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「Pen.友」第30号(2003年10月発行)掲載 PDFファイル
(スケッチは掲載誌では白黒ですが、ここではカラーにしてあります)
中 条 の 思い 出
酒 井 寿 紀
私は、1990年8月から93年2月までの2年半の間、新潟県の中条町にある日立製作所の中条工場(現在の日立産機システム中条事業所)に単身赴任で行っていた。これはその時の仕事以外の思い出話である。
太平洋側にしか住んだことがなかった私には、見るもの、聞くもの、珍しいことが多かった。私が滞在した間は幸いにして暖冬続きだったが、それでも冬の厳しさを身をもって体験した。
当時は辛い思いもしたが、今となっては懐かしい思い出である。
1990年の夏は特別暑かった。7月末に中条工場への転勤が発表になって、東京近辺の顧客や関連会社に挨拶に行くと、
「酒井さん、今度は涼しいところでいいですね」
とよく言われた。私は中条には行ったことがなく、よく分からなかったが、
「はい、おかげさまで」
などと答えていた。
ところが着任してみて驚いた。何とその日の新聞に出ていた新潟市の最高気温は37.8度で、全国最高とのことだった。台風のあとのフェーン現象で温度が異常に上がったとのことだった。
しかし暑いのはフェーン現象の時だけではなかった。
2〜3日あとに、半年に1回開催される社内の大会議があって、三浦副社長ほかが来られた。三浦さんは会議室に入るなり、
「いや、暑いねェ。いったい何という暑さだ。もう少し何とかならんのかね」
と言った。庶務の人が、
「今日は副社長が来られるというので、これでも朝から冷房を最強にして冷やしてるんですよ」
と言うと、三浦さんは、
「何だ、あんまり暑いんで、窓があいてるんじゃないかと思った」
と言った。
しかし、いっしょに来た
「暑くなけりゃ米ができねーんだ」
と涼しい顔をしていた。日本海側の暑さを知っている人にとってはごく当たり前のことなんだということが分った。
後日、工場の消防競技会があり、私は中条町の消防署の署長さんの隣りに座ることになった。私が、
「夏暑いのに驚きました」
と言うと、署長さんは、
「中条のアメダスの温度計は消防署にあるんですよ。それが全国最高の温度を記録したことがあるんですよ。あまり暑いと、町長さんがやって来て、『署長さん、温度計をもう少し風通しのいい涼しいところに置いてもらえませんかね。ただでさえ人が減って困っているのに、全国最高の温度なんか記録して、評判が悪くなって、ますます人が寄りつかなくなったら困ってしまう』と言うんですよ」
と言う。中条にとっては人口の減少が深刻な問題なのである。
中条工場に着任してしばらくすると、近隣の役所や企業や学校などへの挨拶回りに連れて行かれた。工場は
ところが、なぜか隣の黒川村の村長さんのところにも挨拶に行くという。はじめはどうして行く必要があるのかよく分からなかった。工場の近くを胎内川という川が流れていて、黒川村もこの川に沿って広がっているのだが、工場の方が下流なので公害問題も関係なさそうだ。またわれわれは、漁業問題ともあまり関係のない企業である。しかし、新任者はご挨拶に行くのが慣例になっているという。
黒川村の村役場は大変立派な建物で、2階の村長室に行くには、靴を脱いでスリッパに履きかえて、赤絨毯を敷きつめた階段を昇って行く。
村長室の真ん中には大きい円卓が置いてあり、部屋のまわりには昭和天皇や常陸宮が来られたときの写真が飾ってあった。出て来た伊藤孝二郎村長の話は、植樹祭に昭和天皇に来て頂いたときの話から、アラブ首長国連邦を訪問したときの話、村の青年を派遣しているデンマークの農場を訪問したときの話とスケールが大きく、煙にまかれてしまった。
伊藤村長は終戦直後に満州から引き揚げて来てすぐ村長になり、私が会った当時は10期目か11期目で、全国町村会の会長をしているとのことだった。大変なアイデアマンであり、かつ行動力のある人で、
人をそらさない話し振りには、さすがに40年間実質無投票で村長を続けて来ただけのことはあると感心させられた。
この伊藤村長主催の探鳥会が毎年開催され、黒川村の人や近隣企業の代表が参加することになっていた。
中条に転勤になった翌年の6月の探鳥会には、私がまだ参加したことがなかったので、会社の代表として引っ張り出された。
一行の30〜40人は夕方から胎内川に沿って山道を登った。上流のヒュッテで会合を開き、その後、黒川村で飼育された黒豚でバーベキューパーティーがあった。伊藤村長自らビールを注いでまわり、その気配りはさすがだった。
伊藤村長の話によると、昔、倉敷レーヨンの大原総一郎さんが
「この胎内川流域は日本でも有数の野鳥の種類が多いところなんですよ」
と言われたのが、この探鳥会が始まったきっかけとのことだった。それ以来この胎内川流域の野鳥の保護に力を入れて来た、と言っていた。
ある時、この辺のブナ林に虫が大量に発生し、どうしたらいいか思い悩み、新潟大学の先生に相談に行ったところ、
「薬を撒けば虫はいなくなるが、鳥は永久に戻って来ません。薬を撒かなくても虫はそのうちいなくなります」
と言われ、その通りにしたとのことだった。
「もしあの時薬を撒いていたら、今日の胎内川の野鳥はいないでしょう」
と言っていた。
その夜はコノハズクの「ブッポーソー」という鳴き声を聞きながら眠りにつき、翌朝3時半のまだ真っ暗な時刻に起きて、懐中電灯の光を頼りにさらに少し上流に登った。それから早朝の山道を、野鳥を観察しながら麓のレストハウスまで降った。
野鳥の専門家が同行してくれ、鳥の鳴き声が聞こえるとその鳥の名前を教えてくれた。私はその時はじめて「アカショウビン」の尻下がりの鳴き声や、「ツツドリ」の「ポポッ ポポッ」という鳴き声を知った。
またその人は、とんでもなく遠い山の上の木のてっぺんで鳴いている鳥を双眼鏡で探し、見つけると三脚がついた望遠鏡をセットしてわれわれに見させてくれた。その鳥を見つける能力は私にはほとんど神業のように思えた。
日本の野鳥は490種いるのだそうで、その一覧表を渡され、野鳥を見たり聞いたりするたびにその一覧表にしるしをつけていった。麓のレストハウスで朝食をとりながら集計すると、一行が見たり聞いたりした鳥の種類を全部あわせると30種以上になっていた。
中条の工場から北に20キロメートルぐらい行ったところに瀬波温泉という温泉があり、工場への来客といっしょに何回か訪れた。海に夕日が沈むのを見ながら温泉に入るのがここの売りものだった。これは太平洋側では絶対にできない。日没にあわせて温泉に入るため、旅館の玄関には「本日の日没時間」が毎日貼り出されていた。
しかし、本当に水平線に沈む時まで太陽がよく見えるのは、実際にはごくまれで、最後には雲に入ってしまうのが普通だった。
お客さんを車で案内するとき、今日は天気がいいから大丈夫だろうと、
「お客さんは心がけがいいから、今日はちゃんと最後まで見えると思いますよ」
と言って、いっしょに温泉に入っていると、やっぱり最後になって雲に入ってしまったことがあった。そのお客さんに、
「やっぱり私は心がけが悪いんでしょうかね」
と言われてしまい、気まずい思いをした。それ以来私は余計なことは言わないことにした。口は災いのもとである。
ここの料理は日本海の海産物がメインだった。
関東で「アマエビ」と呼んでいるエビがよく出たが、こっちでは「ナンバンエビ」と言っていた。関東のアマエビよりずっと甘く、こっちの方が本当のアマエビだった。
魚も関東とはかなり違っていた。「ノドグロ」という文字通りノドが黒い魚を、こっちへ来てはじめて食べたが、冬場には脂がのっていて塩焼きは絶品だった。関東のクロムツだと言われていたがまったく同じ魚なのだろうか? 魚の名前は地方によって少しずつ違うので難しい。
瀬波温泉の少し北に村上という町があった。皇太子妃となった小和田雅子さんの先祖が住んでいたところとして有名になった町である。ここにも何回か行った。
ここに浄念寺という、土蔵で作られた珍しい寺があるというので行ってみた。その寺のパンフレットを見て驚いた。この寺に江戸時代に珂碩(カセキ)上人が10年間滞在していたと書いてある。実は、私の家の菩提寺は東京の
パンフレットを読むと、この人は17世紀後半の人で、江戸深川の霊岸寺からここの浄念寺に招聘され、その後江戸に戻って奥沢の浄眞寺を開いたという。江戸時代には坊さん独自の全国組織ができていて、当時の藩の枠を越えて転勤命令が出ていたようだ。
もうひとつ驚いたことがある。奥沢の浄眞寺はまたの名を九品仏(くほんぶつ)といい、そこには珂碩上人が作った9体の仏像がある。ところが、村上の地図を買ったら、そこらじゅうに「九品仏」と書いてあるのだ。調べると、町の中の9個所に一体ずつ仏像があり、それらがみんな九品仏と呼ばれているのである。
村上の九品仏も珂碩上人と関係があるのだろうか?
村上よりさらに北に行くと、「笹川流れ」という奇岩と松の景色がいいので有名な海岸が続いている。
ある日、そこへ出かけ、岩場に陣取ってスケッチを一枚描いた。描き終わって、昼も過ぎて腹が減ってきたので、昼飯を食べることにした。有名な観光地なので、車で少し走れば食堂ぐらいはあるだろうと、海岸沿いの国道を北に向かって走り出した。ところが行けども行けども、店屋など1軒もないのだ。たまにシーズンオフで閉店している釣り道具屋があるくらいだった。
絵を描いていたあたりまで戻ると、やっと屋台が1軒あり、「おにぎり」と書いてある。これでやっと飯にありつけたと、
「おにぎりを下さい」
と頼むと、
「済みません。売り切れました」
とのこと。
「じゃあ何があるの」
と聞くと、イカの丸焼きとイガイを焼いたものだという。
選択の余地がないので、それを買って食べたが、その時食べたイカは、肉厚で自然の甘みがあり、今まで食べたイカの中で一番うまかった。もちろん、腹が減っていたせいも大きかったのだろうが。
湘南や伊豆の海岸と同じようなつもりでいると、とんでもないことになることが分った。
しかも途中には店屋も屋台もまったくない。紅葉を見に来た行楽客はみんな弁当を持ってきて広げて食べている。こっちはそんなに時間がかかるとは夢にも思っていなかったので、食べ物はおろか飲み物も何も持ってない。弁当を広げておいしそうに食べている人達を横目で見ながら走り続けた。
林道の
いささか心細くなったが、今さら引き返してもしょうがないので、途中で雪の朝日岳の絵を1枚描いて、あとはがむしゃらに山道を走った。
その日は鶴岡に行くのはあきらめて、海岸経由で中条に戻った。
とんだ山岳ドライブになってしまったが、おかげで素晴らしい紅葉の見物ができた。
休みの日には、日帰りで行けるところに、よく車で出かけた。
道がいい上に、道路は空いているし、信号は滅多にないし、どこへ行っても東京近辺のように駐車場に困ることなんかないので、車で走りまわるのは非常に快適だった。
一般の国道でも、少し山の方に入ると、まったく信号に出会わずに30分ぐらい走れるところもあった。しかし、交通量が少なすぎて危ない目にあったこともある。
そのうちやっと車が1台来たので、運転していた人に頼んで押してもらって、窮地を脱することができた。
渋滞がないのはいいが、交通量が少なすぎるのもよしあしである。もしあの車が来なかったらどうなっていただろう。
雪道もずいぶん運転したが、この地方の人の話を聞くとまことに恐ろしいことを平気でやっている。私がよく行った中条のスナックの女性は20キロメートルぐらい離れた村上から車で通っていたが、その人が言っていた。
ある夜、吹雪のため前が真っ白で何も見えないなかを、国道7号を村上へ向かって帰って行った。そのうちいくらアクセルを踏んでも車がぜんぜん前に進まないので、車を降りて見ると、雪の吹きだまりに突っ込んでいたという。
そんな話をして、けろっとしているのだから、この地方の女性は一見おとなしそうに見えるが恐ろしい。
こっちへ来て最初の冬が近づくと、会社の運転手に教えてもらって、雪かき用のスコップ、車の屋根の雪を降ろす道具、雪の中で作業をするためのフードつき作業着など、冬場の運転用の必需品を一式買い揃えた。
車の屋根の雪は、こまめに降ろさないと雪の重みでタイヤが傷むということだった。大雪が降ったあと車に乗るときは、雪かきなどというなまやさしいものじゃなく、雪の中から車を掘り出すようなものだった。
それでも昔に比べれば暖冬続きで、雪が非常に減ったという。昔はさぞ大変だったことと思う。
普段は、言葉の問題で地元の人との話に困ることはほとんどなかった。しかし、地元の人の集まりで酒が入るとだんだん話が分からなくなることがあった。
「話がよく分からないので、適当に、『うん、うん』とうなずいていたら、『テレビを寄付してくれ』という話を承諾してしまっていたことがあったので気をつけて下さい」
と工場の庶務の人に言われていた。
ある時、
「この人の話がさっぱり分からないのでちょっと通訳してよ」
と頼むと、
「
と言う。困って、村役場の若い人をつかまえて頼むと、
「あの人の話はわれわれにも分からんのですよ。あれは方言じゃなくて歯がないんですよ」
と言われて唖然とした。こういう席ではいつも方言に悩まされていたので、私は方言のせいだとばかり思い込んでいた。
ある時、この地方の
「体の部分で『へ』のつく言葉は?」
というものだった。回答者は、
「へなが!」
と答え、テレビを見ていた地元の人はみんな正解と思って手を叩いたが、テレビ局が用意した答と違ったので、「ブーッ!」と鳴ってしまった。
「へなが」というのは「せなか」の方言なのだ。
司会者は、方言だということを知って、
「もう一度だけチャンスをあげます」
と言ったところ、回答者は、今度は、
「へざかぶ!」
と答え、とうとう失格になってしまったのだそうだ。
「へざかぶ」とは「ひざ」のことだった。
正解は「へそ」だったのだそうである。
地元のスナックやガソリンスタンドの人にいろいろな方言を教えてもらった。
体の部分では、「へなが」「へざかぶ」のほか、「あくど」が「かかと」で「こぶら」が「ふくらはぎ」だそうだ。
「てんぽ」が「うそ」で「てんぽこき」が「うそつき」となるともう想像もできない。
「げっつ」が「かえる」で「げろげっぷ」が「おたまじゃくし」となると日本語とは思えない。ドイツ語みたいだ。
「がっくるめて」は感じで何となく分かってしまったが、これは「ひっくるめて」ということである。
「けっちゃま」が「裏返し」、「びちゃる」が「捨てる」、「しみる」が「凍る」、「もす」が「虫」、「でろ」が「泥」、等々。
まるで外国語である。
どうしてこう現在の標準の日本語とは似ても似つかない言葉があるのだろうか。
小泉 保氏の「縄文語の発見」という本によると、日本語には「でんでんむし」と「かたつむり」、「かお」と「つら」のように同じものを指す、まったく違う言葉がいくつかあり、その分布から、「でんでんむし」とか「かお」は弥生人が日本に持ち込んだ言葉で、「かたつむり」とか「つら」はその前に日本に住んでいた縄文人の言葉ではないかという。
中条の辺に残っている方言に「縄文語」のなごりが残っているという可能性はないのだろうか?
中条の町には、丸市と南都屋という2軒の古い料理屋があり、来客があるとよく利用した。
丸市は150年ぐらい前から続いているのだそうで、奥の座敷には幕末の維新の志士が書いた手紙を貼りつけた屏風があった。
中条はもともと街道の宿場町で、料理屋は2軒とも旧街道からちょっと入ったところにあった。車がやっと1台通れるぐらいの狭い道に面していたので、車で行くときは大変だった。この辺の狭い道は車などなかった江戸時代のままなのではなかろうか。
ある時、お客さんと二人で丸市に行くと玄関が閉まっていた。予約をしておいたのに変だなと思って、呼び鈴を押すと、女将さんが出てきて、
「今日はお客さんがないので休みにしました」
と言う。
「そんなはずはない。予約を入れてあるはずだが」
と言うと、
「いや、これは大変申し訳ありませんでした。何とかしますから、どうぞお上がり下さい」
と言う。
「そんなこと言ったって、用意がなくて今から何とかなるの?」
と心配したが、
「えらい済みませんでした。とにかく何とかしますから、お上がりになって、少しお待ち下さい」
の一点張りである。東京などと違い、ここが駄目なら別のところで、というわけにも行かないので、お世話になることにした。
どうなることかと心配したが、ありあわせの材料でちゃんと格好をつけてくれた。
その夜は女将さんに何回も謝られたが、こっちはどっちが悪いのか分からないので、お客の手前、適当にお茶を濁しておいた。
翌朝、会社へ出ると真っ先に庶務課に電話して、
「昨夜、丸市にお客さんを連れていったが、予約が取れてなかった。どっちのミスか至急調べて欲しい」
と頼むと、会社の方のミスだと分かった。いろんな予約を変更したり、取り消したりしているうちに、間違えて取り消してしまったらしい。
私はすぐ丸市に電話して、女将さんに、
「昨日のはうちの方のミスだった。店が閉まっていたときはどうしようかと思ったけど、女将さんのおかげで本当に助かった」
とお礼を言った。
連れていったお客の前では、自分が悪者になって、こっちの顔を立ててくれたのだ。これが本当のプロだろう。女将の鑑である。
終わってみればあっという間の2年半だった。
冬は長くて寒かったが、人情は暖かかった。
ずっと太平洋側に住んでいた私には貴重な経験だった。
(完)
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