酒 井 寿 紀
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目 次
日本人の「Yes」「No」は返事ではない 日本文化を解さない者はインテリにあらず
ミロのビーナスは最高傑作ではない? コートールド・コレクション
1981年から90年にかけて、平均して年に3回位、仕事で海外に出かけた。年に5回出張した年もある。
その間に来日した外国人と接することも多かった。
その体験の中から、ヨーロッパとアメリカについて、今でも思い出す話を記したのがこの小篇である。仕事の話は別にして、仕事以外のアフター・ファイブと休日の話である。ヨーロッパが多いので、題は「ヨーロッパの休日」とした。
数少ない体験からの類推なので、独断と偏見に満ちたものと思うが、ご容赦願いたい。
BASFとの仕事の関係で、ドイツのマンハイムに何回か出張した。
マンハイムというと、音楽の歴史等で有名な町なので、もっと大きい町かと思ったが、20〜30分も歩くと町の中心部分は全部見られるような、割と小さい町だった。もっともヨーロッパの町は、ロンドンとかパリは別にして、割合小さい町が多いので、マンハイムが特に小さいというわけではない。
海外出張中の休みの日にはできるだけ一人で出歩くことにしていた。これは現地駐在の人にあまり迷惑をかけたくないためと、気ままにスケッチなどしたいためだった。
マンハイムで始めて少し時間があった時、何とかなるだろうと、ホテルの前で路面電車に飛び乗った。
町の中心の水道塔が見えたので電車を降り、まず地図を買うために本屋を探した。探し当てた本屋で、
「マンハイムの地図はないですか」
と聞くと、マンハイムの町の立派な写真集を出してきた。
「こんなものではなく簡単な地図がほしいんですけど」
と言うと、
「ここにはありません。駅の売店にはあるかも知れない」
と言う。
駅を教えてもらって売店で聞くと、そこにもなく、
「駅前の観光案内の事務所に行けばあるかも知れない」
と言う。
そこへ行って聞くと、そこの女性がにっこり笑って持ってきてくれたのは、なんとマンハイムの町の日本語の案内だった。もちろん無料である。
ロンドンとかローマとかでは「免税店」とか「ピザ」とか日本語の看板をあちこちで見たが、観光地でもないマンハイムで日本語の案内を用意しているのには驚いた。
現地の事務所に帰ってこの話を現地に駐在している人に話すと、その人も初めて知ったということで、
「いい話を聞いた。これから来る人にはそれを渡して一人で歩いてもらおう」
と言っていた。
こういうものを用意しているということは、それだけ需要があるということだろう。改めて、日本人の海外旅行者の多さに驚いた。
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12月のクリスマスの時期にマンハイムに行ったことがある。
マンハイムの町の大きな水道塔の周りの広場にクリスマス市が出ていた。寒い夜、屋台でソーセージをかじりながらグリューヴァイン(Gluehwein)という赤ワインの熱燗を飲んだのを思い出す。酒を暖めて飲むのは日本だけかと思っていたが、そうではなかった。
じゃがいもを焼いたものをみんなが行列して買っているので、それを買おうと行列に並んだ。その食べ物の名前を言わなければならないと思い、張り紙に書いてあった「Kartoffelpuffer mit Apfelmus」(リンゴジャムつきじゃがいも菓子)というのを一生懸命覚え、やっとそれにありつくことができた。
ところが私の後ろの男はただ一言、
「Ohne!」
と言っただけだった。
その店の商品は「mit」と「ohne」、つまりリンゴジャム「つき」と「なし」の2種類しかなかったのだ。
私にとって、外国人とのビジネスははじめての経験で、戸惑うことが多かったが、彼らも彼らなりに大変苦労していたようだ。
ある時NAS(National Advanced Systems)のターナーさんが日本へ来て、
「どうも日本人のことがよく分からないので、今回来るにあたって、『ムサシ』(吉川英治の『宮本武蔵』の翻訳)と『ショーグン』(ジョン・クラヴェルの小説)を読んできた。ようやく何が分からないかが分かってきた。何をどのレベルの人が実際に決めているのかが一番分からない」
と言う。
そしてこの時はこの「新発見」を実行し、同じ依頼事項を工場長、部長、主任技師、担当者と会う人毎に繰り返していた。全員に同じ話をして、誰がどういう反応をするか試して見ているようだった。そして、全員に話しておけば誰かは当たるだろう、というわけである。
彼らにとっては、村祭りの準備のように、誰も命令しなくても何となく全員でうまくやってしまうような、われわれの仕事の仕方は実に理解し難いようだった。
彼らの流儀は、
「言うことを聞かない奴は撃ち殺せ!」
であった。ターナーさんも、会議中に突然、
「Shoot him!」
と言いだし、さすが銃の国と感心したことがある。
しかし一見「トップダウン」で指揮命令が明確なように見えても、陰では、
「そんなことを言ったってできるわけはない」
と言っていた下の人もいて、決してそんなにうまくいっているわけではないようだった。
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ターナーさんは大の魚嫌いで、一緒に車で食事にゆく時、
「今日も魚か!」
と言うので、
「安心して下さい。今日はあなたがいるので魚ではありません」
と言うと、ほっとした様子だった。
前の日に営業の人の手違いがあって、最初から最後まで魚ばかりという日本料理を食べさせられる羽目になったということだった。
1983年に仕事でデンマークのコペンハーゲンへ行くことになった。同行の輸出営業の人に、
「フィンエアの直行便ができたのでそれで行きましょう」
と言われ、それで行くことにした。当時はまだソ連経由が飛んでなく、ヨーロッパ行きと言えば、アンカレッジ経由か南回りしかなかった時代だった。
北極を通過するとき、かなり年輩のスチュアデスが、
「I don't think it is the very best Japanese. (最上の日本語ではないと思いますが)」
と妙なことを言いながら紙を渡してくれた。見ると日本語の「北極通過証明書」だった。
日本直行ルート開設ということで、日本人向けのサービスに大変力を入れていた。
機内誌は日本の特集号だった。その記事の一つに、「日本人とビジネスをするときのコツ」というのがあった。
「必ず名刺を用意しろ」
から始まって、
「必ずおみやげを持っていけ。それも全員に渡さないとだめだ」
「商談の時に、天気や健康等、ビジネスと関係ない話をしないといけない」
「彼らに接待されても、お返しの接待はするな。彼らは、われわれの会社では考えられないような交際費予算を持っている」
等々、こと細かに注意事項が書いてあり、その中に、「日本人の『Yes』『No』は返事ではないから気をつけろ」というのがあった。
確かに日本人は人の話を聞くとき、話の内容に関係なく、相づち代わりに、「はい、はい」 と言う。それを外国人に対し、「Yes, yes」と言う人もいそうだ。
外国人の、「Excuse me!」に対し、「いえ、いえ、たいしたことありません」と言うつもりで、「No! no!」と言ったら、「決して許しません!」になってしまう。
これら指して、「日本人の『Yes』『No』を返事と受け取ってはいけない」と言ったのだろう。
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この機内誌には、お辞儀のしかたの詳しい説明も出ていた。お辞儀には、15度と、30度と、45度の3種類があるのだそうだ。
こんな記事を読まされたら、日本へ派遣されるビジネスマンはさぞ憂鬱になるだろう。この記事を読んで、
「日本人相手のビジネスで苦労しているのはわれわれのパートナーだけではないんだなあ」
と思った。
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その機内誌には他に、「何故日本直行ルートが可能になったか」を解説した記事があった。
当時はソ連の上空は飛行できなかった。その為このフィンエアのルートは、ベーリング海峡のソ連の領空ぎりぎりのところを飛び、北極上空を通過して、ヘルシンキまで行くものだった。
しかし、当時の最大航続距離のDC−10でも、このルートをノンストップで飛ぶことはできなかったのだそうである。そこで標準のDC−10を改造して、客席数を減らし、予備の燃料タンクを増設して、何とか飛べるようにしたとのことだった。それでも、ヘルシンキ成田間を飛ぶと、燃料が10%も残らないとのことで、相当無理をしているようだった。
この記事を読んでいるうちにだんだん気持ちが悪くなった。
「ソ連の領空ぎりぎりのところを飛んでいて、もし間違って領空を侵したらどうなるのだろうか?」
「ガソリンの量がぎりぎりらしい。向かい風が強くて、ヘルシンキまで行き着けないときはどうなるのだろうか? 米国から帰国の便が西風が強くて、成田までたどり着けず、千歳に不時着したという話もあったではないか? ヘルシンキの手前に不時着できるような空港があるのだろうか?」
等々、心配になってきた。
無事にヘルシンキの空港に着いたときはほっとした。
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海外へ出かけるようになって、こういう機内誌のコレクションを始めた。1社1冊ずつ集めて、もう20冊ぐらいになった。これが一番金のかからないコレクションである。日本の紹介記事も多い。パンナムの機内誌に、「 Shayouzoku(社用族)」の紹介記事があり、スチュアデスに何のことか聞かれたこともあった。
やはり外国人にとって、日本人は理解しがたい存在らしい。
ビジネスのパートナーには日本文化のファンもずいぶんいた。
NASの人たちは日本の旅館に泊まるのが大好きで、日本へ来るとしょっちゅう鶴巻温泉の「陣屋」に泊まっていた。香港生まれで、日本に住んでいたことがあり、日本語が話せるソンさんがアメリカから直接陣屋に、
「また『鈴虫』をお願いします」
と電話をかけてきた。どうして『鈴虫』かというと、シャワーがついている部屋はここしかないためだった。畳の上で布団で寝るのは平気だが、大浴場は苦手のようだった。
「陣屋」の女将さんにはいつも英語で応対してもらい、ずいぶんお世話になった。食事の時、
「飲み物は何になさいますか? ワインでもお持ちしましょうか?」
と女将さんが聞くと、ギャロップスさんは、
「ゲンシュ」
と答えた。彼らは秦野の地酒「笹の露」の「原酒」が気に入っていた。
酒を飲む「マス」を非常に珍しがった。こういう酒の器は世界中他にないのではなかろうか?
「これはどこから飲むんですか?」
とよく聞かれた。「マス」の各面にみんなでサインし、女将さんにもサインしてもらって、喜んでお土産に持ち帰った。
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ヒューレット・パッカードの人たちも日本料理が好きだった。いや、好きになろうと努力をしていたのかも知れない。
何しろ、彼らの工場を案内してもらうと、「KANBAN」と書いた「看板」が下がっているのだ。「日本文化の長所を取り入れよう」という、涙ぐましい努力が感じられた。
ハワイで契約の交渉を行ったとき、パーティーで寿司が用意された。次から次へと、
「これは何ですか」、「これは何ですか」
と聞かれ、
「これは "sea urchin"、日本語で『ウニ』」、「これは "roe of salmon"、日本語で『イクラ』」
等と教えると一生懸命聞いていた。日本人は信じられない物を食べると思っていたのではなかろうか?
私の義理の兄のアメリカ人は、
「鮭の卵は釣りの餌で、人間が食べる物ではないので、釣りに行って腹が減って困ったとき、隠れてこっそり食べたことがある。日本へ来たらみんな食べているので驚いた」
と言っていた。
「すき焼き」「天ぷら」を日本料理の初級編とすると、「寿司」「刺身」は中級編だ。これを卒業し、さらに挑戦意欲のある人は、上級編に案内した。
ヒューレット・パッカードのジョージさんは何にでも好奇心旺盛な人だったので、ある時渋沢の小料理屋へ連れて行き、煮魚を箸でむしって食べるのに挑戦してもらった。何事にも決して弱音を吐かない彼は、
「私は釣りをするので、どこに肉があるか知っている」
と言って、頭のところを一生懸命箸でむしって食べていた。
さらにその上に最上級編がある。これはご飯に生卵をかけた納豆というやつだ。これが好きだと言った外国人は、オクラホマ大を卒業して私のところで仕事をしてもらっていた人一人だけだった。
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日本びいきの人達が多かった。それは結構なのだが、NASのエドワーズさんのように、
「『ヨドバシカメラ』の『バシ』は "bridge" だろう。ところで『ヨド』とはどういう意味ですか?」
等と聞かれると、
「もう勘弁して」
と言いたくなることもあった。
仕事の関係でBASFの人とよく会った。
BASFの人は、さすがドイツの大会社の社員という感じで、アメリカ人やイタリア人に比べると、最初はちょっと堅苦しい感じがした。ホフマンさんなどは、最初に会った時は、いかつい顔をした眼光鋭い青年将校という印象で、取り付きにくい感じがした。しかしつきあってみるとなかなかユーモアもある人だった。
ある時天気がよかったのでマンハイムの事務所のそばのルイーゼン公園でみんなで昼食をとっていた。すると上空を小型飛行機が旋回を始めた。ホフマンさんがそれを見て言った。
「あれはもしかしたらドクター・ウールかも知れない。彼はいつも上の方からわれわれのことを眺めている」
ドクター・ウールは彼らの上司のBASFの幹部で、飛行機の操縦が趣味だった。
またある時ウェーバーさん、ホフマンさんとテニスの話になった。ウェーバーさんがホフマンさんを指して、
「He is the best tennis player in our department.」
と言うと、ホフマンさんがすかさず、
「I am the only one tennis player in our department.」
と言い大笑いになった。
またある雪の日に、ハウゲンさんが会議の途中でオーバーシューズを脱ぎ、そのままそれを忘れて帰ってしまった。私が気付いて、
「ハウゲンさんは自分の足を持って帰るのを忘れた」
と言うと、ホフマンさん曰く、
「この前は頭を持って帰るのを忘れた男がいた」
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技術教育のためBASFの人が来日していた時、ちょうど工場の運動会があった。はじめはただ見物してもらっていたが、何かやりたそうな様子だったので、飛び入りでタイヤ転がしをやってもらった。放送係に紹介の放送を頼んだが、突然外人が出てきたのでみんなびっくりしていた。
こうしてアメリカ人、イタリア人に比べるとはじめはうちとけなかったBASFの人達とも親しくなった。
オリベッティとの仕事の関係で、イタリアにも何回か行った。
イタリア人は、「いっしょに仕事を始める前に先ず友達になる」というのが基本的な考えで、よくいっしょに食事をした。
ある時、オリベッティのチェローネさんに誘われて、何人かでミラノのレストランへ行った。アンティパスタ(前菜)を一皿食べ終わったとき、チェローネさんに、
「ここにはヴァイキング式のアンティパスタがある。うまいから取りに行こう」
と誘われた。確かにうまかったので、
「うまい、うまい」
と言うと、
「じゃあもう一回行こう」
とまた誘われた。
食いしん坊の私は、誘惑に負けて、とうとうアンティパスタを3皿食べてしまった。
次は第2の前菜のパスタである。日本のレストランで昼飯に食べるスパゲッティ位の量は充分にある。これを食べるのが正式なディナーということで、みんな食べるので私もつき合った。一口にパスタと言っても、フェットゥチーネ、タリアテーレ、トルテリーニ等いろいろあったが、だいたいうまいものが多かった。
これが終わると、
「さあメインディッシュだ」
と言う。
もう腹一杯になっていたが、何も食べないわけにもいくまいと、できるだけ軽そうなものを頼んだ。ところがチェローネさんは、
「私はパスする」
と言う。食事に誘われたので、何か食べなければ失礼に当たるだろうと、無理して頼んだ私はだまされてしまった。しまったと思ったが、もう手遅れだった。
彼らは食事中もよく話す。のべつまくなしにしゃべる。一皿たいらげた後は、次の皿が出てくるまで、激論を交わす。これが腹ごなしになるようだ。
最初のうちは、われわれがいるので、英語でやってくれるのだが、そのうちだんだん興奮してくると、われわれのいることを忘れてしまって、いつのまにかイタリア語になってしまい、われわれは蚊帳の外に放り出されてしまう。
激論が一段落した頃、次の皿が出て来るようになっていて、腹ごなしが終わった彼らは、「さあ、食おう」ということになるのだが、腹ごなしが充分に終わってないわれわれも一緒に食べさせられることになる。このハンディキャップは大きかった。
チェローネさんには、
「もう仕事はいいから、明日は奥さんのおみやげを買いに、一緒にデパートへ行こう。われわれは日本のコンピュータを買っているのだから、あなた方はイタリア製品を買うべきだ」
と言われた。この時は、次の日にオリベッティのコンピュータセンタを見せてもらうことになっていたので断ったが、イタリア人はだいたい、会社の仕事よりも、個人の生活の方を大事にしているようだった。
「企業戦士」とか「猛烈ビジネスマン」とかいう言葉は、彼らには無縁のようだった。
7月から8月にかけては、休みを取る人が多く、まったく仕事にならなかった。
仕事の関係で、同じ時期にドイツとイタリアへ何回か行った。
この二つの国はいろいろな意味で対照的なところがあった。車の運転のしかたを見ていてもお国柄が出ていた。
ドイツはアウトバーンの国である。制限速度がないから、速い車は時速200キロ近いスピードで走っている。スピードの差が大きく危険なので、右側からの追い越しは禁止されていた。つまり追い越すときは必ず中央分離帯寄りのレーンを使わなければならない。これは厳格に守られていた。日本のように、右からも左からも追い越すようなことはしない。
そのかわり、遅い車が速い車に追いつかれると、レーンを譲らなければならない。アウディがベンツに追いつかれると、アウディはレーンを譲らなければならない。しかしベンツがポルシェの追いつかれると、今度はベンツが譲らなければならない。車格の序列がはっきりしていた。これに従わない車があると、後ろの車が、ライトの点滅やクラクションで無理矢理押しのけていた。当然の権力の行使という感じだった。
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イタリアの街はロータリーが多い。ローマなどはロータリーだらけだ。車が四方八方からロータリーに流れ込んで、ぐるぐる廻って、また散って行く。相当なスピードで、車間距離もあまり取らず、よくぶつからないものだと感心した。よく見ていると、暗黙のルールがあるようだったが、とてもわれわれには怖くて運転できないと思った。
しかしロータリーというのは合理的な面もある。信号があると、対向車線に車がいなくても、信号が青になるまで待たなければならないし、信号を切り替える時は、いったん両方向とも車を止めて、交差点内を空にしなければならない。ロータリーだと、空いてさえいればいつでも通り抜けられるし、混んでいるときも休みなく車を流し続けることができる。
もっともローマのように、道が不規則で、5差路、6差路のような交差点が多いと、ロータリー方式にせざるを得なかったのだろう。広場の真ん中に噴水や彫刻のあるロータリーは、いかにもイタリアらしくてなかなかいいものだ。
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イタリア人はルールのとらわれず、発想が自由だ。
ある時、オリベッティのチェローネさんの車で昼食に行った。レストランの駐車場に車を止めたが、隣の車がひどい止め方で、その車が出るときにぶつけられそうな感じだった。もう少し離して止め直すかと思って見ていると、チェローネさんは、
「おい、ちょっとみんな手を貸してくれ」
と言い、隣の車を持ち上げてずらすのを手伝わされた。ずらし終わると一言、
「Quickest solution!」
と言った。
これに限らず、イタリア人は、その場その場で、もっとも手っ取り早い解決策をさっと思いつくのがうまかった。ルールや約束は彼らにとっては二の次だった。ドイツ人とは対照的だった。
アウトバーンとロータリーでの車の運転のしかたは、それぞれドイツとイタリアのお国柄の象徴のように思われた。
BASFの人達との話は、仕事の時も食事の時もすべて英語だった。英語はドイツ語に近いので、平均的には彼らの英語の方がはるかにうまかったが、特に始めの頃は双方とも苦労した。最初の頃は「ツェントラル・プロツェッサ」というような発音をする人がいて、ドイツ語かと思って聞いていると英語だったりした。しかしそのうちわれわれよりはるかにうまくなってしまった。やはりドイツ語の方が日本語より遥かに英語に近いためだろう。
たいへんおしゃべりな人がいて、とうとうとまくしたてるのがなかなか分からないのは、こっちの語学力不足と最初は思っていた。ところが必ずしもそうでないことがだんだん分かってきた。
ある時食事をしていて魚の話になると "Sweet Water" という。はじめは何のことかと思ったが、これはドイツ語の "Suesswasser(淡水)" をそのまま英語にしたものだった。またある時 "Outlander" というので何かと思ったが、これはドイツ語の "Auslaender(外国人)" をそのまま英語(?)にしたものだった。 "Fresh Water" とか "Foreigner" という言葉が思い浮かばないとき、このような英語(?)で自分の意思をどんどん伝えようとするたくましさに感心した。
こういうことは何もこの人に限らなかった。
あるオリベッティのイタリア人が、「ハイガー!」「ハイガー!」と言うので何かと思ったら、「 higher 」のことだった。こういう英語でも、身振り手振りを交えて、何とか目的を達してしまうのだ。
われわれもこういうたくましさをもっと身につける必要があるようだ。
もっともわれわれも無意識のうちにこういう「英語でない英語」を使い、相手を悩ませているのだとは思う。
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NASの人たちはアメリカの西海岸の会社らしい国際色豊かなメンバーだった。
ある時の食事のメンバーは、イラン生まれ、ハイチ生まれ、香港生まれ、等々だった。食事中に、何だったか忘れたが英語の問題で意見が分かれた。たまたま一人イギリス生まれの人がいて、
「おまえは Englishman だから分かるだろう」
と言われるというような具合だった。
アメリカで仕事をしている人達でも、決してアメリカ生まれとは限らず、英語も細かい問題になるとよく分からない人も多いようだった。
時間があると、美術館や博物館へよく行った。
ローマでの休日にヴァティカン美術館へ行ったことがある。
ギリシア、ローマ時代の彫刻が数多くあった。五体健全な彫刻の他に、頭だけとか、手だけ、足だけ、胴体だけというようなものの余りの多さに驚いた。
そこではたと思った。
「もしかしたらこの中に、ミロのビーナス以上の傑作があるかも知れない」
五体満足な彫刻の数より、バラバラ事件の犠牲者の数の方がずっと多いのだ。だとすれば、最高傑作が五体満足な姿で残っている可能性は少ないはずだ。ミロのビーナスは手がなく、サモトラケのニケは頭がないが、それでもほぼ五体満足に近い。五体満足に近い物の中では最高傑作かも知れないが、もっと優れた作品がバラバラの手足の彫刻の中にある可能性の方が高いのではなかろうか?
バラバラになった大理石のかけらの陳列を見て、ギリシア、ローマの彫刻の層の厚さに圧倒された。
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ある時、ハイデルベルクの街を歩いていたら美術館があった。観光案内にも載ってないような小さな美術館である。こういう美術館にも立派な絵がたくさんあった。ほとんど私の知らない人の絵だったっが、例えば風景画については、私の目には、コローとか、テオドール・ルソーとかの非常に有名な画家の絵と区別がつかないくらい立派なものだった。
要するに底辺がものすごく広いのだ。日本の画集に載っているような画家は、ヨーロッパの画家のほんの一部にすぎない。これらのほんのわずかな人たちの後ろには、これらの画家と甲乙つけがたい大変な数の画家がいたに違いない。
ヨーロッパの文化に接すれば接するほどその奥行きの深さを感じさせられた。
どこで聞いたのか忘れてしまったが、ロンドン大学の中に、「コートールド・コレクション」という絵の展示場があると聞いて行ってみた。
観光案内にも出ていないところで、地図を頼りに歩き廻ってやっとたどり着いた。普通の大学の建物の入口に小さな看板があるだけで、探し当てるのに苦労した。
中へ入って切符を買うと、
「そこのエレベータで行きなさい」
と言われた後、エレベータを下りたらどうしろこうしろと変なことを言われた。よく意味が分からなかったが乗ってみてはじめて意味が分かった。
手で扉を開けて乗って、扉を閉める。上に上がったらまた手で扉を開けて降りるのだが、その後ちゃんと扉を閉めて1階まで下ろしておかないと次の人が乗れないのだ。全部手動である。大変なエレベータだった。
絵の展示室には、私の他誰もいず、しばらく経って一人二人入って来ただけだった。
しかしそこの絵のすばらしさには驚いた。数こそ限られているが、パリのオルセーやロンドンのナショナル・ギャラリーにも負けないものだった。
印象派もよかったが、リューベンスの小品が特に印象的だった。油絵というと普通丁寧に隅々まで色を塗った物が多く、あまり絵筆の動きを感じさせないものだが、リューベンスの小品は絵筆の動きが躍動的で、色を塗ってないところも多かった。その自由奔放な筆使いは中国や日本の水墨画を思わせるものだった。ヨーロッパでこういう筆使いをした画家は、ずっと後の時代になるが、ロートレック位しか知らない。
リューベンスの絵としては、マリー・ドゥ・メディシスの一生を描いた大作がルーブルの一部屋いっぱいに展示されているが、こういう重厚な大作よりここにあるような軽快な小品の方が、画家の個性が直に感じられて、ずっと好きだ。
リューベンスは特別好きな画家というわけではなかったが、ここの絵を見てからすっかり変わってしまった。リューベンスより前にこういう絵を描いた画家はいたのだろうか? そのうち時間ができたら調べてみたいと思う。
印象派では、マネの「フォリ・ベルジェールの酒場」という黒いドレスを着た女性の絵があると聞いていたが見つからなかった。聞いてみると、今アメリカに行っているとのことだった。この絵には、その後、このコレクションが日本へ来たとき、お目にかかることができた。
この「コートールド・コレクション」はその後テムズ河のウォータルーブリッジ際のサマセットハウスに引っ越し、再訪した。さすがにロンドン大学の中では不便だということになったのだろう。
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それにしても、帰り際に、ロンドン大学のそばの学生用の食堂で食べたサンドイッチのまずさには参った。昼を遥かに過ぎた時間で腹が減っていたが、それでもとても全部食べる気にはなれず、残してしまった。こういう昼飯を食って育つのだ。イギリスの料理がまずいわけだ。
数少ない体験から変なことを言って申し訳ないが、今までイギリスで食べたものの中で一番うまかったのは、日立ヨーロッパのオフィスがあったハマースミスのそばの朝鮮料理屋のビビンバである。
ロンドンで週末を過ごした時、大英博物館へ行ってみた。
古代エジプト、メソポタミアの美術品の陳列の多さに圧倒されたが、中でも、エジプトのミイラが部屋いっぱいに並べられているのには驚いた。
これは日本で言えば、古墳を堀りかえして、天皇の遺体を博物館にずらっと陳列しているのと同じことだ。
エジプト人はどういう気持ちでこれを見るのだろうか?
メソポタミアの遺跡を壁ごとはがして博物館に陳列しているのにも驚いた。
パリのコンコルド広場のオベリスクもエジプトから取ってきた物だが、数から言うとやはりイギリス人が最大の盗掘犯だと思う。
エジプトやメソポタミアにあるよりも、ロンドンにあった方がより多くの人が見ることができるからいいのかも知れないが。
(完)
1997年4月 (第1版)
1999年8月 (第3版)
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