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「Pen.友」第29号(2003年4月発行)掲載 PDFファイル
(掲載誌では写真は白黒ですが、ここではカラーにしてあります)
36年振りのフロリダ
酒 井 寿 紀
人は誰でも、年を取ると、昔いたところに行ってみたくなるようだ。子供の頃住んでいたところとか、疎開先とか……
われわれ8人もそうだった。われわれは1965年に、フロリダのウェスト・パーム・ビーチに滞在していた。そして、顔を合わすたびに、もう一度あそこへ行ってみたいね、という話をしていた。
われわれとは、日立製作所でコンピュータの開発に従事していた人達で、その後東京工科大学の学長をされた高橋茂さんを最年長に、その後日立電子エンジニアリングの社長をされた萱島興三さん、東京工科大学の教授をされている浦城恒雄さん、そして三木亮爾さん、大野泰廣さん、内田頼利さんと、入社2年目だった林のケンちゃんこと林健治さんと私の8人である。
当時、われわれは高橋課長の下でコンピュータの開発に従事していて、1965年にRCAの中型コンピュータ Spectra 70/35 (日立名8300)をRCAと共同で開発するためにフロリダのRCAの工場に行っていた。
当時は最年長の高橋さんが40代の半ばで、一番若かった林のケンちゃんと私が20代の半ばだった。その高橋さんも80になられた。他の人も同じように年を取ったわけだ。
そしてこの8人のサムライが2001年の5月に、36年振りで再度フロリダを訪れた。
以下はこのセンチメンタル・ジャーニーの話である。
大野さんがフロリダ行きに一番熱心で、私は大野さんに強引に幹事役を頼まれてしまった。このメンバーでは、当時新入社員だった私に、雑用や運転手の役が回ってくるのはしかたがなかった。これは逃げられそうにないと、大野さんの下働きという条件で幹事役を引き受けることにした。
まず、当時滞在していたトロピカル・アイル(Tropical Isle)というウェスト・パーム・ビーチのモーテルをインターネットで捜すと、何と今もちゃんとあるではないか。
このモーテルは長期滞在者用に調理台、食器、冷蔵庫などがついていて、われわれはそこで自炊していた。現在どんな風になっているのかまったく分らなかったが、何はともあれここに泊まろうということになった。
2000年の11月のある日、自宅からここに電話をした。
翌年の5月の下旬に8部屋、3泊、予約したいという話が終ると、
「Why do you come here? (どうしてここに来るんですか?)」
と聞かれてしまった。それはそうだろう。日本から直接予約の電話が入るようなところではないのだ。いったい何者なんだろうと、いぶかしく思っている様子だった。
そこで、実は、1965年にわれわれはみんなトロピカル・アイルに滞在していたこと、当時ウェスト・パーム・ビーチにあったRCAの工場でコンピュータの共同開発プロジェクトに従事していたこと、などを話した。
そして私は、一番心配な点をおそるおそる聞いた。
「ところで、トロピカル・アイルの建物は当時と基本的には同じですか?」
「基本的には変わっていません。最近の写真が載っているパンフレットを送ってあげます」
これを聞いて一安心した。何せ、あれから30年以上経っているのだ。名前は同じでも似ても似つかぬものになってしまっている可能性もある。
こうして一番大事な宿泊先は決まった。
宿泊は、ウェスト・パーム・ビーチのほかには、前の滞在中に何回か遊びに行ったマイアミで2泊することにした。
この2個所を拠点にしてどこへ行こうか相談した。
ともかく1日はウェスト・パーム・ビーチ近辺で、RCAの工場の跡のほか、当時行ったレストラン、スーパーマーケット、アイスクリーム屋、ゴルフ場等に行くことにした。これが今回の旅行のメイン・イベントである。
その他の行事としては、4人は是非ゴルフをやりたいという。ウェスト・パーム・ビーチのRCAの工場のそばに昔からゴルフ場があり、われわれはそこのレストランでよく昼飯を食べていた。その後その近くにPGA (Professional Golfers’ Association)の本部とPGAが運営する90ホールの大ゴルフ場ができていた。
4人はここで、プロのツアーに使うコースにチャレンジすることになった。
マイアミでは、36年前と同じように、フォンテンブロー・ヒルトンのディナー・ショーを見ようということになり、宿泊もそこにすることにした。
ほかの行事としては、ケネディー宇宙センターとかキー・ウェストへ行こうという話もあったが、希望者が少ないのでやめることにし、結局、マイアミの水族館へ行き、近海をクルージングして、あとはホテルのプールサイドでのんびりと過ごそうということになった。
日本人の旅行者には朝から晩まで動き回る人が多い。私もヨーロッパなどに出かけると、ついつい欲張って一日中歩き回り、疲れ果ててしまうことが多い。そういう意味では、今回は予定が少なく、のんびりと気の向くままに過ごすという超リッチな旅行だった。
いっしょに仕事をしていたRCAの人達に会えるといいのだが、という話がみんなから出た。と言っても、アメリカのことだから、RCAが1971年にコンピュータから撤退した時に、技術者はみんな他社に移っただろうし、RCAそのものがもう存在しないので手がかりがまったくない。
しかたがないので、インターネットのディレクトリ・サービスで、当時いっしょに仕事をしていたRCAの人の名前を調べ、同姓同名の人全員に、次のようなメールを送ってみることにした。
「もしもあなたが1960年代にRCAのフロリダの工場にいた人だったら連絡を下さい。もしそうでなかったら、お手を煩わせたことをご容赦頂き、このメールを削除して下さい」
このメールに対し、残念ながら返事は1通も来なかった。どうやら本人には届かなかったようだ。
当時トロピカル・アイルのオーナーだったディーキンさんの消息も知りたいと思い、現在の管理人に聞いたが知らないと言う。
ディーキンさんの先妻の娘さんのリンダと、彼女といっしょに住んでいたダイアンという娘さんが、しょっちゅうトロピカル・アイルに遊びに来て、われわれとも仲良くしていた。
彼女達にもう一度会いたいという人もいた。しかし当時ダイアンが20で、リンダは16だった。ということは、36足すと56と52になる。
高橋さんが言った。
「太ったおばちゃんに、ワーッ懐かしい、とか言われて、抱き着かれたら大変だ」
それを聞いて、みんな真剣に捜そうという意欲が薄れたようだった。
結局現地でも彼女たちの消息を聞き出すことはできなかった。
私も二人といっしょにマイアミまで遊びに行ったりしたが、幸いにして見つからず、思い出の中でいつまでも若いままでいてくれることができてよかった。
こうして、2001年の5月の下旬に8人そろってフロリダに出かけた。
パーム・ビーチ国際空港は見違えるように立派な建物になっていた。レンタカー2台に分乗してトロピカル・アイルに向かったが、そのモーテルがある島へ渡る橋は、中央部が高く、下を船が自由に通れる、新しい大きい橋に変っていた。昔はごく小さな橋だった。
しかしトロピカル・アイルは、管理人が言っていた通り、まったく昔のままだった。私が電話で聞いた、「基本的には同じ」どころか、ほとんどまったく同じなのに驚いた。建物の形や色だけでなく、その汚れ具合に至るまで、まったく昔のままなのだ。変ったのは庭に柵ができたことぐらいだった。
昔近所にあったホテルがなくなり、新しいホテルがいくつもでき、空港も道路も橋もずいぶん変わっているのに、どういうわけか、トロピカル・アイルだけはつぶれもせず、立派にもならず、昔のままの姿でわれわれを迎えてくれたのだ。
次の日は、何はさて置き、先ずRCAの工場の跡に行った。
RCAがコンピュータ部門を売却してからちょうど30年になるので、もう跡形もないかも知れないと思いながら行ってみた。周辺の道路も大幅に変っている。
しかし、そこに着くと、建物がまったく昔のままの姿で残っていた。RCAはもうないので、貸しビルになっていて、小さいテナントがたくさん入っているのだが、建物自身は昔とまったく同じだ。複雑なレイアウトの平屋建てで、中庭には池と熱帯植物が生い茂った植え込みがある。
われわれは36年前に、この建屋に隣接して設置されたトレーラー・ハウスの中で、RCAの人達といっしょにコンピュータを設計していた。
みんなで、この辺で仕事をしていたとか、あっちの方が製造現場だったとか、ここにキャフェテリアがあったとか、わいわい話し合いながら歩き回った。昔を思い出してみんないささか興奮気味だった。
世の中、36年経っても、変ってないところは変ってないのだ。
トロピカル・アイルもRCAの工場も昔のまま。そしてわれわれ8人のメンバーも昔と同じ。すると、しばらく経つうちに何だかすっかり昔と同じ気分になってしまったようだ。その結果、どんなことになっただろうか?
◇ ・ ◇
アメリカでの車の運転に慣れている林のケンちゃんが、一時停止で止まらなかったり、右折でちょっと縁石に乗り上げたり、やや大雑把な運転をして、萱島さんに散々文句を言われた。まったく昔の新入社員並の扱いになってしまった。
彼のために多少弁護すると、ウェスト・パーム・ビーチの脇道は制限速度が時速25マイルでやたらと一時停止が多く、私も見落としたことがあった。またレンタカーは、1台で4人のスーツケースを運ぶために、リンカーンのタウン・カーという8気筒、4.6リッターの大きいものだったので、私も、幅寄せをする時、右の車輪を縁石に乗り上げたことがあった。
◇ ・ ◇
その萱島さんは、レストランでチップを払う時、いちいち高橋さんに、「こんなもんでいいですか」とお伺いを立てていた。36年前とまったく同じである。
当時は海外生活の経験者は高橋さんだけで、われわれはみんな、レストランでの食事のしかたからチップの払い方、英語の言い回しなど、何から何まで高橋さんに教わった。その後、みんな海外に関係する仕事に従事したが、この時の経験がどんなに役に立ったことだろう。萱島さんも、あれから何十回も海外出張をされて、充分慣れているはずだと思うのだが、ここへ来た途端に昔に戻ってしまったようだった。
またあるホテルで、高橋さんがベルボーイに、みんなの分をまとめて5ドルのチップを渡したのだが、萱島さんがそれに気づかずに1ドルのチップを渡した。それを見て、高橋さんが言った。
「余計なことをせんでいい。俺がまとめて払ったんだ」
70になる上場会社の元社長さんも36年前と同じ扱いになってしまった。そして高橋さんはおいくつになられてもわれわれのドンだった。
◇ ・ ◇
4人がゴルフをする前日に、ゴルフ場の場所と予約の確認を兼ねて、みんなでPGA の90ホールの大ゴルフ場を見に行った。
ゴルフは内田さんの係りになっていたので、内田さんの車が先導して行ったのだが、ゴルフ場がめちゃくちゃに広く、なかなか目的のクラブハウスに着かない。人に聞きながら、車であっちへ行ったりこっちへ行ったりして、やっとたどり着くことができた。
私といっしょに後ろの車に乗っていた浦城さんが、あとで内田さんといっしょに歩きながら、道の捜し方が下手だと散々けちをつける。内田さんもとうとう腹を立てて、
「僕は運転に集中してたんで、道は誰か他の人が教えてくれないと困る」
と言い出す。
少し離れて後ろを歩いていた私は、隣の高橋さんに言った。
「あの二人は36年前とまったく同じですね」
二人は昔も、何かにつけてよく激論を戦わせていた。
◇ ・ ◇
トロピカル・アイルの管理人が、1代まえの管理人の電話番号を教えてくれた。この人ならわれわれが滞在していた頃のオーナーの消息を知っているかも知れないと思い、この人に電話をかけようと思って高橋さんに話すと、
「いや、俺が電話するよ」
とのこと。
そうだ、昔は、アメリカ人との折衝はすべて高橋さんの仕事だったのだ。われわれ新入社員ごときがしゃしゃり出ることではなかったのだ。
電話をして頂いたところ、ディーキンさんのご主人は10年ぐらい前に亡くなり、それ以来奥さんとも音信不通とのことだった。
◇ ・ ◇
まわりの環境もいっしょにいる人も昔のままだと、人間関係も昔に戻ってしまうということがよく分かった。どんなに年を取っても年齢の差は変わらないのだ。
36年前にタイム・スリップしたような錯覚に襲われた。
ウェスト・パーム・ビーチでは、美術館などを見てまわった。暑くて喉が渇き、通りがかりの食堂でアイスクリームを食べた。しかし、36年前に始めてアメリカのアイスクリームを食べた時のあの感激はもうなかった。アメリカのアイスクリームがまずくなったのではなく、日本のアイスクリームが当時と比べ格段においしくなったためだろう。
トロピカル・アイルに3泊したあと、われわれはレンタカー2台に分乗してマイアミに向かった。ウェスト・パーム・ビーチからマイアミまでは約120キロメートルで、前に来た時は大西洋岸の道を3時間ぐらいかけてドライブした。
大西洋の真っ青な海と海岸沿いに並ぶ美しい大邸宅を見ながら、ヤシ並木の道路をドライブするのは気持ちがいい。しかし、マイアミまでこうして走るのは時間がかかりすぎて飽きてしまう。現在はインターステート95というフロリダの東海岸を縦貫するフリーウェイができているので、景色はよくないが、途中はそれを使った。
昔はこの辺のフリーウェイといえば、もっと内陸側を走るサンシャイン・ステート・パークウェイという道路しかなかった。現在この道はフロリダズ・ターンパイクという有料道路になっていた。
当時、日本の自動車道路は「名神」ができたばかりで、「東名」はまだなかった。まっ平らなフロリダを一直線に延びる道に喜びすぎて、スピード違反で捕まった人もいた。
私は当時、日本の免許証で車を運転していた。警察に聞いたら、短期滞在ならかまわないと言う。おとなは誰でも免許証を持っているのが当たり前な国なんだ、と改めて思ったものだ。
マイアミでは、マイアミ・ビーチのフォンテンブロー・ヒルトンに泊り、ここのトロピガーラというレストランでディナー・ショーを見ることにしていた。
どうしてかというと、われわれのなかの5人が、前にここのショーを見て、忘れられない思い出があるからである。
その時、ここの最前列のテーブルで食事をしていた。すると、フランスから来た若い女性の歌手が、歌の途中で、一番前に座っていた大野さんのところに来て、
「Take off your glasses! (眼鏡を取りなさい!)」
と言う。大野さんが素直に眼鏡を取ると、何とその歌手は大野さんの顔じゅうにキスをしたのである。後で感想を聞いたら、
「いや、何とも言えない、いい香りでした」
とのことだった。
だから、何としてもこの思い出のレストランでまた食事をしようということになったのである。
今回もわれわれは最前列で食事をしていた。しかし、今回出てきた歌手は、前回のほっそりとした若い女性とは大違いで、恐ろしく太った年増のおばちゃんだった。歌の途中で、
「昔ムーラン・ルージュに出ていた頃はウェストが22インチだったが、今ではこんなにフィレ・ミニョンみたいになってしまった」
などと、自分の容姿をネタにしてお客をさんざん笑わせた。
その歌手が、またもやつかつかと大野さんのところにやって来て、今回はものも言わずに眼鏡を取りあげ、大野さんの頭を巨大なバストに抱え込んだ。
そのおばちゃんが放そうとしないので、大野さんは歌の後半ずっとそのかっこうで、実に気持ちがよさよさそうにニコニコとしていた。われわれはみんな唖然として見ていた。
あとで私は大野さんに言った。
「36年間に2回ここに来て、2回ともステージに出るとは、打率10割じゃないですか。これはギネス・ブックものですよ!」
また言った。
「大野さんはよっぽどプロの女性に好かれる顔をしているんだなあ!」
確かにそうなのだ。最前列に座っている人はほかにもたくさんいるのに、どういう訳か、今度の歌手も迷わずまっすぐに大野さんのところにやって来たのだ。
やはりこの人は、顔じゅうに熱烈なキスをされても、顔をバストに押し付けられても、パニックに陥ったりせずに、悠然とにこやかな笑顔で応えられる数少ない人なのだ。それを一目で見破ったプロの女性の眼力に改めて感心した。この眼力こそ「ギネス・ブックもの」が実現した秘密である。
フォンテンブロー・ヒルトンに着いた日に、晩飯までに時間があったので、ホテルのプールサイドのデッキチェアで日光浴をしていた。
しかし、昔のこの辺のホテルのプールサイドとまるで感じが違うのである。何が違うのだろう?
昔を思い出すと、プールサイドには人も少なく、年配の夫婦が静かにプールに浮いていた光景が瞼に浮かんでくる。その奥さんが、「どこから来たんですか?」と聞くので、「日本です」と答えると、「ラフカディオ・ハーンを読んだことがある」と言っていたのを思い出す。
ところが今はまったく違うのである。メモリアル・デーの週末だったせいもあるだろうが、ジャズの演奏がスピーカーから流れ、子供がワーワー、キャーキャー騒いでいる。マイアミの高級ホテルも大衆化し、若い人が家族連れで遊びに来るようになったらしい。
そして、アフリカやラテン・アメリカ系の客がやたらと多く、プールサイドを闊歩している。昔は、客はみんな白人で、色の付いた人は使用人だけだった。当時は、フロリダではまだ人種差別の名残が濃く残っていて、運転免許証には人種を記入する欄があり、レストランのトイレも別になっているところもあった。
その後、西海岸には何回も来て、あまり社会の変化を感じていなかったが、36年振りにフロリダに来て、アメリカの社会がこの間に大きく変ったのだということをつくづく感じた。
今度の旅行ではインターネットをずいぶん活用した。
トロピカル・アイルの電話番号、フォンテンブロー・ヒルトンのレストランの名前、PGAのゴルフ・コースの情報など、みんなインターネットで調べた。
1台に4つのスーツケースを積むのに必要なレンタカーの大きさもレンタカー会社のウェブサイトに出ていた。またそのサイトで、レンタカーに携帯電話のオプションがあることが分かり、日本で借りるより安かったので、お互いの連絡用にそれを借りることにした。
マイアミでのクルージングの船の情報も詳しく出ていた。われわれは帆船に乗ったが、それは独自のウェブサイトを持っていた。
現地でレストランを捜したりするのにインターネットを使いたかったので、会社のサブノート・パソコンを1台借りて持って行った。
これは大変役に立ったが、インターネットで適当なレストランを捜すのもなかなか大変だった。たとえばウェスト・パーム・ビーチでシーフードのレストランを捜すと、何と全部で300軒以上出ていた。情報が多すぎるのも困ったものだ。検索のテクニックが重要だ。
また、ある美術館に行ってみようと、地図を見て車で捜したが、いくら捜しても見当たらない。どうも変だとモーテルに帰ってインターネットで調べたら、最近移転したということだった。たまたま次の日その移転先の近くに行ったので立ち寄ってみた。
私が見た地図は99年発行のもので、まだ2年しか経ってなかったが、もう情報が古くなっていたのだ。改めてインターネットの威力を感じた。
ウェスト・パーム・ビーチとマイアミでの5日間は、こうしてあっという間に過ぎてしまった。
8人のグループが全員そろって、30年以上も前の海外の滞在先を再訪するということは、世の中にもそうないだろう。われわれの旅行も、もし日程が半年先だったら、テロ騒ぎで実現が難しかったと思う。ウェスト・パーム・ビーチからマイアミへ行く途中で通ったボカ・ラトンは、何ヶ月にも渡って全米を恐怖のどん底に陥らせた炭疽菌入り郵便の投函地である。
われわれはその後会うたびに、
「いい時に行ってよかったね」
と話しあっている。
36年振りにフロリダへ行ってみて、世の中には変るところと変わらないところがあるものだとつくづく感じた。そして、人間というものは何年経ってもまったく変らないものだということがよく分かった。
(完)
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