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「 5 0 音 」 は 生 き て い る

言 葉 の メ モ 帳 (2)        酒 井 寿 紀

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目    次

1. はじめに

2. 現在の日本語の「音」はいくつ?

3. ヨーロッパの言葉に出会って

4. 中国語に出会って

5. 中国語の「音」の対応づけ作業

     (1) 母音について    (2) 子音について

6. おわりに

付表1 「現在の50音」

付表2 「10世紀頃の50音」


1. はじめに

 「ギリシア語の影」に続き、「言葉のメモ帳」第2弾として、今度は日本語を取り上げることにする。前編同様、まったくの奴素人がいい加減な話を始めるので、何か知識を得ようと言う方でなく、日本語の歴史について一緒に考えようと思って下さる方に読んで頂ければ幸いです。

 さて、日本語の基本になる「音」は、いわゆる「50音」とか、「いろは48文字」とかいわれるように、昔からだいたい50前後からなるといわれている。しかし「子音+母音」の組み合わせを「音」とすると、現在の日本語では、「ファ」、「ヴァ」、「シェ」、「チェ」等、昔は使われなかった変な「音」が大量に使われている。これらは、ヨーロッパから外国語を取り入れた後、使い出されたものだ。

 明治以降大量にヨーロッパ文明を取り入れたとき、いわゆる「外来語」を表現するために、それまで日本語では使われなかった「音」を使うようになった。

 それでは、それよりはるか昔、日本が中国の文化を取り入れたとき、日本語の「音」に何が起きたのだろうか? 

 それを一緒に考えてみようというのがこの小冊子の趣旨である。

2. 現在の日本語の「音」はいくつ?

 「子音+母音」の組み合わせを「音」としたとき、現代の日本語では一体いくつの「音」が使われているのだろうか?

 私がざっと数えたところでは、だいたい120種ぐらいあるようだ。

 巻末の 「現在の50音」 を参照願いたい。

 まず基本となるのがいわゆる「50音」。ただし現在の日本語では「音」としては「ヤ行」が「ヤ」、「ユ」、「ヨ」の3つ、「ワ行」が「ワ」1つしかないので、合計6つマイナスとなり44音。ここで「ヲ」は「オ」と同じ音なので数えない。

 次が「濁音」。「ガ」、「ザ」、「ダ」、「バ」の4行20音からなるが、現在の日本語では「ヂ」、「ヅ」が「ジ」、「ズ」と同じため、マイナス2で18音。

 次に「半濁音」が「パ」行の5音。

 次が「拗音」といわれる、ローマ字で書くと子音と母音の間に「y」が入るもの。これが「キャ」、「シャ」、「チャ」、「ニャ」、「ヒャ」、「ミャ」、「リャ」の7行につき「ャ」、「ュ」、「ョ」の各3音。さらに「シェ」、「チェ」、「テュ」を加えて合計24音。

 何故「シェ」、「チェ」、「テュ」が追加になったのかは後で触れる。

 次が「拗音」の「濁音」と「半濁音」。「ギャ」、「ジャ」、「ビャ」、「ピャ」4行についての各3音に、「ジェ」、「デュ」を加えて合計14音。

 その他として、「ファ」、「フィ」、「フェ」、「フォ」、「ヴァ」、「ヴィ」、「ヴェ」、「ヴォ」、「ウィ」、「ウェ」、「ウォ」、「ティ」、「トゥ」、「ディ」、「ドゥ」の15音。

 これらをすべて合計すると120音になる。これらが現在新聞、雑誌等で一般的に使われている日本語の「音」である。

 この他にも、例えばドイツの固有名詞で、「ツァイス」の「ツァ」、「ツェッペリン」の「ツェ」等が使われ、また叫び声等では「キェ」、「ヒェ」、「ギェ」等も使われる。このように外国語や叫び声、動物の鳴き声、物音等をかなり自由に表せるのが日本語の特徴で、上記の120音というのはあくまでもだいたいの目安である。

 ここでは一応一般の日本語の辞書に載っているものだけを数え上げることにしたが、上記の中でも「トゥ」、「ドゥ」等は辞書にはないかも知れない。

3. ヨーロッパの言葉に出会って

 さて、上記120音のなかに、主として明治以降のヨーロッパを中心とする海外の文化の導入時に日本語に取り入れられた「音」はどれぐらいあるのだろうか?

 巻末の 「現在の50音」 の表で「*」印をつけたものがこれに該当すると思われる。

 上から順に見ていこう。

 まず「シェ」。英語の「sharp」、「shoot」、「shock」等は従来からあった「シャ」、「シュ」、「ショ」で表せたが「Shakespeare」等の表示のために「シェ」を使いだした。それ以前の日本語には「シェ」という音はなかったのだと思うが、日本には「先生」を「シェンシェイ」という地方もあり、ずっと昔には「サ、シ、ス、セ、ソ」が「シャ、シ、シュ、シェ、ショ」だったという説もあるようで、「シェ」はあまり苦労なく日本語に取り入れられたようだ。

 次に「チェ」。これについても、英語の「chance」、「chewing gum」、「chocolate」等は従来からあった「チャ」、「チュ」、「チョ」で表せたが、「chain」等を表すために「チェ」が使われだした。それまでは「舌打ち」の音ぐらいにしか使われなかったのだと思う。

 次は「ミュ」。「ミャ」は「脈」、「ミョ」は「ミョウガ」等で使われていたが、「ミュ」は「music」等を表すために使われだした。「キュ」は「急」、「シュ」は「終」、「チュ」は「中」、「ニュ」は「入」、「ヒュ」は「日向」、「リュ」は「龍」等、他の「ュ」の拗音はすべて従来から使われていたのに何故「ミュ」だけ使われていなかったのだろうか? 

 次に「ジェ」。これも「just」、「juice」、「joke」等は従来からの「ジャ」、「ジュ」、「ジョ」で表せたが、「jet」等を表すために日本語に始めて「ジェ」が登場した。しかしこれは同じ「ジャ」行の中なので抵抗なく受け入れられたようだ。

 次が「ファ」、「フィ」、「フェ」、「フォ」。これらはヨーロッパの言語の「f」の音を表すものである。日本語にはこの子音がなかったため、一番近い「フ」に「ァ」、「ィ」、「ェ」、「ォ」をつけて表したものだ。

 しかしこういう音は日本語になかったため、日本人は大変苦労している。芸能界では「fan」を「フアン」と言い、NTTは「telephone」を「テレホン」と言い、音の大きさの「phon」が「ホン」と言われるのもすべて「f」の発音になじめないためだ。

 ずっと昔には、「ハ」「ヒ」「ヘ」「ホ」が「ファ」「フィ」「フェ」「フォ」だったということだが、その当時ヨーロッパの言葉を導入していたら、「fan」は「ハン」、「fin」は「ヒン」、「fence」は「ヘンス」、「phon」は今と同様「ホン」と書いて現在の日本人よりヨーロッパの言葉に近い発音をしたのだろう。但し、昔の人が「ハ」を「ファ」と言ったというときの「ファ」とヨーロッパの言葉の「f」はたぶんかなり違う音だったのだと思う。

 次は「ヴァ」、「ヴィ」、「ヴェ」、「ヴォ」。これらは英語、フランス語の「v」、ドイツ語の「w」の音を表すものだ。これも「ファ」行同様日本語になかった音だ。「f」に対する「フ」のような近い音もなかったため、「ウ」という「母音」の「濁音」を作ってしまった。江戸時代の人がこれを読めと言われたらどんな顔をしただろうか? たぶんわれわれが濁点付きの「ア」、「イ」、「エ」、「オ」を読めと言われるようなものだろう。

 この音も日本人は苦手だ。面倒くさいと「volley ball」が「バレーボール」になり、テニスの「volley」は「ボレー」になってしまう。「television」は「テレビジョン」、「video」は「ビデオ」、「violin」は「バイオリン」、「Venus」は「ビーナス」、「Venice」は「ベニス」、「volunteer」は「ボランティア」、「vitamin」は「ビタミン」と言うのが普通だ。

 次は「ウィ」、「ウェ」、「ウォ」。これらは「Winchester」、「west」、「Wall Street」等を表すときに使われる。もともと日本語には「ワ」行に「ヰ」、「ヱ」、「ヲ」があり、「ウィ」、「ウェ」、「ウォ」と発音されたようだ。森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」という小説はラテン語の「Vita Sexualis」から来たもので、ラテン語の「ウィ」を「ヰ」で表している。「ヰ」を「ウィ」と発音していた頃の日本人なら、上の例は「ヰンチェスター」、「ヱスト」、「ヲールストリート」と書いたことだろう。

 これも日本人には苦手で、「whisky」は「ウイスキー」、「wafers」は「ウエハース」、野球の「waste ball」は「ウエストボール」と言っている。

 次は「ティ」と「トゥ」。これらは「ti」と「tu」を表すものだ。もともと日本語の「チ」、「ツ」は「ti」、「tu」だったという説もあるようだが、現在では「chi」、「tsu」になってしまった。そのため「ti」、「tu」は「ティ」、「トゥ」と表記され、「tea」は「ティー」、新聞の「Today」は「トゥデー」と書かれる。しかしこれも日本語にない発音のため、「tip」は「チップ」、「ticket」は「チケット」、「Tibet」は「チベット」、「tour」は「ツアー」、「tool」は「ツール」と「チ」と「ツ」で代用してしまうことが多いようだ。

 次は「ディ」「ドゥ」。これらは「Dean」とか「Dolittle」とかを表すときに使われる。これについても昔は「ヂ」、「ヅ」が「ジ」、「ズ」と違い「di」、「du」だったという説もあるようだ。しかし現在ではこの音がなくなってしまったため、「distemper」を「ジステンパー」、「diphtheria」を「ジフテリア」と言いやすい音に変えてしまたものもあるようだ。

 最後に「テュ」「デュ」。これらは「tudor」、「duke」等を表すときに使われる。他の拗音はすべて「キャ」、「シャ」等のように、「イ」段の音に「ャ」、「ュ」、「ョ」がついたものなのに、「テュ」、「デュ」だけ「エ」段の音の拗音なのは、これは実は「ティ」、「ディ」という「イ」段相当の音の拗音だからである。従って本来「ティャ」、「ディャ」と書くべきものである。では何故「テャ」、「テョ」、「デャ」、「デョ」がないのだろうか? これらはあってもよいのだが、たまたまこういう音を持った外来語がなかったため、使う必要がなかったためであろう。将来どこかの国の言葉を表すときにこれらが使われることになるかも知れない。

 以上を合計すると21音になる。われわれが現在使っている日本語の120音中の21音が明治以降の外国の文化の導入に伴って新たに日本語で使われるようになった音ということになる。ということはそれ以前の日本語は99音しかなかったわけで、日本語の「音」は明治時代前後に約20%追加になったわけである。

4. 中国語に出会って

 外国の文化を取り入れるときには一般に相当数の外来語を自国語に追加することになる。同時に今までその国では使われなかった「音」も追加になる。

 日本が外国の文化をまとめて大量に取り入れたのは、最近では明治時代のヨーロッパの文化である。その時日本語に追加になった「音」について前節で述べた。

 それではそれ以前に外国の文化をまとめて大量に取り入れたことはなかったであろうか? もちろんある。古墳時代から奈良時代にかけての中国の文化の導入がこれに当たる。明治時代のヨーロッパの文化の導入に匹敵する異文化の導入がこの時代に行われた。しかも中国語はヨーロッパの言語と同様に日本語とは全く違う言語であった。従って、ヨーロッパの言語の導入時に約20%の「音」が追加になったのなら、中国語の導入時にも同程度の「音」の追加があってもいいはずだ。

 これが本当かどうか調べてみることにしよう。

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 先ず、中国語の導入が一通り終わった頃の日本語の「音」をはっきりさせる必要がある。

それを平安時代の10世紀前後として「古語辞典」等から推定したのが巻末の 「10世紀頃の50音」 である。

 前節で触れた、「現在の50音」120音から「*」印21音を引いた99音が出発点になる。

 平安時代に「カナ」が作られた時は、この表にない「ヰ」「ヱ」「ヲ」があった。わざわざ「イ」「エ」「オ」と別の字を作ったのだから当時は別の読み方をしていたと考えるべきだろう。これらは「ウィ」「ウェ」「ウォ」と読まれたようだ。「位」「威」「違」「維」「為」「委」「胃」等中国語の「wei」の当時の音読みが「イ」でなく「ヰ」であること等からもそのように思われる。「衣」「伊」「医」「移」「以」「意」「易」等中国語の「yi」には「イ」を、そして上記の「wei」には「ヰ」を当てたものと思われる。

 また当時は「ヂ」「ヅ」は「ジ」「ズ」とは別の発音をしていたようだ。従って「ヂャ」「ヂュ」「ヂョ」も「ジャ」「ジュ」「ジョ」とは違う音になる。

 また旧仮名遣いでは「観音」は「クンノン」と書いた。ということは昔は「カ」と「ク」を区別して発音していたと思われる。

 99音にこれら9音を加えると108音になる。

 この他、さらに昔は、「ヤ」行の「エ」が「ア」行の「エ」とも「ワ」行の「ヱ」とも違ったらしいが、平安時代に「カナ」が発明された頃には「ア」行の「エ」と区別がなくなったようだ。だからこの「音」のための特別な「カナ」は用意されていない。

 また日本語の大先生の橋本進吉博士によると、万葉集の時代には、「エ」「キ」「ケ」「コ」「ソ」「ト」等20の音がそれぞれ2種類あったとのことである。しかしこれも平安時代にはそれぞれ1種類になってしまったようだ。私が麻布中学・高校で日本語の文法を教わった橋本研一先生はこの方の息子さんだった。

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 さてこれら108音のうち、もともと「ヤマトコトバ」にあったものはどれで、中国語導入時に新たに作られたものはどれだろうか?

 「10世紀頃の50音」 の表で「*」印をつけたものが中国語導入時に作られたものと思われる。

 大きく3つのグループに分かれる。

 先ず第1のグループは「ハ」行の半濁音の「パ」「ピ」「プ」「ペ」「ポ」の5音。古語辞典を見ても「パ」「ピ」「プ」「ペ」「ポ」を使った「ヤマトコトバ」はない。これらは「一般」「物品」「散布」「天変」「散歩」等で、「ッ」や「ン」の後の「ハ 」「ヒ」「フ」「ヘ」「ホ」に使われるようになったものである。

 第2のグループは「拗音」。全部で35音ある。これも古語辞典で調べると、もともとの「ヤマトコトバ」にはなく、中国語を導入したときに作られたもののようだ。しかしよくわからない点もある。

 例えば、「キョウ(今日)」はどうだろうか? これは中国から来た言葉ではない。これは昔は「ケフ」と書き、ずっと昔には「ケフ」と言っていたのだろう。「キョウ」は「ケフ」の訛りと思うが、いつ頃から使われるようになったのだろうか?

 「ヒュウガ(日向)」はどうだろうか? これも多分「ヒムカ」が訛ったものではないかと思う。

 「シマショウ」「シチャッタ」「ソリャ」「オッシャル」等はどうだろうか? これらはそれぞれ、「シマセウ」「シテシマッタ」「ソレハ」「オホセラル」の訛りと思われる。

 こういう「訛り」の世界では中国語伝来以前から拗音が使われていたのであろうか? それとも中国語導入時に始めて作られた拗音が日本語化して、「訛り」の世界で広く使われるようになったのだろうか? いずれにせよ現在の日本語で拗音が使われるのは圧倒的に中国伝来の言葉が多いようだ。

 そして第3は「ク」。これは中国語の「観」「関」の「guan」、「光」「広」の「guang」、「怪」「乖」の「guai」等の「gua」、あるい「寛」の「kuan」、「快」の「kuang」等の「kua」を表すために作られた。できるだけ中国語の発音に忠実に、ということで作ったのだろうが、時代と共にその苦労(?)は忘れられ、ただの「カ」と区別がなくなってしまった。

 「パ」「ピ」「プ」「ペ」「ポ」5音と「拗音」35音、それに「ク」を加えた41音が中国語導入時の産物と思われる。そうするとそれ以前の「ヤマトコトバ」で使われていたのは残りの67音ということになる。つまり中国語の導入により、日本語の音が約60%増えたことになる。

 この他、「音」としてはもともとの「ヤマトコトバ」にもあったが、使われ方が大幅に拡大されたものもある。例えば、頭に「ラ」行のつく言葉、頭に「濁音」のつく言葉はもともとの日本語にはなかったようだ。

 また「本」等の「ン」のつく言葉、「一般」等の「ッ」を含んだ言葉も中国語と共に日本語に取り入れられたものだ。

 こららも含めると、中国の文化に触れたときに、日本語の「音」に一大変化があったことがわかる。

5. 中国語の「音」の対応づけ作業

 中国語の伝来時に増えた日本語の「音」は40位らしい。それでは、それ以前の「ヤマトコトバ」の「音」になかった中国語の「音」は40位だったのだろうか? これは全く違うようだ。

 現在の中国語では母音(「韻母」と呼ばれる)が38、子音(「声母」と呼ばれる)が21あるそうだ。掛け算すると800近くになるが、実際に使われるのは標準語でそのうち411の組み合わせということである。それにしても日本語の50音とは大変な違いだ。中国語の基本となる「語」はすべて「1字」=「1音節」で、これで意味の違いを表す必要があるため、これだけの「音」を使い分けることになったのだろう。

 これだけの「音」を10分の1位しかない日本語の「音」に対応づける必要があった。これは多少「音」を追加すれば済むというようななま易しい話ではなかった。一体どのようにしてこの「対応づけ」が行われたのだろうか? 「母音」と「子音」に分けて調べてみよう。

 

(1) 母音について

 現在の中国語の「母音(韻母)」は、「a」「o」「u」等簡単なものの他、「ai」「an」「ang」「iang」「iao」「uang」等、全部で38あるという。これを日本語の5つの母音に対応づけないといけないのだから容易ではない。

 

二重母音の導入

 もともと日本語には「二重母音」はなかった。現在の日本語の「青」は「アヲ」(「アウォ」と発音)、「恋」は「コヒ」、「買う」は「カフ」のように、すべて 「子音」−「母音」−「子音」−「母音」のようにつながり、決して「母音」−「母音」とつながることはなかった。現在の日本人は何の抵抗もなく「青い」と言えるが、万葉集の時代はこれは「アヲシ」で、「アオイ」等というような母音の連続は、彼らにはまさに「開いた口がふさがらない」話だったのだろう。

 しかし中国語の38音を表すのに「単母音」だけではどうしようもないので、例えば「愛」は「アイ」、「工」は「コウ」、「共」は「キョウ」というように「二重母音」を使うようになった。但し「二重母音」の2番目の音は「イ」と「ウ」だけである。現在の中国語には「老(lao)」「多(duo)」「鉄(tie)」等「アオ」「ウオ」「イエ」に近い音があるのに「オ」や「エ」のつく二重母音ができなかったのは何故だろうか? 昔はこれらの中国語の音が違ったのだろうか?

 

「ン」の発明

 中国語には「半(ban)」「参(can)」「単(dan)」等「n」で終わる音がたくさんある。一方日本語にはこういう「口をふさいだまま終わる」音はなかった。そこで新たに「ン」という字を作った。しかしこういう口の動かし方をしたことはなかったので、当時の人にはさぞ発音しにくい音だったのだと思う。明治の人がヨーロッパの言葉の「f」や「v」を発音するのに苦労したのと同様な苦労をしたのではなかろうか? 現在では「ン」はすっかり日本語に馴染んで当たり前になってしまった。後1000年もたてば「ファ」や「ヴァ」も日本語にすっかり馴染んでしまうことだろう。

 ここで一つ分からないことがある。せっかく「ン」を発明したのに、なぜこれを、「氷(bing)」「層(ceng)」「従(cong)」「場(chang)」「成(cheng)」「当(dang)」「定(ding)」「方(fang)」「公(gong)」「行(hang)」等、現在の中国語で「ng」のつく音に使わなかったのだろう? 上記の例でも分かるように、これらは「ヒョウ」「ソウ」「ジュウ」等、すべて「ウ」をつけて表している。「成」も呉音は「ジャウ」、「定」も呉音は「ヂャウ」だ。

 朝鮮語はよく知らないが、これらの漢字の朝鮮語の発音は中国語と同じ「ng」だ。漢字は朝鮮経由で日本に伝わったものと思われるが、そうすると朝鮮から日本に伝わる途中で「ng」が「ウ」に化けてしまったことになる。どうしてもっと近い「ン」を使わず「ウ」を使ったのだろう?


2音節化

 「二重母音」を使い、「ン」を発明したが、これだけではとても中国語の38の母音を表現できなかった。しかたがないので、一部の音を2音節にしてしまって何とか音で識別できるようにした。

2音節にしたものを調べると、2音節目は「ク」「キ」「フ」「ツ」「チ」の5音に限られるようだ。

「白(bai)」の「ハク」、「北(bei)」の「ホク」、「尺(chi)」の「シャク」、「得(de)」の「トク」、「独(du)」の「ドク」等は「ク」がつく。

「壁(bi)」の「ヘキ」、「赤(chi)」の「セキ」、「的(di)」の「テキ」、「績(chi)」の「セキ」、「力(li)」の「リキ」等は「キ」がつく。

旧仮名遣いになるが、「塔(da)」の「タフ」、「蝶(die)」の「テフ」、「法(fa)」の「ハフ」、「合(he)」の「ガフ」、「立(li)」の「リフ」は「フ」がつく。

「必(bi)」の「ヒツ」、「別(bie)」の「ベツ」、「撮(cuo)」の「サツ」、「喫(chi)」の「キツ」、「達(da)」の「タツ」等は「ツ」がつく。

 

「八(ba)」の「ハチ」、「達(da)」の「ダチ」、「罰(fa)」の「バチ」、「一(yi)」の「イチ」等は「チ」がつく。

現在の中国語では同じ音でも、2音節にしたり、しなかったりしたものもある。例えば、同じ「bi」でも「鼻」は「ビ」、「比」は「ヒ」、「必」は「ヒツ」、「壁」は「ヘキ」であり、同じ「gu」でも「古」「固」は「コ」、「谷」は「コク」、「骨」は「コツ」である。

何故このように一部のものだけが2音節になったのだろうか?

日本と同じように中国から漢字を輸入した朝鮮語ではどうなっているだろうか? 当時の朝鮮語の「音」は知らないので、現在の朝鮮語の音と日本語の音の関係を調べてみよう。

先ず、第2音節が「ク」の漢字には、「白」「百」「北」「策」「促」「畜」「独」「読」「服」「福」「谷」「国」「黒」「楽」「力」「絡」「木」「目」等があるが、これらは現在の朝鮮語ではすべて「k」で終わる。日本人には「k」で終わる音は発音しにくいので「二重母音化」の「ウ」をつけて「ク」としたのだろう。

次に、第2音節が「キ」の漢字には、「壁」「碧」「赤」「的」「溺」「石」「責」等があるが、これらも現在の朝鮮語ではすべて「k」がつく。これらには「二重母音化」の「イ」をつけて「キ」としたのだろう。

では「ク」と「キ」はどう使い分けたのだろうか? 上の例で見る限り、第1音節が「ア」「イ」「ウ」「オ」段のものには「ク」、「エ」段のものには「キ」を使っているようだ。何故こうなったのだろうか?

次に、第2音節が旧仮名遣いで「フ」の漢字には、「挿(サフ)」「諜(テフ)」「乏(ボフ)」「法(ハフ)」「甲(カフ)」「納(ナフ)」「入(ニフ)」「協(ケフ)」「猟(レフ)」「答(タフ)」「合(ガフ)」等があるが、これらは現在の朝鮮語ではすべて「p」がつく。これに「ウ」がつくと「プ」になる。現在の「ハ、ヒ、フ、ヘ、ホ」は、昔は「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」で、さらにその前は「パ、ピ、プ、ペ、ポ」だったというから、当時は「フ」と書いて「プ」と読んだのだろう。

次に、第2音節が「ツ」の漢字は、「筆」「必」「別」「撮」「察」「達」「奪」「発」「伐」「仏」「骨」「接」「結」「絶」「渇」「窟」「列」「律」「没」「密」「熱」「物」等数多くあるが、これらはすべて朝鮮語で「l」がつく。これに「ウ」をつければ「ル」となるが、どうしてそうならなかったのだろうか? 日本語にはもともと「ラ」行音が少なく、言いにくかったためだろうか? 

最後に、第2音節が「チ」の漢字には、「八」「罰」等があるが、これらも朝鮮語では「l」がつく。

 

こうして朝鮮語の「音(オン)読み」と「日本語の(オン)読み」には密接な関係があることが分かったが、中国語との関係はどうだろうか?

例えば中国語では同じ「bi」と発音される漢字について調べてみると、

 日本語で「ビ」「ヒ」と読まれる「鼻」「比」は朝鮮語では「pi」、

 「ヘキ」と読まれる「壁」「碧」は「pjek」、(「e」は、本当は逆さまになる)

 「ヒツ」と読まれる「筆」「必」は「phil」、

となっている。

また、中国語では同じ「gu」と発音されるものについて調べると、

 日本語で「コ」と読まれる「古」「固」は朝鮮語でも「ko」、

 「コク」と読まれる「谷」は「kok」、

 「コツ」と読まれる「骨」は「kol」、

となっている。

要するに現在の中国語の音に関係なく、朝鮮語と日本語がきちんと対応している。

その理由を調べると、南北朝から唐の時代の中国語の音には、現在の中国語と違い、「k」、「p」、「t」で終わるものがあったようである。

朝鮮語には「k」、「p」で終わる音があったので、中国の音をそのまま導入したのだろう。しかし「t」で終わる音はなかったので、「l」で代用したのだろう。

日本語には子音で終わる音がなかったので、「k」には「i」や「u」をつけて「キ」や「ク」にし、「p」には「u」をつけて「フ」にした。そして、「t」にも「i」や「u」をつけて「チ」や「ツ」にした。

その後中国語から、これらの言葉の最後の子音はなくなったが、日本語と朝鮮語にはその痕跡が今も残っている。本家は変わってしまったが、分家の方は昔の習わしを守っていることはよくあることだ。

日本語の漢字の音の一部は、このように古い中国の音を利用して中国語の1音節を2音節化した。これも、中国の複雑な母音の導入に対処する一手段だった。


親の心子知らず

 旧仮名遣いの「コウ」「カウ」「クウ」「カフ」が現在は「コウ」だけになってしまった。同様に「ソウ」「サウ」「サフ」が「ソウ」になり、「キャウ」「キョウ」「ケウ」「ケフ」が「キョウ」になり、「シャウ」「ショウ」「セウ」が「ショウ」になり、「チャウ」「チョウ」「テウ」「テフ」が「チョウ」になってしまった。

 では中国語伝来当時の人は、これらを中国語の音に対応させてきちんと使い分けていたのだろうか、それともいい加減に適当に使っていたのだろうか?

 「邦(bang)」=「ハウ」、「倉(cang)」=「サウ」、「常(chang)」=「ジャウ」、「当(dang)」=「タウ」、「方(fang)」=「ハウ」、「鋼(gang)」=「カウ」等のように「ang」にはほとんど「アウ」を当てている。(但し「棒(bang)」=「ボウ」のような例外もある)

 「東(dong)」=「トウ」、「公(gong)」=「コウ」、「紅(hong)」=「コウ」、「孔(kong)」=「コウ」、「聾(long)」=「ロウ」等「ong」には「オウ」を当てているものが多い。「従(cong)」=「ジュウ」、「虫(chong)」=「チュウ」、「龍(long)」=「リュウ」等「ong」に「ュウ」を当てているものもあるが「アウ」を当てているものはないようだ。

 「表(biao)」=「ヘウ」、「彫(diao)」=「テウ」、「教(jiao)」=「ケウ」、「料(liao)」=「レウ」、「秒(miao)」=「ベウ」、「尿(niao)」=「ネウ」等「iao」には「エウ」を当てている。「交(jiao)」の漢音は「カウ」だが呉音は「ケウ」だ。

 「挿(cha)」=「サフ」、「塔(da)」=「タフ」、「法(fa)」=「ハフ」、「納(na)」=「ナフ」等では「a」に「アフ」を当てている。

 「蝶(die)」=「テフ」、「協(xie)」=「ケフ」、「帖(tie)」=「テフ」では「ie」に「エフ」を当てている。

 このように「アウ」、「オウ」、「エウ」、「エフ」を、中国語の音に従って、きちんと使い分けている。これらは現在ではすべて「オウ」になってしまった。

 しかし、例えば「cheng」について「称」は「ショウ」、「掌」は「シャウ」というように中国語の1音に対し日本語が2つも3つもあるものもある。これらが単なる混乱なのか、伝来時期の差、中国の地方の差、日本の受け手の違い等の理由によるものかは不明である。

 いずれにしても、中国語導入の初期には、中国語の音の差を何とか日本語で表現しようと苦労した後が伺われる。しかし時間と共にこんな先人の苦労は忘れ去られ、いつのまにか「キャウ」も「キョウ」も「ケウ」も「ケフ」も「キョー」と発音されるようになり、戦後の新仮名遣いでは「キョウ」と書かれるようになった。「親の心子知らず」である。

 

ゴチャゴチャな対応づけ

 以上規則性のあるものについて触れたが、全体的にはどうだろうか?

 中国語の38の母音を日本語の5つの母音の組み合わせに対応づけるのだから、中国語のいくつかの母音が日本語の一つの母音に対応づけられるはずである。確かにその通りで、例えば、「上(shang)」「正(zheng)」「将(jiang)」「床(chuang)」「青(qing)」等はすべて「シャウ」だ。中国語ではこれらは聞いただけですべて区別できるのに、日本語では全部同じ音になってしまった。現在ではこれらはさらに「ショウ」「セウ」とも同じ音になってしまった。その結果日本語は同音異義語が滅茶苦茶に多くなり、耳から聞いただけでは非常にわかりにくい言語になってしまった。

 いくつかの中国語の音をまとめて、一つの日本語の音に対応づけただけなら、まだ話はすっきりするのだが、実際にはそうなっていない。一つの中国語の音を何種類もの日本語の音に対応させているものも多い。

 例えば、現在の中国語では同じ「bao」でも、「包」は「ハウ」、「保」は「ホ」、「暴」は「ボウ」、「爆」は「バク」、「宝」は「ホウ」と何通りもの音を当てている。他にも4〜5通りの音を当てているものはざらにある。

 どうしてこういう面倒なことになったのだろうか? 現在の中国語では同じ音でも昔の中国語では音が違ったものもあるだろう。南北朝時代に南京地方から伝わった「呉音」と、隋、唐の時代に洛陽、長安地方から伝わった「漢音」が有名だが、この他細かい時代の差、地方の差が相当あったのだろう。こういういわば「まともな」差の他、たまたま伝えた人の方言が影響したとか、伝えた人の発音が悪かったとか、伝え聞いた日本人の耳が悪くて誤解したとか、いろいろな話が影響しているのではないかと思う。そうでなければこんなにまでゴチャゴチャな対応づけにはなりそうもない。

(2) 子音について

 現在の中国語の子音(声母)は21あるといわれる。それに対して日本語は「カサタナハマラ」と「ガザダバ」の各行に対応する11音である。ここでは「ヤ」行、「ワ」行は両者から抜いてある。

 母音同様にここでも差が大きく、どう対応づけるかが問題となる。

 

「ハ」行、「バ」行、「パ」行の関係

 「発(fa)」「反(fan)」「方(fang)」「非(fei)」「分(fen)」「仏(fo)」「父(fu)」等「f」がつく語が「ハ」行で表されている。

 一方、「海(hai)」「漢(han)」「好(hao)」「黒(hei)」「紅(hong)」「花(hua)」「歓(huan)」「回(hui)」「火(huo)」等「h」がつく語は「ハ」行でなく「カ」行で表されている。

 「h」を「ハ」行で表すのがもっとも自然なのに、これは何を意味するのだろうか? 昔の「ハ」行は「h」よりも「f」に近かったことに他ならない。

 現在の朝鮮語では「漢」は「han」等、上記の「h」のつく語は朝鮮語でも「h」で表されている。しかし当時の日本語には「h」の音がなかったため、しかたなしに「k」で代用したのだろう。その後日本語の「ハ」行の音が変わり、「h」になったが、今更「海」を「カイ」でなく「ハイ」と言う気にはならなかったのだろう。その頃には「海(カイ)」はすっかり日本語に馴染んでしまい、元の中国語の発音など誰も気にしなくなったのだろう。

 上記のように「f」に「ハ」行が当てられているが、その他に「b」と「p」にも「ハ」行と「バ」行が当てられている。「白(bai)」「北(bei)」「氷(bing)」「配(pei)」「皮(pi)」「平(ping)」等には「ハ」行が使われ、「倍(bei)」「鼻(bi)」「部(bu)」「傍(pang)」「賠(pei)」「婆(po)」には「バ」行が使われる。

 中国語の「b」と「p」は「無気音」と「有気音」で日本語では区別がない。「b」に「バ」行が使われるのは極めて自然である。ここでの「ハ」行は現在の「h」の音でなく「パ」行に近かったのではなかろうか? 「バ」行は「ハ」行の濁音ではなく、「パ」行の濁音である。「バ」行と「パ」行は口の形が同じで、「ハ」行は全く違う。英語の「b」と「p」と「h」の関係も同じである。

 昔は「ハ」行が「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」と発音され、さらに前には「パ、ピ、プ、ペ、ポ」だったという説があるようだが、漢字の音からもそう思われる。そして「バ」行は「パ」行の濁音のまま残ったのだろう。「ハ」行が変な方向に行ってしまったので、しかたなく新たに「パ」行を作った。本来「ハ」行は「パピプペポ」の音のために残し、新たに「h」の行を作った方が清音と濁音の関係がすっきりしたのだ。「h」の濁音など言えるわけがない。

 

「マ」行と「バ」行、「ナ」行と「ダ」行

 「馬(ma)」は「マ」とも「バ」とも読む。「米(mi)」は「マイ」とも「ベイ」とも読む。「木(mu)」は「モク」とも「ボク」とも読む。

 また「内(nei)」は「ナイ」「ダイ」、「男(nan)」は「ナン」「ダン」、「女(nu)」は「ニョ」「ヂョ」とそれぞれ2通りに読む。

 これは何故だろうか? また「m」を「マ」行、「n」を「ナ」行に当てるのは当然として、「m」を「バ」行、「n」を「ダ」行という関係のなさそうな行に当てたのは何故なのだろうか?

 漢和辞典で調べると、上記の「マ」「マイ」「モク」「ナイ」「ナン」「ニョ」はすべて呉音で、「バ」「ベイ」「ボク」「ダイ」「ダン」「ヂョ」はすべて漢音であることが分かる。これらは呉音、漢音とも使われる例だが、一般には一方しか使われない漢字にも、辞典には他方がちゃんと載っているものが多い。

 例えば、「満(man)」について、呉音の「マン」に対し漢音の「バン」、

    「毎(mei)」について、呉音の「マイ」に対し漢音の「バイ」、

    「美(mei)」について、漢音の「ビ」に対し呉音の「ミ」、

    「門(men)」について、呉音の「モン」に対し漢音の「ボン」、

    「牧(mu)」について、漢音の「ボク」に対し呉音の「モク」、

    「納(na)」について、呉音の「ナフ」に対し漢音の「ダフ」、

    「南(nan)」について、呉音の「ナン」に対し漢音の「ダン」、

    「脳(nao)」について、呉音の「ナウ」に対し漢音の「ダウ」、

    「能(neng)」について、呉音の「ノウ」に対し漢音の「ドウ」、

    「尼(ni)」について、呉音の「ニ」に対し漢音の「デ」

 がそれぞれ存在するという。

 要するに辞書に載ってないものも含め、呉音の「m」「n」は漢音ではすべて「b」「d」になり、漢音には「m」「n」の音が存在しなかったのではないかと思う。

 何故こうなったのだろうか? 鏡を見ながら「マミムメモ」と「バビブベボ」を言ってみると口の形が全く同じことが分かる。「ナニヌネノ」と「ダヂヅデド」についても同じである。(但し、昔のように、「ヂ」は「di」、「ヅ」は「du」と言わなければならない) 違うのは鼻の使い方だけである。

 これは何を意味するのだろうか? 

 呉音、現在の中国語、現在の朝鮮語はすべて「m」「n」だ。ところが日本の「漢音」だけ「b」[d」なのだ。「隋」「唐」の人は息を鼻に抜くことができなかったのだろうか? 鼻の構造が違っていたのだろうか? それにしてはその後もとに戻ったのが不思議だ。「漢音」を日本に伝えた人が風邪を引いていて鼻が悪かったのだろうか?

 

「ラ」行の悲劇

 日本語にはもともと「ラ」行のつく言葉はなかった。「春(ハル)」「晴れ」「明るい」等2番目以降の音、あるいは「来る」「・・・られる」のような動詞の活用部分、または助動詞にしか使われなかったようだ。

 ところが中国語には「l」のつく語が多い。これらをすべて「ラ」行に当てた。従って現在の日本語の「ラ」行は「ヤマトコトバ」で使われるものより中国からの「外来語」で使われるものが圧倒的に多い。ここで悲劇が生じた。

 その後中国語の音をヨーロッパの文字で表すようになると、この音には「l」が使われるようになった。この音が「r」より「l」に近かったためだろう。ところがそれを輸入した日本語の「ラ」行にはいわゆる「ローマ字」で「r」が使われるようになった。「r」は喉の奥の方を使って出す声で「ラ」行とは相当違うのに何故こうなったのだろうか? 

 フランスへ行くとこれがはっきりする。「r」を「ラ」行で発音したら先ず通じない。私の娘がリヨンの近くの "Reyrieux" という所にいたが、「リヨンでタクシーに乗って“レイリュー”と言っても全然通じない、まだ“ヘイヒュー”といった方が通じる」と言っていた。

 「ラ」行は、その大半の言葉の導入元の中国語と同様に、「l」で表し、「r」に対応する日本語の音はない、としたほうがずっとよかったと思う。

 

出番の少ない「ワ」行

 昔の「ワ」行には「ヰ」「ヱ」「ヲ」があり「ウィ」「ウェ」「ウォ」と読まれていたという。それなら中国語の「w」にはすべてこれらを当てればよかったと思うのだが、実際にはそうなっていないものも多い。

 「歪(wai)」は「ワイ」、「湾(wan)」は「ワン」、でこれらは素直だ。しかし同じ「wan」でも「丸」は「グン」、「万」は「マン」または「バン」である。

 「wei」の「威」「違」「胃」「位」「為」は「ヰ」である。このことから「ヰ」は「イ」でなく「ウィ」と発音されたと推測される。

 同じ「wei」でも「衛」は「ヱイ」または「ヱ」である。従って「ヱ」は「ウェ」と読まれたのだと思われる。しかし「wei」でも、「微」は「ビ」、「未」は「ミ」、「危」は「キ」等様々だ。

 また「温(wen)」は「ヲン」、「翁(weng)」は「ヲウ」、「汚(wu)」は「ヲ」である。これより「ヲ」は「ウォ」と発音されたと推測される。

 しかし「wen」でも「文」は「ブン」または「モン」で、「wu」でも「無」は「ム」、「武」は「ブ」、「五」は「ゴ」等様々だ。

 それにしてもせっかくある「ヰ」「ヱ」「ヲ」があまり使われなかったのはどうしてなのだろうか?

 

「ワ」行の不思議

 ここで面白いのは、「w」が呉音で「マ」行になるものがあるがそれに対する漢音は、前に述べた「m」の漢音と同様に、ちゃんと「バ」行になっていることである。

 例えば、「万(wan)」の呉音は「マン」、漢音は「バン」、 

     「亡(wang)」の呉音は「モウ」、漢音は「バウ」、

     「微(wei)」の呉音は「ミ」、漢音は「ビ」、

     「文(wen)」の呉音は「モン」、漢音は「ブン」、

     「無(wu)」の呉音は「ム」、漢音は「ブ」、

 等である。

 不思議なのはこれらの漢字の朝鮮語の音読みがすべて「m」がつくことである。日本語では普通「バ」行のつく漢音しか使われない、「晩(wan)」「尾(wei)」「舞(wu)」等も朝鮮語ではすべて「m」がつく。これは何を意味するのだろうか?

 朝鮮語の音が「呉音」に近いのは、前に触れた「マ」行、「ナ」行の例等と同様で、日本の漢字は先ず中国の南朝の「呉音」が朝鮮経由で入ってきたとすれば、うなづける。しかし何故「w」が「m」になったのだろうか? 可能性は二つある。中国の南北朝時代の南京付近では現在の「w」を「m」と発音していたか、朝鮮に伝わったとき「w」が「m」に化けたかである。いずれか分からないが、もし後者だとすると、日本の漢字が朝鮮経由で伝わったことの証拠になる。

 

「r」の旅路

 「中国語」の「ri」一つ取ってみても、「日」は「ニチ(呉音)」と「ジツ(漢音)」、「容」は「ヨウ」、「栄」は「エイ」、「冗」は「ジョウ」と実に様々だ。「r」の扱いは一体どうなっているのだろう。

 例によって朝鮮語を調べてみよう。「人(ren)」が「in」、「日(ri)」が「il」、「入(ru)」が「ip」等、子音がついてない。ついていても日本語の「ヤ」「ユ」「ヨ」の「y」の音である。「然(ran)」「容(ri)」「栄(ri)」「柔(rou)」「肉(rou)」「乳(ru)」「軟(ruan)」「弱(ruo)」等皆そうだ。朝鮮語には「r」の音がなかったため面倒だから取ってしまったのだろうか。

 「栄」の「エイ」、「容」の「ヨウ」等はこれが日本に伝わったのだと思う。そして大半のものには「n」がついて日本で「呉音」と呼ばれている。「日」は「ニチ」、「人」は「ニン」、「然」は「ネン」、「柔」は「ニウ」、「肉」は「ニク」、「乳」は「ニュウ」、「軟」は「ナン」、「弱」は「ニャク」等である。何故「n」がついたのかは分からない。

 漢音では「人」が「ジン」、「日」が「ジツ」、「冗」が「ジャウ」、「柔」が「ジウ」、「入」が「ジフ」、「弱」が「ジャク」等「ジ」または「ジャ」のつくものが多い。「ジ」「ジャ」は中国語の「r」と若干似ていると言えるかも知れない。

 前の触れた、「マ」行、「ナ」行、「ワ」行の話でも、朝鮮語には漢音の痕跡はない。漢音は朝鮮を経由せず、中国から直接伝わったものだと思われる。

 

「漢音」の正体は?

 前に触れた通り、「ハ」行、「マ」行、「ワ」行の音について、中国、朝鮮、日本の漢字の世界で、日本語の「漢音」だけが孤立している。

 これ以外の点でも、前に触れたように、「ng」は「ウ」となるのが一般的なのに、一部の漢音では「兵(bing)」が「ヘイ」、「成(cheng)」が「セイ」、「定(ding)」が「テイ」、「京(jing)」が「ケイ」、「冷(leng)」が「レイ」、「明(ming)」が「メイ」、「青(qing)」が「セイ」等と「イ」がつく。現在の日本語では漢音の方が一般化しているものもあるが、上の例では、「ヒャウ」「ジャウ」「ヂャウ」等の呉音の方が一般的なルールに当てはまる。

 この漢音の特殊性はどこから来たのだろうか?

 どうも「漢音」というのは隋、唐の一時期の、一地方の発音が日本に入り、奈良朝の政府がこれを公式発音として採用し、普及に努めたため、日本ではかなり使われるようになったが、中国ではその後使われなくなったのではなかろうか?

 朝鮮にはもともと伝わらなかったのか、伝わったがその後使われなくなったのであろう。

6. おわりに

 分からないことだらけの、いい加減な話にここまでお付き合い頂いたことを感謝します。こういう世界の常識を全く持ち合わせないため、とっくの昔から分かっていることも多く、また調査不足のため誤った判断をしたものも多いのではないかと思う。

 そのうち時間ができたらもう少しちゃんと調べたいと思っている。

 昔の中国語、朝鮮語の音については全く知らないため、この冊子では現在の中国語、朝鮮語の音に基づいて考えたが、本来これは昔の音に基づかなければならない。5〜6世紀頃の中国語、朝鮮語の音はどの程度分かっているのであろうか?

 それにしても、朝鮮語の漢字の「音」と日本語の漢字の「音」が極めて規則的に結びついていることは、漢字伝来当時の両国の近親関係をよく表していると思う。

(完)

 

1996年10月(第1版)

2003年1月(第3版)


付表1 「現在の50音」

   ア    イ    ウ    エ    オ

   カ    キ    ク    ケ    コ

   サ    シ    ス    セ    ソ

   タ    チ    ツ    テ    ト

   ナ    ニ    ヌ    ネ    ノ

   ハ    ヒ    フ    ヘ    ホ

   マ    ミ    ム    メ    モ

   ヤ         ユ         ヨ

   ラ    リ    ル    レ    ロ

   ワ                  (ヲ)

   ガ    ギ    グ    ゲ    ゴ

   ザ    ジ    ズ    ゼ    ゾ

   ダ   (ヂ)  (ヅ)   デ    ド

   バ    ビ    ブ    ベ    ボ

   パ    ピ    プ    ペ    ポ

   キャ        キュ        キョ

   シャ        シュ   シェ *  ショ

   チャ        チュ   チェ *  チョ

   ニャ        ニュ        ニョ

   ヒャ        ヒュ        ヒョ

   ミャ        ミュ *       ミョ

   リャ        リュ        リョ

             テュ *

   ギャ        ギュ        ギョ

   ジャ        ジュ   ジェ *  ジョ

   ビャ        ビュ        ビョ

   ピャ        ピュ        ピョ

             デュ *

   ファ *  フィ *       フェ *  フォ *   

   ヴァ *  ヴィ *       ヴェ *  ヴォ *

        ウィ *       ウェ *  ウォ *

        ティ *  トゥ *

        ディ *  ドゥ *

2. 現在の日本語の「音」はいくつ?」 へ戻る    「3. ヨーロッパの言葉と出会って」 へ戻る


付表2 「10世紀頃の50音」

   ア    イ    ウ    エ    オ

   カ    キ    ク    ケ    コ

   サ    シ    ス    セ    ソ

   タ    チ    ツ    テ    ト

   ナ    ニ    ヌ    ネ    ノ

   ハ    ヒ    フ    ヘ    ホ

   マ    ミ    ム    メ    モ

   ヤ         ユ         ヨ

   ラ    リ    ル    レ    ロ

   ワ    ヰ         ヱ    ヲ

   ガ    ギ    グ    ゲ    ゴ

   ザ    ジ    ズ    ゼ    ゾ

   ダ    ヂ    ヅ    デ    ド

   バ    ビ    ブ    ベ    ボ

   パ *   ピ *   プ *   ペ *   ポ *

   キャ *       キュ *       キョ *

   シャ *       シュ *       ショ *

   チャ *       チュ *       チョ *

   ニャ *       ニュ *       ニョ *

   ヒャ *       ヒュ *       ヒョ *

   ミャ *                 ミョ *

   リャ *       リュ *       リョ *

   ギャ *       ギュ *       ギョ *

   ジャ *       ジュ *       ジョ *

   ヂャ *       ヂュ *       ヂョ *   

   ビャ *       ビュ *       ビョ *

   ピャ *       ピュ *       ピョ *

   ク *

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