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韓 国 の 古 都 め ぐ り

酒 井 寿 紀

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目   次

はじめに……何故韓国か?

韓国語の「…ダ」は肯定文で「…カ」は疑問文

「日本書紀」は「朝鮮書紀」?

3日間で慶州、扶余、ソウルを訪問

青銅器と古墳の時代

漢字と仏教の時代

日本軍の傷跡

現代韓国点描

ソウルの原宿

礼節の国の運転マナー

軍事色は薄れる

同姓同士の結婚

アルコールの分解能力

ハングルと漢字

おわりに


はじめに……何故韓国か?

 

韓国語の「…ダ」は肯定文で「…カ」は疑問文

 

韓国には今迄に仕事で2回行ったことがある。しかし、行ったのはソウルとコンピュータの工場がある2、3の町だけだった。そのうちに是非一度、百済や新羅の都があったところを訪問したいと思っていた。

何故かというと……

私は、はじめての国へ行く時は、海外旅行者用の会話のテープを買って、挨拶と数字を覚えてから行くことにしていた。食事をしたり、買物をしたりする時、何も知らないよりその方が便利だからである。はじめて韓国に行った時も、出発の数日前にテープを買って、聞いてみた。そして驚いた。

韓国語では、肯定文は「……ダ」と言い、疑問文は「……カ」と言う。日本語と同じなのである。例えば、「有り難うございます」という肯定文は「カムサハムニダ」と言い、挨拶に使う「今日は」「ご機嫌如何ですか」という疑問文は「アンニョンハシムニカ」と言うのだ。

数千年前の朝鮮語と日本語がどうだったのかは知らないが、きっと朝鮮語と日本語の間には古いつながりがあるに違いないと思った。

それ以来朝鮮の古い歴史に興味を持つようになった。

 

「日本書紀」は「朝鮮書紀」?

 

日本と朝鮮の古代史に興味を持つようになって、いろいろな本を読んだが、その中に「日本書紀」がある。講談社学術文庫の現代語訳の文庫本である。

これにもまた驚いた。朝鮮関係の話だらけなのである。例えば巻第19の欽明天皇のところを調べると、この文庫本で全部で716行あるが、そのうち何と575行が朝鮮関係の話で、純粋に日本の話は残りの141行しかない。つまり全体の約80%が朝鮮関係の話なのである。

朝鮮関係と言っても、百済の使いが日本に来たとか、任那の日本府の話とか、日本が絡む話も多いが、百済の聖明王が新羅との戦いで戦死した時の状況等、日本と直接関係のないことについても詳しく書いてある。

また任那の日本府の話とか、百済が日本に助けを求めた話とか、日本と関係づけている朝鮮の話も多いが、本当に当時の日本が関係していたのかは疑問だ。日本と関係のない朝鮮の話が多すぎるのも変なので、無理矢理日本と関係づけた話もあるのではないかと思う。

「日本書紀」というのは朝鮮の歴史書でもあるのだ。

一体5世紀から7世紀頃にかけて、日本と朝鮮はどういう関係にあったのだろうか?

何はともあれ、百済とか新羅の都があったところに一回行ってみたいものだと思っていた。

そして今年(2000年)の4月にやっと念願を果たすことができた。

 

 

3日間で慶州、扶余、ソウルを訪問

 

本当は、飛行機とホテルだけ予約して、自由に見て歩きたかったのだが、古い寺等は交通が不便なところが多く、短日程で一通り見るにはツアーに参加するのが手っ取り早いので、今回はそうすることにした。

私にとってははじめての団体での海外旅行だった。団体と言っても、われわれ夫婦の他に、もう一組の夫婦、年配の女性の3人連れ、これが99回目の海外旅行という一人旅のお爺さんの合計8人のグループだった。

飛行機で釜山(プサン)に入り、慶州(キョンジュ)、扶余(プヨ)の近くの温泉、ソウルで各1泊して日本に帰る、3泊4日のツアーだった。

慶州では、新羅時代の大きい寺である仏国寺、古墳がたくさんある古墳公園、国立慶州博物館等を見た。街には古い瓦屋根の民家がよく保存されていた。

「山で囲まれた地形は奈良盆地に似ている。朝鮮から日本に渡来した人達は、故郷の地形に近い奈良に住み着いたのではないか」という文章をどこかで読んだが、なるほどと思う景色だった。

慶州から扶余に移動する途中、大邱(テグ)の近くの海印寺(ヘインサ)に立ち寄った。ここには約8万枚からなる仏教の経典の版木が保存されていて、「八万大蔵経」と呼ばれていた。

扶余では、定林寺(チョンニムサ)という百済時代の寺の跡、国立扶余博物館等を見た。百済時代の建造物はほとんど残ってない。また白馬江(ペクマガン)という川で船に乗り、落花岩(ナックアアム)という、百済が新羅に攻め滅ぼされた時、女官が何千人も身投げしたという絶壁を訪れた。

ソウルでは李朝の宮殿の景福宮(キョンボククン)、李朝の国王の墓がある宗廟(チョンミョ)等へ行った。

ツアーはソウルでは1泊だけだったが、われわれ夫婦は一行と別れてソウルにもう1泊し、昔の建造物がたくさん残っている韓国民俗村というところへ行き、また最近のソウルのショッピング街を見物した。

韓国の南の端の釜山から北の端のソウルまで、500〜600キロメートルをマイクロバスで3日間で走り回ったので乗物に疲れてしまった。個人の旅行ではこんなに効率よく短時間にいろいろなところを見ることはできなかっただろう。しかし博物館の見学時間が30分ぐらいしかなく、もっとゆっくり見たいこともあった。

 

青銅器と古墳の時代

 

朝鮮と日本の古い文化交流をさかのぼると、青銅器と古墳の時代、漢字と仏教の時代、の二つの時代に分けられるように思う。

先ず青銅器と古墳の時代。だいたい5世紀以前の話である。

どの博物館へ行っても遺跡から掘り出された青銅器が大量に展示してある。銅剣、銅矛、銅鏡等で、私のような素人には日本のものとまったく区別がつかない。朝鮮半島の青銅器は紀元前6〜5世紀からあったという。日本の青銅器はこれより後の弥生時代のものなので、朝鮮から伝わったのだろう。中国では紀元前10世紀より前の殷・周の時代から青銅器があったので、中国のものが朝鮮を経由して日本に伝わったのだろう。

前に台北の故宮博物館で日本の銅鐸と同じ形をしたものが楽器として展示されているのを見て驚いたことがある。大きさの順に銅鐸を並べて楽器にしたものだった。もちろん日本の銅鐸とは細かい違いはあるのだろうが、私などには分らず、日本のものと縁がないものとはとても思えないものだった。銅鐸は日本固有のものと思っていたが、そうではなく、ルーツは中国の楽器ではないかと思う。朝鮮の扶余でも銅鐸が出土しているので、銅鐸も中国から朝鮮を経由して日本に伝わってきたもののようだ。

慶州の市内で23基の古墳が集まっている古墳公園と呼ばれる遺跡に行った。日本のものと同じようなお椀を伏せたような円墳がたくさんあった。そのひとつは中に入って内部を見られるようになっていた。内部は石をしっかりと積んだ部屋になっていて、遺体が置いてあった跡を見ることができた。日本の古墳を作った弥生人は朝鮮半島から渡って来たと思われるので、これが日本の古墳のルーツなのだろう。従って、日本の古墳の内部も多分同じように作られているのだろう。

日本でももうそろそろ古墳を発掘したらいいと思う。この点では韓国の方が進んでいる。割り切って学術研究の対象にした方が人類のためだと思う。

前にソウルの国立博物館を訪れた時、勾玉が展示されているのを見て驚いた。これも日本固有のものと思っていたが、朝鮮にもあったのだ。平凡社の「世界大百科事典」の「勾玉」の項には、「勾玉は日本で独自に発達したもの」で、「日本以外でも、新羅の墳墓の副葬品として豊富に出土している」が、それは「かなりの比率で日本製品を含むことは否定できない」と書いてあるが、本当だろうか? 人も青銅器も古墳も朝鮮半島から日本に渡って来たとすると、ほぼ同時代の勾玉も朝鮮半島が本家なのではないだろうか。

三種の神器のうち鏡と剣が中国、朝鮮から伝わったものだとすると、勾玉も朝鮮から伝わった可能性が大きいのではなかろうか? 研究者によく調べてもらいたいものだと思う。

 

 

漢字と仏教の時代

 

次は漢字と仏教が朝鮮から日本に伝わった時代の話である。

高句麗や百済ではじめて歴史の本が書かれたのは4世紀後半だというので、漢字が朝鮮に伝わったのはそれよりだいぶ前のはずである。

古事記によると、日本に始めて中国の書物が伝わったのは、応神天皇の時に百済が和邇(ワニ)に論語十巻、千字文一巻を献上させた時という。それは百済の阿花王が死んだ年のことだったという日本書紀の記述が正しいとすると、405年で、5世紀の始めの話である。この時はじめて本格的に日本に漢字が伝わり、それを使って古事記等の歴史の書物が書かれたのは約300年後である。高句麗や百済で歴史の本が書かれてから300年以上後のことになる。

古事記や日本書紀の記述が事実かどうかは別にしても、当時の文化の流れからも、漢字は朝鮮経由で伝わったものと思われる。このことは朝鮮語と日本語の漢字の音読みが極めて密接に関係していて、それぞれ中国から独立に伝わったとは考えられないことからも明らかである。(拙著「『50音』は生きている」参照)

日本に最初に伝わった漢字の呉音は中国の南朝の音が百済経由で伝わったものと思われる。

日本文化のルーツを探るために、韓国の古い寺を訪問したいと思っていた。しかし日本と違い、古い寺はほとんど残っていなかった。teirin02.jpg (27042 バイト)

例えば、新羅の寺で現在ちゃんと残ってるのは慶州郊外の仏国寺(プルグクサ)だけである。これは535年創建で、韓国最大という大変大きい見事な寺だった。最盛期の8世紀には現在の10倍のスケールがあったという。しかし、秀吉の軍隊に石造物以外はすべて焼かれてしまい、現在の姿に再建されたのは1974年なのだという。新羅時代の元の姿はどんなものだったのだろうか?

百済の寺は新羅以上に何も残ってない。唯一残っているのは、扶余市内の定林寺(チョンリムサ)跡の石造の五重の塔である。何も残っていない広大な寺の跡地の中央に、高さ8.3メートルの塔だけがぽつんと立っていた。

奈良に古い木造建築がかなり残っている日本は、やはり平和な国だったんだなあと改めて思った。

 

 

日本軍の傷跡

 

韓国を縦断して、秀吉の朝鮮出兵が朝鮮に与えた影響の大きさを改めて痛感した。日本では文禄の役と呼ばれるが、朝鮮では壬辰倭乱と呼ばれている。壬辰とは1592年のことである。bukkoku03.jpg (27290 バイト)

前に触れたように、慶州の仏国寺はこの時すべて焼かれ、また李朝の宮殿だったソウルの景福宮はほとんど破壊されて、以後300年間廃虚だったという。朝鮮の歴史の本によると15万の日本軍は釜山に上陸して短期間に平壌迄陥れ、殺戮と略奪を繰り返したため、各地で人口は減少し、田野は荒廃したという。彼らにとってはまさに「倭乱」だったのだ。

釜山にもソウルにも、当時日本軍と戦った海軍の軍人李舜臣の銅像が建っていた。銅像はいずれも日本の方角をにらんでいるように思われた。

日本は19世紀後半以降朝鮮に圧力をかけ続け、ついに1910年から45年までの35年間、完全に植民地にした。この間、王妃を殺害したり、景福宮のどまん中に総督府のビルを建てたり、数々の蛮行を繰り返した。

前にソウルに来た時はこの旧日本総督府の建物が国立中央博物館として使われていたが、現在はこの建物は跡形もなく撤去されていた。国立中央博物館は、小さい仮のビルで展示中で、現在市内に新しいビルを建設中とのことだった。旧総督府のビルを撤去すべきかどうか、意見が分かれていると聞いていたが、結局撤去することになったようだ。これでやっと100年ぶりに日本が侵略する前の景福宮の姿に戻ったわけである。

しかし、建物は撤去できても、この2回に渡る日本軍の傷跡は、朝鮮の歴史から永遠に消えることはない。

 

 

現代韓国点描

 

ソウルの原宿

 

ツアーの一行と別れ、われわれはもう1日ソウルに滞在して街を見て歩いた。ソウルの繁華街の明洞(ミョンドン)はソウルの銀座といわれるところだが、ラルフ・ローレン、ラコステ、リーボック、ナイキ等のブランド物の店が並び、また、マクドナルド、バーガーキング、ケンタッキー・フライドチキン、ハーゲンダッツ等、米国系の食べ物屋が一通り何でもあり、今やソウルの原宿という感じになっていた。

私と女房はナイキの店でそれぞれウォーキング用とゴルフ用の靴を買った。

東大門(トンデムン)に「ミリオレ」という新しいショッピングセンターができ、目茶苦茶に安いというので行ってみた。ビルの中に幅2〜3メートルの小さい店屋が何百軒とあり、ありとあらゆる衣料や靴や鞄や装身具を売っていた。夜も遅かったが、24時間営業ということで、若い人でごった返していた。そのエネルギーに圧倒されて、とうとう何も買わないで帰ってきた。

観光ガイドの女性は安いのでよく利用すると言っていたが、とにかく店屋の数が多すぎて、どこで買ったらいいかわからず、旅行者にはちょっと手におえない。慣れれば、半年に1回ぐらい衣料品をまとめ買いに行けば、とにかく安いので、飛行機代の元が取れるかも知れない。

若い人のエネルギーと言えば、さらに若い小学生の団体のエネルギーにも圧倒された。

いくつかの博物館で、ちょうどシーズンなのか、小学生の遠足の団体に出くわした。列をなして、ほとんど走るような速さで、展示物の前を通り過ぎていく。ほとんど展示物等見てないのだが、みんな小さい手帳に必死になって何か一生懸命書いている。ちょっと覗いて見ると、展示物の名前をハングルで書き留めているのだ。

もちろん先生に言われているのだろうが、その集団エネルギーには空恐ろしさを感じた。この子達が大きくなって、この激しさで仕事をされたら、日本等たちまち追い越されてしまいそうだ。

 

 

礼節の国の運転マナー

 

韓国は儒教が一般生活に浸透しているためか、礼儀作法に非常に厳しい国である。

食事の時、絶対に食器を持ち上げてはいけない。左手を使わず、右手だけで食べなければいけない。ちゃんと茶碗を持って食べなさい、としつけられてきたわれわれ日本人はついつい左手で食器を持ち上げてしまう。

われわれのガイドさんは、食事の前に、「ちゃんとこのルールを守らなければだめですよ」と言い、うっかり間違えると怒られた。われわれ旅行者にも守らせるところを見ると、韓国人にとっては極めて基本的な生活のルールで、これを守らないのはよほど非常識な人なのだろう。

また、人に物を右手で渡す時は、左手を右手の肘に添えるのがマナーだという。かなり悠長な感じがするが、何も公式の行事の時にだけするわけではなく、例えば航空会社のカウンターの女性が航空券を手渡す時もちゃんとやっているので感心する。

一方、ソウルの車の運転マナーと来たら、これはまた実にすさまじい。車がどんどん増えているのに、高速道路の整備が遅れているのと、まともな十字路でないため信号でうまく車をさばけない交差点が多いため、交差点には、ちょっとでも隙間があると、四方から車がどんどん入り込んで来て、まったく身動き(車動き)が取れなくなってしまう。遠慮して道を譲っていたら、いつまでたっても交差点を渡れない。

よく接触事故が起きないものだと思うが、これだけ周りを見ながら運転しなければならないと、かえって事故は起きないのかも知れない。しかし、とてもわれわれ外国人には運転できそうもない。

礼儀正しいマナーの国のこの運転マナーはどういうことなのだろうか? 儒教の教えには運転マナーがなかったためだろうか?

 

軍事色は薄れる

 

前に、韓国のコンピュータ会社の何人かの人と会ったことがある。彼らはみんな兵役を済ませていた。夜間の行軍の訓練に、徹夜で何十キロも歩かされたと聞いて、身体の鍛えられ方の違いに恐れをなした。

また、高速道路はところどころ、戦時の時は中央分離帯を取り除いて滑走路として使えるようになっているとか、ソウルの高層ビルの屋上には対空砲火が配備されているとか聞いて、緊張感を感じたものだ。

現在は、普通に街の中を歩いている限り、そういう緊張感は何も感じられない。しかし、うっかり釜山の空港でビデオを撮っていたら、警官に止められた。空港と言っても、街へ出る出口のところだったが、こういうところはまだ撮影は禁止のようだ。規制は緩和しつつあるようだが、まだ欧米や日本とは差があるので注意が必要のようだ。

 

 

同姓同士の結婚

 

世の中の規制が緩和されつつあるというのは、結婚についての規制についても言えるようだ。韓国では昔から同じ地方出身の同じ姓の人同士は結婚できなかった。しかし、観光ガイドの女性の話によると、最近はできるようになったとのことだった。但しまだ実際には非常に少ないらしい。

これはもともと、できるだけ近親結婚を避けるために設けた制約なのだと思う。しかし、前から疑問に思っていたことがある。それは、こういう制約を設けることによって、確かに父方の家系が近いもの同士の結婚は避けられるが、母方の家系の近さはまったく無視している。このことをガイドさんに聞いてみたら、その通りだと笑っていた。どうもこれは、半分しか意味のない、片手落ちの風習のようだ。だからこれはいずれすたれて行くものと思う。

 

アルコールの分解能力

 

韓国人は、ものを言わなければ、外見上は日本人と区別がつかない人が多い。たぶん世界中で日本人に一番近い民族だろう。

われわれを案内してくれた、金(キム)さんという済州島(チェジュド)出身のガイドさんは、「つ」の発音がちょっとおかしい他は日本語もペラペラで、日本人とまったく区別がつかなかった。日本人でももっと発音のおかしい人がたくさんいる。

日本人も韓国人も、いろいろな民族の血が混ざっているものと思うが、生物学的な距離から言えば、日本人同士、あるいは韓国人同士で生物学的に離れている人より、日本人と韓国人で生物学的に近い者同士の方がよほど近いものと思われる。

弥生時代から7世紀にかけて、朝鮮半島から日本に大量に渡って来たことを思えばこれは当たり前だ。

しかし平均的にはやはり少し違いがあるようだ。

あまり確かな話ではないが、私の経験では酒に対する強さが違うようだ。

彼らはだいたいウイスキーをストレートで飲む。酒に弱い日本人は水で割って飲む人が多い。その為か、契約条件の最後の交渉の時、ストレートのウイスキーの飲み比べをして、負けた方が折れるという競争をさせられ往生した、という話を前に韓国関係の仕事をしていた人から聞いたことがある。

確かに、ウイスキーを水で割って飲む人はあまりいないようだ。前に同席したことがあるキーセンもみんなストレートで飲んでいた。

しかし、韓国人にももちろん酒に弱い人もいるようで、そういう人は横にコーラを入れたコップを置いておき、ウイスキーを飲んだ後コーラを飲む振りをして、コーラのコップにウイスキーを吐き出してしまうのだそうである。だから、コーラは飲めば飲むほどだんだん増えて行く、という話を聞いた。真偽のほどは知らないが。

 

ハングルと漢字

 

釜山からソウルまで車で移動したが、地図を持っていても、道路標識がすべてハングルの為、どの辺を走っているんかほとんど分らなかった。漢字で書いてくれれば分るのにと思ったが、道路標識は日本人や中国人の為にあるわけではないから無理だろう。

韓国では戦後はハングルしか使われていなかったが、やはり不便な為か、最近はだいぶ漢字混じりになってきたようだ。しかし、ガイドさんの話によると、小学校では漢字は教えないので、一般の人が読み書きできる漢字は自分の名前ぐらいとのことだった。従って、今後日本語のように漢字表記を取り入れるにしても、定着するには一世代以上の時間がかかるものと思われる。

 

 

おわりに

 

4泊5日の駆け足旅行だったが、改めて日本と朝鮮の文化の強いつながりを感じた。青銅器も古墳も素人には同じように見えるし、古い寺や仏像もよく似ている。農機具や魚を捕る道具にも同じ物があるが、これらはいつ頃どっちからどっちへ伝わったのだろうか?

奈良時代より前、つまり7世紀以前の物については、ほぼ間違いなく朝鮮半島から日本に伝わったのだと思う。従って、「朝鮮の歴史を知らずして、日本の古代史を語るな!」という気がする。朝鮮の古代の文献がどれだけ残っていて、どれだけ正確に事実を記載してあるのか、私は知らないが、これを無視して日本の古代史について議論することはできないように思う。

私は土器を見ても違いがさっぱり分らないのだが、日本で弥生式土器と言われている物も、それを作った弥生人が朝鮮半島から渡来したとすると、そのルーツは朝鮮半島にあるのではなかろうか?

今迄にそういう研究をした人がいるのかいないのか、私は知らないが、両国の関係にはまだまだ解明を要する点が多いようだ。

(完)

2000年8月


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