方の道路の車を止めて、交差点内を空にしなければならない。ロータリーだと、いつでも通り抜けられる。

もっともイタリアのように、道が不規則で、5差路、6差路のような交差点が多いと、ロータリーにせざるを得ないのだろう。広場の真ん中に噴水や彫刻のあるロータリーは、いかにもイタリアらしくてなかなかいいものだ。

イタリア人はルールにとらわれず、発想が自由だ。

ある時みんなで、昼食をとりにレストランに行った。同行したイタリア人が駐車場に車を止めたが、隣の車がひどい止め方で、その車が出るときにぶつけられそうだった。もう少し離して止め直すかと思っていると、その人が、

「おい、ちょっとみんな手を貸してくれ」

と言って、隣の車を持ち上げてずらすのを手伝わされた。ずらし終わると、彼はひとこと、

Quickest solution!

と言った。

このように、イタリア人は、その場その場でもっとも手っ取り早い解決策をさっと思いつく。ルールや約束ごとは彼らにとっては二の次だった。ドイツ人とは対照的だった。

アウトバーンとロータリーでの車の運転のしかたは、それぞれドイツとイタリアのお国柄を象徴しているように思われた。

 

ローマで戸籍抄本を要求される

 

お恥ずかしい話だが、ローマで財布をすられるという最悪のアクシデントにあったことがある。

ある土曜日に、イタリアに駐在していた人といっしょに市内観光のバスに乗り、最初にバスが止まったのは有名なトレヴィの泉だった。

バスを降りて歩いていると大勢の汚い恰好をした子供達に囲まれた。5才から10才ぐらいの子供が10人ぐらいいた。ボール紙に何か書いたものを突きつけながら口々に何か叫んでしつこくつきまとってくる。てっきり乞食の子供だろうと思い、かき分けながら前に進んだが、この時上着の内ポケットから財布をすられていたのだ。あとで聞くとこれはイタリアでは有名な手口とのことだった。

問題はその財布に、現金のほかに、パスポート、航空券、クレジットカード、トラベラーズチェック、すべて入っていたことだった。

とにかく先ず警察に行かねばと警察に向かった。すると英語を話せる警官が出てきて、話を聞くなり、

「ああ、あれはユーゴースラビアから来たジプシーだ」

と言う。

「分かってるんなら捕まえろ!」と内心思ったが、そんなことを言っても始まらない。盗難届の手続きを済ますと、その警官は、

「パスポートは領事館へ行けば再発行してくれる。航空券もクレジットカードもトラベラーズチェックも再発行してくれる。あなたが失うのは現金と財布だけだ。財布は3分の1の確率で出てくる。たいした問題じゃない」

と、平然と言う。これはとんでもない国へ来たものだと思った。

先ず何はさておきパスポートを再発行してもらわねばと、次は日本領事館へ向かった。

その入口は完全に鉄の扉で閉ざされていて、用件を告げると扉を開けてくれる。守衛所で手続きを済ますと、内側の扉を開けてくれて、やっと領事館の敷地内に入ることができる。建物まで行くと、またドアが閉まっていて、用件を告げて開けてもらう。中へ入ると、係員との間は分厚い防弾ガラスで完全に仕切られていた。

さすがに連合赤軍の本場は違うと感心した。瀋陽の日本領事館もこういう構造になっていれば、北朝鮮の亡命者が駆け込む事件など起きようがなかったと思う。

さて、その防弾ガラス越しに用件を告げると、

「分かりました。『帰国の為の証明書』を発行しますから、戸籍抄本を持ってきて下さい」

と言う。これには一瞬わが耳を疑った。「一体ここをどこだと思っているんだ」と思ったが、念のため確認すると、

「皆さんにそうしてもらっています」

とのこと。そんなことをしていたら1週間もここで動きが取れない。同行してくれた駐在員の人が、

FAXではだめですか」

と聞くと、

「ちょっと領事と相談してきます」

と言って引っ込み、戻ってきて、

「特例として認めることにします」

と言われた。

領事館で、写真をすぐ用意してくれるという写真屋を教えてくれたので、そこへ行くと、「私もパスポートを取られた」というアメリカ人の女性が来ていた。「そうか、イタリアではスリも社会のバランス上必要なんだ。スリがいなくなったらこの写真屋はつぶれる」と思った。

次は航空券だ。エールフランスの事務所へ行って、「同行者と続き番号のはずなので、再発行して下さい」と頼んだ。月曜日に再度確認すると、

「日本に連絡して確認が取れたので再発行しますが、パスポートを持って来ないと渡せません」と言う。

次にアメックスの事務所に行き、控えていたクレジットカードの番号を伝えて、再発行を頼んだ。これも月曜日になると、

「確認が取れたので再発行しますが、パスポートを持ってこないと渡せません」と言う。

また、アメックスの別の事務所へ行って、トラベラーズチェックの再発行を頼むとこれもOK。しかし、これもパスポートを持ってこないと渡せないと言う。

この時は海外でのパスポートの重要性を再認識した。パスポートがないと何もできないということがよく分かった。

問題のパスポートは、日本からの戸籍抄本のFAXが届かないと何もできないので、日本が月曜日になるのを待つしかない。

打つべき手は全部打ったので、次の日曜日は一日ローマを見物した。

そして月曜日になると、いよいよパスポート奪回の大作戦が始まった。

先ず家内に、戸籍を登録してあるところまで行って戸籍抄本を取ってきてもらい、それを会社に届けてもらった。そして、ローマには会社の出先機関がないので、それをデュッセルドルフの事務所にFAXで送ってもらった。これが日本の月曜日の夕方、ヨーロッパではまだ月曜日の朝だった。

そしてそのFAXをデュッセルドルフに駐在していた人にローマまで持って来てもらった。飛行機が遅れ、領事館やアメックスの事務所が閉まるまでに間に合うかと、はらはらして待っていた。

FAXが着くと、すぐ領事館へ向かった。領事館の係員は戸籍抄本のFAXを見て、「これならいいでしょう」、と言ってくれた。

こうしてやっとパスポート替わりの「帰国の為の証明書」をもらい、すぐその足でエールフランスとアメックスの事務所に行き、閉店間際に航空券とクレジットカードとトラベラーズチェックを受け取った。日本で行動を開始したのと同じ日のうちに全部取り戻すことができた。日本とヨーロッパには時差があるのでこういうことができたのだ。

会社にも、現地に駐在していた人にも大変な迷惑をかけてしまったが、私にとっては非常に貴重な経験だった。こういう経験をすると社会の裏がどういうしかけになっているかがよく分かる。

 

ピストル型の蝿取り器

 

海外に出かけても、買物はあまりしなかった。娘がまだ小さかった頃、お土産はいつもレターセットに決めていた。これなら安くて軽いので楽だ。

「こんなものしか売ってなかった」

と言って、ごまかしていたが、そのうちどうもおかしいと思うようになったようだ。ひどい父親だった。

ブランド品には興味がなかった。シーズンオフで閑散としているローマの街で、あるブランド品の店を覗いたら、そこだけ日本人の女性がいっぱいで、殺気立っていたので早々に退散した。

買物はブランド品より雑貨の方が面白い。欧米の人は、手先が器用でないのを道具でカバーするためか、さまざまな道具を売っている。

リンゴの芯を抜き取る道具、いっぺんにリンゴを六つに切り分ける道具、ゆで卵を湯から取り出す道具など、ひとつのことにしか使えない道具を実にいろいろ売っている。面白そうだと思うと買って帰った。女房は変なものばかり買ってくるとあきれていた。今でもそのいくつかは、わが家の台所の引き出しで眠っている。

ある時アメリカの雑貨屋で、ピストルの形をした蝿取器を見つけた。ピストルの先に直径10センチぐらいのプラスチックの円盤がついていて、引き金を引くとゴムの力でそれが飛んで行き、蝿を叩き落とすのである。さすがはピストルの国と思って感心し、買って帰ってわが家で使っていた。これは、海外で買った雑貨の中では一番役に立った。

欧米の人はもともと不器用だったわけではなく、道具が発達しているために不器用になってしまったのかも知れない。箸だけで何でも食べる民族と肉、魚、スープ、コーヒー、アイスクリーム、果物、それぞれに専用の食器を使う民族の差は大きい。もし日本人がゴルフを発明していたら、クラブはせいぜい3本か4本になっていたのではなかろうか?

 

手作りの蒸気機関車

 

あるアメリカの会社の人といっしょに食事をした時、趣味の話になった。

「私は蒸気機関車の模型を作ります」

と言うので、

「部品は買ってくるのですか?」

と聞くと、

「全部自分で作ります。1フィートを1.5インチに縮小した図面を描いて作ります」

と言う。つまり実物の8分の1の模型だという。

「蒸気エンジンも作るのですか?」

「はい、そうです」

「そのためには、旋盤とか溶接機が要るでしょう?」

「自宅に小さいものを持っています」

「客車や貨車も作るのですか?」

「はい」

という具合で、まったく驚いてしまった。帰宅後とか休日に少しずつ作り、何年もかけて完成するのだそうである。

作ったものはどうするかというと、郊外の公園に、同好者と共同で鉄道の線路を敷いてあって、休日にはそこへ持って行って走らせるのだそうである。そこのウェブサイトを見たら、駅あり、鉄橋あり、トンネルあり、まさに本物通りで、自作の汽車を持ち寄って走らせている。家畜運搬用の貨車には牛や豚の模型までちゃんと積んである。

また別の会社の人で、普段は朝早くから夜遅くまで働く猛烈ビジネスマンだが、スキーが好きで、冬にはスキー旅行のために毎年1ヶ月ぐらい会社を休むという人もいた。

どうもアメリカ人の趣味はわれわれと桁が違うようだ。学生時代にある教授が、「アメリカでカメラが趣味だと言うためには、最低30台ぐらい持ってないといけない」と言っていたのを思い出す。

こういう話を聞いた上で、「あなたの趣味は何ですか?」とアメリカ人に聞かれて、自信を持って答えられる日本人ははたしてどれだけいるだろうか?

 

日本文化を解さない者はインテリではない

 

仕事の相手には日本のファンが多かった。

あるアメリカの会社の人たちは日本の旅館に泊まるのが好きで、日本へ来るとしょっちゅう温泉旅館に泊まっていた。日本に住んでいたことがあるので、日本語が話せる中国人がアメリカから直接電話で部屋の予約をしていた。予約する部屋はいつも決まっていた。どうしてかというと、シャワーがついている部屋はその部屋しかないためだった。畳の上で布団を敷いて寝るのは平気だが、やはり大浴場は苦手のようだった。

英語が話せる女将さんにいつも応対してもらい、ずいぶん世話になった。食事の時、

「飲み物は何になさいますか? ワインでもお持ちしましょうか?」

と女将さんが聞くと、

「ゲンシュ」

と答える人もいた。地酒の原酒が気に入っていたのだ。

酒を飲むマスを非常に珍しがった。こういう酒の器は世界中ほかにはないのではなかろうか? 

「これらはどこから飲むんですか?」

とよく聞かれた。マスの各面にみんなでサインし、女将さんにもサインしてもらって、喜んでお土産に持ち帰っていた。

別のアメリカの会社の人たちも日本料理が好きだった。いや、好きになろうと努力をしていたのかも知れない。彼らの工場を案内してもらうと、「KANBAN」と書いた看板が至るところに下がっていた。1980年代のことで、日本の経営手法を取り入れようという熱意が感じられた。

この会社とのハワイでの交渉の時、パーティーで寿司が出された。彼らにはなじみがないウニやイクラが並んでいた。片っ端から、「これは何ですか」と聞かれ、

「これは 『sea urchin』、日本語で『ウニ』、これは鮭の卵、日本語で『イクラ』」

などと教えてあげると一生懸命聞いていた。日本人は信じられないものを食べるという顔をしていた。

すき焼きや天ぷらを日本料理の初級編とすると、寿司や刺身は中級編である。これを卒業し、さらに意欲のある人には、上級編に挑戦してもらった。

何にでも好奇心旺盛な人がいたので、ある時小料理屋へ連れて行き、煮魚を箸でむしって食べるのに挑戦してもらった。何事にも決して弱音を吐かない彼は、

「僕は釣りをするので、どこに肉があるか知っている」

と言って、頭のところを一生懸命箸でむしって食べていた。

彼らを見ていると、「日本文化を理解しない者はインテリではない」と思っているようだった。終戦直後に日本人がアメリカに対して抱いていたあこがれが逆になったようだった。

日本びいきは結構なのだが、それも度が過ぎると相手をするのが大変だった。

「『ヨドバシカメラ』の『バシ』は 『bridge』 でしょ。ところで『ヨド』ってどういう意味なんですか」

などと聞かれると、「もう勘弁して」と言いたくなることもあった。

 

「ムサシ」と「ショーグン」

 

われわれは外国の会社とのビジネスで戸惑うことが多かったが、彼らも同じように大変苦労しているようだった。

ある時、日本へ来たアメリカ人が、

「どうも日本人のことがよく分からないので、今度は来る前に『ムサシ』(吉川英治の『宮本武蔵』の英訳)と『ショーグン』(ジェイムズ・クラヴェルの江戸時代の日本を舞台にした小説)を読んできた」

と言っていた。そして、

「ようやく何が分からないかが分かってきた。会社の中でどのレベルの人が何を決めているのかが一番分からない」

と言う。「重要なことは上の人に話せばすべて解決すると思っていたが、どうもそうではないようだ」ということが分ってきたらしい。そのため、同じ話を工場長、部長、課長、担当者と、会う人ごとに繰り返していた。全員に話しておけば何とかなるだろうというわけである。

彼らにとっては、村祭りの準備のように、誰も命令しなくても何となく全員でうまくやってしまうような、日本の会社の仕事のしかたは理解できないようだった。

彼らの仕事のしかたは徹底したトップダウンだった。会議中に突然、

「言うことを聞かないなら、撃ち殺せ!」

と言う人がいて、さすが西部劇の国と感心したことがある。

しかし一見トップダウンで指揮命令が明瞭なように見えても、陰では、「そんなことを言ったってできるわけがない」と言う部下もいて、必ずしも見かけ通りにうまくいっているわけではないようだった。

 

sweet water」って何?

 

ヨーロッパの会社の人たちとの話は、仕事の時も食事の時も、すべて英語だった。

ドイツ人の中には、最初の頃は「ツェントラル・プロツェッサ」のような発音をする人もいて、ドイツ語かと思って聞いていると英語だったりした。しかし、そのうちにわれわれよりはるかに英語がうまくなった。やはりドイツ語の方が日本語よりはるかに英語に近いためだろう。

大変おしゃべりなドイツ人がいて、とうとうとまくしたてるのだが、何を言っているのかなかなか分からなかった。はじめは、こっちの能力不足だろうと思っていたが、必ずしもそうではないことがだんだん分かってきた。

ある時食事をしていて魚の話になると、「sweet water」と言う。はじめは何のことかと思ったが、これはドイツ語の「Suesswasser(淡水)」をそのまま英語にしたものだった。またある時「Outlander」というので何かと思ったが、これはドイツ語の「Auslaender(外国人)」をそのまま英語(?)にしたものだった。「fresh water」とか「foreigner」という英語が思い浮かばないとき、このような「英語でない英語」で自分の意思をどんどん伝えようとするたくましさには感心した。

これは何もこの人に限らなかった。

あるイタリア人が、「ハイガー!」、「ハイガー!」と言うので何かと思ったら、「higher」のことだった。こういう英語でも、身振り手振りを交えて、何とか目的を達してしまうのだ。

われわれもこういうたくましさをもっと身につける必要があるようだ。

もっともわれわれも無意識のうちに、日本製の「英語でない英語」を使って、相手を悩ませているのだとは思うが。

(完)


Tosky's Archive」掲載通知サービス : 新しい記事が掲載された際 、メールでご連絡します。