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英語公用語化の前に

  酒 井 寿 紀

 英語公用語化=バイリンガル化?

最近、社内の公用語を英語にする企業が多い。楽天やユニクロなどだ。しかし、海外のビジネスで、事実上英語が公用語として使われているのは、何もこれらの企業に限った話ではない。また、これは最近始まった話でもない。

小生が仕事で非英語圏の多くの企業の人と接したのは1980年代だが、ドイツ人、イタリア人、フランス人、スペイン人、デンマーク人、スウェーデン人相手など、すべてビジネスの交渉にも技術教育にも英語を使った。 韓国の技術者とも、直接話すときは英語を使った。インドネシアで海軍の退役将校の人と雑談した時も英語だった。直接話そうとすると、共通に使える言葉は英語しかなかったからだ。

英語がほとんど通じず苦労したのは中国ぐらいだった。1980年代はまだ文化大革命から日が浅く、我々の折衝相手の中国人はほとんど英語の教育を受けてない様子だった。私の経験では、唯一の例外は中国科学院のコンピュータの研究者で、会食で隣の席になった時、たどたどしい英語でいろいろコンピュータのことを話しかけてきた。街ではほとんど英語が通じず、店でもタクシーでも、私のカタコトの中国語で用を足すしかなかった。

このように、社内の公用語を英語にするかどうかには関係なく、国際ビジネスの世界では英語が公用語なのだ。

英語が公用語だということは、我々非英語圏の人間にとっては、常に頭の中で英語と自国語を切り替えて使わなければならないということだ。これはどういう事かというと、自国語または英語で読んだり聞いたりしたことを、自分が持っている膨大な知識の中に体系付けて格納しておいて、必要に応じて、自国語または英語で引き出せるようにしておかなければならないということだ。

本を読む時に頭に入ってくる言葉や数を自分の記憶体系の中に取り込むのには、多少の時間的余裕があるかもしれないが、音声で入ってくる情報の理解や記憶には、こういう余裕がまったくない。英語の言葉や数値を英語のままで理解し、記憶しておくしかない。

つまり、バイリンガルになることが要求されるわけだ。バイリンガルといっても、ギャング映画のセリフがすべて分かり、街で現地の子供と自由に話せるようになる必要はない。仕事や生活に必要な範囲で、英語を使うことができればよいのだ。

バイリンガルというと大げさに聞こえるかもしれないが、ヨーロッパにはいくらでもいる。両親が別の国の生まれの人が多いし、生まれた国と働いている国が違う人もザラにいる。

2005年に96歳で亡くなったハプスブルク家の末裔の女性は、5~6か国語以上話せたそうだ。こういう国際結婚だらけの家系では、そうでないと家族や親類同士で話もできないためだろう。

しかし、英語と日本語のバイリンガルは、欧米の言語の間でのバイリンガルに比べ数段難しいようだ。言語の生まれ育ちがまったく違うのでそれはしかたないが、少しでも改善する方法はないだろうか? 日本語の使い方を工夫することによって、これを改善しようというのが本稿の趣旨である。以下に4点を挙げる。

 

第1:文章は横書きに

元々中国語は縦書きだったが、現在の中国では新聞・雑誌から文学作品に至るまですべて横書きである。同じ漢字文化圏の韓国も縦書きだったが、現在は横書きが主流のようだ。

ところが、日本ではいまだに縦書きが主流である。インターネットの情報は日本語でも横書きだが、同じ画面に表示される電子書籍は縦書きだ。

前に、小生が書いた記事をある技術系の雑誌(横書き)の別冊付録にすることになった時、小生は横書きを望んだが、出版社に「横書きにはもったいない」と言われて大変驚いたことがある。どうも日本では「縦書きの方が格が上」という常識(?)があるらしい。

横書きの方が数字ははるかに扱いやすい。表やグラフの数字は横書きなので、文章の中の数字も横書きの方が、パターンとして同じで、対比が容易だ。

そして、英語公用語化の時代には、欧米人の人名などは原語のままで表記してそのまま記憶しておく方が、話したり書いたりするときに便利だ。現在でも「日経エレクトロニクス」などはこれを実行している。原語の読み方が難しいときは、カナ書きも併記してくれるといい。

文学作品の横書き化を急ぐ必要はないかもしれないが、中国の現状を見ると、文学作品は縦書きでなければならないという理由はあまりなく、単なる慣れの問題のようだ。原稿をパソコンで書き、書籍をインターネットで配信することが増えると、横書きの方が欧米の文章と同様に扱えるため、手間も費用も節減できる。

 

第2:暦年は西暦で

現在の日本では、暦年の表示に日本でしか通用しない元号と世界中で通用する西暦が使われている。

歴史の本では、壬申の乱(672年)から黒船来航(1853年)に至るまで、主に西暦が使われているが、昭和以降の出来事を記した記事には元号を使ったものが多い。昔の出来事はさておき、第2次大戦以降の出来事は国際問題が絡んだものが多いので、近年の出来事こそ西暦にしてくれた方が頭が整理でき記憶に便利なのだが、現実は逆になっている。

政府の公式文書は元号を使っているが、最近は審議会の資料などで西暦を使っているものも多く、両者の対応付けが面倒だ。

かたくなに元号の使用にこだわっているのはNHKで、どういう基準があるのか知らないが、海外の出来事や何年も先の将来の予想や計画などにも元号を使っていることがある。

すべて西暦に統一してくれれば、頭の中の西暦の時間軸にそのまま位置づけられるので、記憶する時も、それを取り出す時も変換が不要で便利だ。英語を公用語として駆使する人々にとって、その利益は特に大きい。

また西暦なら、明治・大正・昭和と生きた人の年齢の計算なども引き算一つで片付く。

元号の併用は日本人に余計な変換の労力と記憶容量の負担を強いている。

天皇制との関係を問題にする人もいるかもしれないが、暦年をを西暦表示にに統一するのはそれとは切り離して、単なる表示法の統一として、尺貫法をメートル法に変更したのと同じようなものだと考えればいい。

 

第3:外国語のカナ書きは原音に近く

日本語には「カナ」という強力な表音文字があって、外国語を何でも日本語の中に取り込める。特に外国の固有名詞の表記には便利だ。

例えば、 こういう表音文字がない中国語は大変だ。米国のオバマ大統領は「奥巴馬」(実際は簡体字を使う)というように、大統領が変わるたびにどの漢字を使うか決めなければならず、またそれを覚える必要がある。地名も、ニューヨークの「紐約」のように、古い大都会は昔から決まっているが、チェルノブイリの原発事故などが起きると、これをどう表記するするかを新たに決める必要がある。これは「切爾諾貝利」と書くようだが、これがチェルノブイリのことだとは我々にはとても分からない。

その点、何でも表記できてしまうカナは、朝鮮語のハングルと共に極めて便利な道具だ。しかし、気を付けないといけない点もある。

小生はある雑誌の記事で"Beverly Hills"を「ベバリーヒルズ」と書いたら、編集者に「ビバリーヒルズ」と直された。調べると確かに日本では「ビバリーヒルズ」が定着していることが分かった。

また、日本のコンピュータ関係の記事では記憶装置のことを、どういうわけか昔から「ストレージ」と書く。カナ書きは所詮原語の音の不完全な表示にしかすぎないが、"storage"をカナにするなら「ストーレジ」だ。いつ誰がこうしたのか知らないが、不適切な表記がいまやすっかり定着してしまっている。

実は、前出の「チェルノブイリ」もおかしいのだ。これはウクライナの地名で、英語では"Chernobyl”と表記するが、テレビなどで聞く音は、カナにすれば「チェルノービル」で、英語でもウクライナ語でも「ノー」にアクセントがある。本稿を書くに当たって日本語のWikipediaを見たら「チョルノーブィリ」となっているので驚いた。この方が確かに原音に近いが、こういう表記は見たことがない。「日本語では、チェルノブイリと書かれることも多い」と付記されていたが、日本では今や「チェルノブイリ」が定着してしまった。

英語と日本語を併用する者にとって、こういう不適切なカナ表記は混乱を招き、困ったものだ。最初に不適切な表記をした者、それを鵜呑みにして真似した者の罪は重い。

フランス語やドイツ語の地名や人名を英語の文章の中で書くときは原語のスペルをそのまま使う。例えばショパン(Chopin)の"ch"の発音は英語とフランス語で全く違うが、そういうことには関係なく、"Chopin"は英語でも"Chopin"のままだ。前に「横書き」の項にも記したように、日本語の文章でも固有名詞は原語のまま記しくれた方が、不適切なカナ書きにするより、英語を公用語として併用する者にとっては便利だ。少なくとも表記は一つだけ覚えればいいからだ。

 

第4:数の表記にはキロ(k)、メガ(M)、ギガ(G)などを

日本語と欧米の言語を併用する者にとって、非常に厄介な問題の一つは、大きい数の数え方の違いだ。日本などの漢字文化圏では、万、億、兆、京と、4桁ごとに区切って数える。一方、欧米の言語では、"thousand"、"million"、"billion"、"trillion"のように、3桁づつ区切る。本を読んだり、原稿を書いたりする時の変換も面倒だが、耳に入ってくる英語などの数の量的イメージを瞬時に捉え、その数値を記憶に留めるのは容易ではない。そして、日本語で記憶している数を英語にするのも大変だ。

この負担を何とか軽減する方法はないものだろうか?

科学技術の世界では、大きい数を扱うとき、「千」を「キロ(k)」、「百万」を「メガ(M)」、「十億」を「ギガ(G)」と、3桁ごとに区切る。これは全世界共通だ。例えば、「千メートル」を「1km」、「千グラム」を「1kg」などと言うのは、誰でも使う。また、携帯電話用電波の周波数に「MHz(ヘルツ)」や「GHz」を使い、原発の発電量に「GW(ワット)」を使うのは、一般の新聞や雑誌でもごく普通だ。

こういう表記は、金額や人数を表すときは、普通は使わない。しかし、小生が勤務していた企業では、社内の文書でしばしば使っていた。表やグラフで大きい数を表示するとき、金額なら「k¥」、「M¥」などとすることはごく普通に行われていた。またそういう資料で説明する時に「キロ円」、「メガ円」などと言う人もいた。社内でそういう習慣がついているため、客先での説明でも「キロ円」などという若い人がいて、「そんな言葉は世の中では通用しない」と叱ったことがある。

しかし、この「キロ」、「メガ」、「ギガ」を日本語の中に全面的に取り入れてはどうだろうか? 日本の人口は「1.3億人」と言う代りに、「130メガ人」と言い、会社の売上を「500億円」と言う変わりに「50ギガ円」と言うのだ。これは、東京・大阪間の距離を「50万m」と言う変わりに「500キロm」というのと同じことだ。慣れの問題で、慣れれば、違和感もなくなるだろう。新聞・雑誌・テレビなどで、全面的にこういう表現を使い、数値を記憶する時もそのまま覚えるようにするのだ。

また、長さについては「km」は使うが、「メガm」や「ギガm」は普通使わず、例えば、静止衛星の地表からの距離は「3万6000m」と言う。しかし、これも「36メガm」と言うことにし、そう覚えておく。要するに、万、億、兆などは、極力使わないようにするのだ。

そうすれば、外国人に日本の人口を聞かれた時は、"130 million"、静止衛星の高さは"36 million meter"などと即座に答えられるようになる。

日本でも、大きい数値は3桁ごとに「,」(カンマ)で区切って表示するので、「キロ」、「メガ」などを使った方が、数を読み取るのが容易になる。営業報告書などには、金額を「百万円」単位などで記しているものもあるので、これを「億円」単位などに変換して話たり、記憶するのは手間がかかるが、「メガ円」、「ギガ円」で読み取り、そのまま記憶すればよければ簡単だ。

もちろん当初は大変な抵抗があるだろうが、尺貫法を全面的にメートル法に改めたことを思えばはるかに容易だろう。客先で「キロ円」などと言って怒られた若者は、実は時代を先取りしていたのかも知れない。

 

小国や発展途上国に負ける?

小生の数少ない経験では、一般に大国の人より小国の人の方が英語がうまいようだ。ドイツ人やフランス人よりデンマーク人の方が流暢に英語を話したし、スペインよりポルトガルの方が街で英語が通用した。小国の人の方が外国人相手の商売の比率が高く、それには英語を使わざるを得ないことがそうさせのだろう。

最近、シリアの難民が大挙して、トルコ、ハンガリー、オーストリア経由でドイツに押しかけている。その人たちが、外国の報道機関のテレビカメラに向かって、英語で堂々と(?)自分たちの窮状を訴えている姿には感心する。難民がすべて高等教育を受けた人達とはとても思えない。日本人が同じような立場になったら、はたしてどれだけの人にこういうことができるだろうか?

今世紀に急激に人口が増え、経済が成長すると思われるのはアフリカだ。アフリカには行ったことがなく、よく知らないが、多分自国語で高等教育を受けるのは難しく、高等教育には英語などに頼らざるを得ないのではないかと思う。そうすると、ビジネスの言葉も自然に英語になる。したがって、全世界のビジネスでの英語の比重は今後ますます高まるだろう。

それに備えて、日本人の英語の能力を磨く必要があるのはもちろんだが、日本語自体も国際化の時代に備えて改善を図るべきだ。それは、日本人にとって、英語公用化を容易にするだけでなく、来日する外国人にとっても、日本語学習の障壁を下げ、観光収入の増大をもたらすからだ。

(完) 2015年9月15日

 


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