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No.310 酒 井 寿 紀 2003/04/22
アメリカは「テロ支援国家」だった!?
前号で取りあげたアメリカの新保守主義の組織「The Project for the New American Century (PNAC)」は、その「理念」の中で言う。 「われわれはレーガン政権に成功をもたらした重要な要素を忘れてしまった。現在および将来に備えた強力な軍事力、米国の理念を果敢に推進する外交政策、などである」 「もし20世紀に続き、21世紀にも米国の安全保障と偉大さを堅持しようとするなら、レーガン時代の軍事力と道徳的明快さが不可欠である」1)
では、1981年から88年のレーガン時代にアメリカは海外で何をしたか? ここではイラクとアフガニスタンに対する政策を振り返ってみよう。
1979年にイランで革命が起き、中東で一番親米的だったパフラビ朝が倒れ、アメリカは大打撃を受けた。ホメイニを担いだ革命政権はアメリカにとってもっとも好ましくない政権だった。翌年、イラクがイランに侵攻し、イラン−イラク戦争が始まった。アメリカは、当初中立を表明していたが、81年3月にイラクへの支援を開始した。そして、アブ・ニダルというテロ組織の本拠地がイラクにあったにもかかわらず、イラクをテロ支援国家のリストからはずし、ジェット旅客機などの輸出を認可した。2)
1986年に政府関係者が、人質解放の見返りにイランに武器を密売し、そのカネをニカラグアの反政府組織に渡したという、イラン・コントラ事件が発覚した。これは、同盟国にイランへの支援を禁じていた政策と矛盾するものだった。アメリカは、同盟国に対する立場上、イラクにさらに肩入れをする必要が生じ、イラクに対し、諜報活動で得た情報の提供をはじめた。2)
その後、イランがペルシャ湾で攻勢に出ると、アメリカは、イラク支援のため、航行の安全確保を口実に、大艦隊をペルシャ湾に派遣してイラン海軍を攻撃した。2)
イラクは88年3月に国内のクルド人5,000人を化学兵器で虐殺した。この虐殺は7月のイラン降伏後も続いたが、アメリカはそれに対して何もしなかったばかりか、支援を継続した。
米国の企業は1985年から90年の間に、約8億ドルの軍事用にも使える航空機をイラ クに売った。そして米国政府は、88年から89年にかけて、イラクの原子力機関に生物兵器のもとになる物質を売り、ミサイル生産工場に電子装置を売ることを認可した。また、88年7月に米国のベクテルは石油化学工場建設の契約を結んだ。イラクはそこでマスタードガスを生産する計画だったという。3)
米国の民間企業は1982年に「米国−イラク・ビジネス・フォーラム」を設立し、イラクへの輸出認可促進のロビー活動を続けてきた。その代表のマーシャル・ワイリーは、化学兵器使用に対するイラクへの制裁を行わないよう政府に要望した。また、イラクがクウェートに侵攻する4ヶ月前の1990年4月に、米国の上院議員団がイラクを訪問した際、米国はイラクの味方であり、国連による制裁には拒否権を行使して反対すると言ったという。3)
このようにアメリカは、1980年代を通じて、イラクのフセイン政権を支援し、育成し続けてきたのだ。人道を無視した独裁を続け、テロ組織を支援し、化学兵器を使い、イランに侵攻したフセイン政権を、である。それが90年8月にイラクがクウェートに侵攻するや一夜にして180度変わった。別にイラクが急に変わったわけではない。変わったのはアメリカの方である。
一方アフガニスタンでは、1979年に旧ソ連がアフガニスタンに侵攻した。
長年タリバンの調査をしてきたパキスタンのジャーナリスト、アハメド・ラシッド氏によると、CIAとパキスタンの情報機関は、ソ連に対抗するため、1982年から92年にかけて、40カ国から3万5000人のイスラム過激派を集めたという。4) その中にオサマ・ビン・ラディンもいた。
CIAのミルトン・ビアドマンは言う。「オサマ・ビン・ラディンは自分が米国のために働いているのだということを知らなかった。彼は、『自分も、兄弟たちも、アメリカの支援の証拠を見たことがない』と言っていた」 そしてレーガン大統領は85年に、イスラム過激派に対する秘密軍事援助の増強指令にサインした。4)
一方、CIAは麻薬で活動資金を調達した。東南アジアの政治が専門で、麻薬の実態を調査したウィスコンシン大学のアルフレッド・マッコイ教授は言う。「CIAの活動の結果、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯は世界最大のヘロインの生産地になり、米国の需要の60%を満たすようになった。パキスタンのヘロイン中毒患者は、1979年にはほぼゼロだったが、1985年には120万人になった。・・・CIAがアフガニスタンの農民にケシを植えさせた。国境のパキスタン側で、パキスタンの諜報機関の保護のもとに、何百もの施設でヘロインが生産された。・・・CIAの元役員は、冷戦に勝つために麻薬戦争を犠牲にした、と認めた」4)
これがレーガン政権時代の米国の外交政策の実態である。ソ連に対抗するためとか中東の石油を安定して入手するためという、米国の大目標達成のためには、ほかの国民が独裁政治に苦しもうが、化学兵器で殺されようが、テロが活発化しようが、麻薬中毒患者が増えようが、それらはみんな米国にとってはマイナーな、犠牲になってもしかたがない問題なのである。
このレーガン時代を理想としているのが米国の「新保守主義」である。米国の政治家が米国の利益を最優先するのは当たり前だが、度が過ぎるとほかの国にとっては大迷惑だ。
1) “Statement of Principles” The Project for the New American Century, June 3, 1997
( http://www.newamericancentury.org/statementofprinciples.htm )
2) Stephen R. Shalom “The United States and the Iran-Iraq War” Boston: South End Press, 1993
( http://www.zmag.org/zmag/articles/ShalomIranIraq.html )
3) Lance Selfa “The 1991 Gulf War: Establishing a New World Order” International Socialist Review,
Issue 7, Spring 1999 ( http://www.isreview.org/issues/07/1991GulfWar.shtml )
4) Michel Chossudovsky “Who is Osama Bin Laden?” Centre for Research on Globalization,
12 September, 2001 ( http://www.globalresearch.ca/articles/CHO109C.html )
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