酒 井 寿 紀
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目 次
私は1981年から86年の間に5回中国に行った。今から10年から15年前のことで、その後中国も大きく変わったようだ。
私が行った5年間の間にも、大変な変化があった。はじめの頃は、まだほとんどの人が人民服を着ていて、「文化大革命」の傷跡が生々しく感じられた。5年の間に服装がまるで替わり、北京には高層ビルが増えた。
私が関係した中国の仕事は、なかなかうまくいかなかった。以下は仕事以外の話である。ごくわずかな、断片的な見聞なので、見当違いもあるかと思う。もうずいぶん前のことなので、記憶違いがあったらご容赦願いたい。
私が初めて中国に行ったのは、1981年の5月である。中国の「教育部」(日本の文部省に相当する官庁)がまとめ役になって、中国の大学にコンピュータを導入する話があり、各国のコンピュータメーカーが売り込みを図っていた。日立もその一つだった。清華大学でコンピュータのセミナーを開催することにより、受注活動を側面から支援することになり、中国を訪問することになった。
訪問団の団長は、当時日立の神奈川工場の副工場長だった関 弘さんで、団員として神奈川工場の他、ソフトウェア工場、旭工場、事業部、輸出営業の人が参加した。
私はこの時、北京空港で初めて中国に接した。空港では人民解放軍の兵士が大勢歩き回っていた。税関でのわれわれの審査も軍服を着た若い女の兵士だった。
他の国の空港と違い、あたりには緊張感が漂っていた。
ちょうど黄砂がひどい季節で、雲ひとつないのに、空はまっ茶色で、太陽がかすんで見えた。天安門広場はまっすぐ立っていられたいほど風が強かった。黄砂はこの風によってゴビの砂漠から運ばれてくるのだろう。まさに「砂嵐」という感じだった。
宿舎は「友誼賓館」という古いホテルだった。ソ連の援助で建てられたものとのことだった。朝、窓を閉め切って出かけても、帰ってくると、隙間から入る黄砂でテーブルの上が真っ白になっていた。
われわれはこのホテルから毎日タクシーで清華大学に出かけ、交替でセミナーの講師を務めた。
清華大学のアレンジ役は、凌さんという計算センター担当の教授だった。この方は、文化大革命中は、南方のベトナムに近い地方で、「Buffalo の Driver」をさせられていたとのことだった。この人とは雑談の時は英語で話した。
「文革」が終わってからすでに5年経っていたが、まだ10年間の「文革」の傷跡が街のあちこちに散見された。骨董屋で売っている山水画の山の上に小さい赤旗が描かれているものがあった。「文革」中はこれが描いてないとだめだったという。「何という愚行!」と、買う気はまったく起きなかったが、今思うと、買っておけば歴史的価値が出たかも知れない。
街を歩いている人は、まだほとんど人民服を着ていた。たまに観光地で背広を着ている人を見かけても、記念写真を撮り終わると、すぐに人民服に着替えていた。背広は大変な貴重品のようだった。
清華大学のセミナーでは、中国人の通訳のお世話になった。
私は袁さんという女性に担当してもらうことが多かった。この人は、松本清張を研究しているという、日本文学の学生で、日本に住んだことはないというのに、まったく日本人と区別がつかない日本語を話した。講演の通訳がうまいだけでなく、いっしょに食事をしていると、
「今週はお肉ばっかり食べたので、太っちゃうわ」
というような日本語がごく自然に出てくるため、つい中国人であることを忘れてしまって、日本のテレビの話等を始めてしまい、キョトンとされて始めて気がつくというようなこともあった。
輸出営業の人が、中国へ来るときはいつも彼女のために松本清張の小説を買ってくるのだと言っていた。これが何よりのお土産とのことだった。
それにしても、このときはじめて中国語に接して、中国語の大変さに驚いた。
日本語の「カナ」のような表音文字がないため、コンピュータ用語をすべて中国語にしなければならない。例えば「磁気テープ」は「磁帯」、「磁気ディスク」は「磁盤」という具合だが、これらは文字から想像がついた。
「ハードウェア」は「硬件」、「ソフトウェア」は「軟件」と言うが、「ファームウェア」にも「固件」という言葉がちゃんと用意されているのを知って驚いた。計算機のスピードが上がり、「マイクロ・セカンド」「ナノ・セカンド」「ピコ・セカンド」と進歩すると、そのたびに新しい言葉を作らないといけない。大変な騒ぎだ。
そればかりでなく、固有名詞にも、ちゃんと中国語が定められていた。
私の話の中に、「フェアチャイルドのIC」というのが出てきた。通訳は、「フェアチャイルド」の中国語を一生懸命思い出そうとするのだが思い出せない。そうすると、聴衆のコンピュータの技術者が「それはXXXだ」と教えた。通訳するとき、音の通り「フェアチャイルド」と言えば、コンピュータの技術者はだいたい分かるのに、正しい中国語にしないとちゃんと仕事をしたことにならないと、必死になっているのだ。
中国ではコンピュータの通訳というのは大変な仕事だと思った。
これはもちろんコンピュータの世界に限った話ではない。
ある時長安街を車で通ると、道いっぱいに万国旗が飾られていた。これは国賓が来たことを示すのだとのこと。天安門広場にその国の旗が立っていたが、誰もどこの国か分からない。事務所で「人民日報」を見たが、そこに書いてあった国名も誰も分からない。ちょうど当時「China Daily」という英字新聞の発行が始まったばかりで、その見本を私が見つけて来て見てみると、それは「ジンバブエ」であった。
新しい国ができるたびに、漢字でどう書くかを決めなければならない。国名ぐらいはまだいいが、「チェルノブイリで原子炉爆発」等というときは、これを漢字でどう書くかをすぐに決める必要がある。また、例えばアメリカの大統領が、レーガン、ブッシュ、クリントンと変わるたびに、これらを表す漢字を決めなければならない。これを決めるのは「人民日報」と「中央電視台(国営のテレビ局)」が中心になるのだそうだ。
とにかく、「アセンブラ」、「コンパイラ」、「シミュレータ」、「エミュレータ」等、すべてのコンピュータ用語に、ちゃんと中国語が用意されていた。漢字文化の創造力の豊かさに感心した。「カナ」のような表音文字がないと、こうならざるを得ないのだろう。中国へ来て、改めて「カナ」の便利さをつくづくと感じた。
中国へ出発する3日ほど前に、海外旅行者のための中国語のテープを買って来て、家で何回か聞いた。万一の時に少しは役に立つこともあるかと思ったからである。
これがはたして通用するか、一度使ってみようと思っていた。タクシー代をいつも営業の人か現地駐在の人に払ってもらっていたが、ある時、
「今度は僕が払う」
と、運転手に、
「多少銭?(トーシャオチエン、いくら?)」
と聞くと、ちゃんと通じて、返事が返ってきたが、これが分からない。何回聞いても分からない。
「スー・クァイ・ウー」
と言う。「スー」と「ウー」は数字だが、「クァイ」が分からない。数字は麻雀で得意だし、貨幣の単位は「元」と「角」と「分」と会話の本に書いてあったので、これだけ聞き取れればいいはずと思ったが、そうはいかなかった。
後で聞くと、日常会話では「元」とか「角」はほとんど使わず、例えば、「4元5角」を「スー・クァイ・ウー・モウ」、普通はもっと簡単に、「スー・クァイ・ウー」と言うのだそうである。これでは分からないはずだ。
「返事を聞き取る自信がなければ、外国語で話しかけるものではない。生兵法は怪我のもと」と改めて感じた。
それにしても、普通に街で使われている言葉を全然書いてない「海外旅行会話」の本は困ったものである。
われわれは、伊藤忠の村上さんという女性に、通訳の仕事から、現地での生活のこつ、中国側とのアレンジまで、大変お世話になった。この方は、戦中から戦後にかけて、ずっと東北地方(満州)に住んでいたということで、中国のことは何から何まで大変詳しく、いろいろ教えてもらった。
彼女に教えてもらった話を二、三。
当時も、外国人が入れるホテルとかレストランは限られていたが、さらに前にはもっと少なく、外で食事ができるのは「国際倶楽部」しかなかったとのことだった。宿泊しているホテルからそこへ行くときは、ホテルでタクシーに乗って、「5時16分」と言え、と教えたのだそうである。「国際倶楽部」を中国語で「クオジジューローブー」というので、これで通じたのだそうである。
そして、タクシーで出かけたら、降りるときに必ず、「チントンシャン」と言うのだそうである。これは、タクシーを帰してしまってら、流しのタクシー等ないので、帰れなくなってしまうので、「ちょっと待っていて下さい」と頼むのだが、その中国語が、「請待一下(チントンイーシャー)」なので、「チントンシャン」で通じるとのことだった。
彼女に、中国側との折衝の通訳をお願いしていたが、ある時、清華大学だけではなく、北京大学の教授にも会う必要がある、という話になった。北京大学のキーマンの教授の連絡先が分かり、電話で会見を申し入れようということになった。本来なら、団長が話して通訳してもらうのだが、電話では通訳というのはうまくいかない。そこで彼女に電話をしてもらうことになったのだが、結局、われわれの紹介から、会見の申し込みまで、彼女一人で全部話してしまった。そして、その教授が、われわれの滞在していたホテルに来る予定があるので、そのとき会談しましょう、ということになった。中国語の話の内容は分からなかったが、その堂々たる話しぶりに、われわれ全員舌を巻いた。
この時は通訳の重要さを改めて感じた。
連日清華大学の講堂でセミナーを開いていた。昼食は、近所に適当な食堂もないので、タクシーで友誼賓館まで帰って食べていた。5月といっても北京はもう相当に暑く、乾燥しているので、昼食時のビールがうまかった。
ある時、昼食後、ちょっと自分の部屋に戻っていたら、みんなが大学へ戻るタクシーに乗りそこなってしまった。さあ困った。
まあ何とかなるだろうと、ホテルのタクシーに乗って、
「チンホアターシェー!(清華大学)」
というと、ちゃんと通じて走り出した。
しかし大学に近づいてから心配になった。清華大学といってもやたらと広い。門のところで降ろされたら、あとどう行ったらいいのか分からない。どうしたものかと考えたが、セミナー会場は、「清華園」という、清時代の庭園のそばだったことを思い出した。そこで、運転手に、
「チンホアユエン!」
と言うと、何やら急にしゃべりだしたが、何を言っているのか全然分からない。が、どうやら、
「さっきお前は『清華大学』へ行きたいと言ったのに、今度は『清華園』と言う、いったいどっちへ行きたいんだ」
と言っているらしい。どうやらその運転手は「清華園」を知らないらしい。そこで、腕を広げて「清華大学!」、次に腕を狭めて、手で小さい円を作り、「清華園!」と言うと、運転手はやっと納得して走り出した。
大学に着くと、運転手が歩いていた学生に、清華園の場所を聞いてくれ、やっとそれらしいところに着いた。しかし清華園も広く、見覚えのある場所に来ない。われわれの建物は、清華園の正門の近くだったことを思い出したので、メモ用紙に、「清華園 正門」と書いて見せると、運転手はまた近くに人に聞いてくれ、やっと見覚えのあるところに着き、そこからセミナー会場の建物も見えた。
そこへ着くと、みんなが集まって、
「一人積み残してきてしまった、どうしよう」
と相談しているところだった。私が現れたのでみんなほっとした様子だった。
「中国は初めてなのによく一人で来られましたね」
と言われた。
身振り手振りはどの外国でも使うが、中国では最後は「筆談」という強力な武器があることを、このとき身を持って体験した。
清華大学は敷地も広く、建物も堂々とした立派な大学だった。
セミナーの世話役だった凌教授が、ある時、
「半導体の生産設備をお見せしましょう」
と言う。どんなものかと思ったが、行ってみると、最新の設備がずらっと並んでいるので驚いた。
しかしよく見ると一個所だけスッポリと空いているスペースがある。聞くと、ここに入るべき装置だけまだ入手できない、とのことだった。確かステッパだったと思う。
要するに生産ラインとして一括して購入したのではなく、香港経由等で、1台ずつ入れたものと思われた。
最新技術の研究に大変苦労している様子が窺われた。
セミナーの受講者のなかに中国科学院の人がいた。中国で最高の科学技術の研究機関である。
「中国科学院が開発した大型コンピュータをお見せしましょう」
と言うので、案内してもらった。それは「013」という中国製の最大のコンピュータで、部屋がいっぱいになるような大きな物だった。
CPUは開発できたが、入出力装置が問題とのことだった。部屋の片隅には回転軸が水平の大型の磁気ドラムが置いてあった。聞くと、もう動かしてはいないとのことだった。隣の部屋で入荷したばかりの磁気テープ装置を開梱していた。見ると東ドイツの「 Zeiss」製であった。この装置に期待しているとのことだった。
もう欧米や日本では、大学や政府の研究所でコンピュータを開発する時代ではなくなっていた。半導体の生産設備なしには世界トップレベルのコンピュータを作れない時代になっていた。
中国がコンピュータの先進国に追いつくには、こういうアプローチではもう難しいと思った。
北京市内を移動するときはいつもタクシーだった。信号は車のためだけで、歩行者はどこでも平気で横断していた。長安街など、道幅が100メートル位もあり、時速100キロ近いスピードで、車がビュンビュン走っているところを、平気で横断しているので、こっちがハラハラした。見ていると、横断中に車が走ってくると、レーンの境目の線上に立ち止まって、車が走り去るのを待っている。ここで止まっている人をはねたら車の方が悪いというルールになっていると現地に駐在している人に聞いた。
こういう道路を横断する時は本当に命がけだった。
もっと驚いたのは、夜になっても車がライトを点けないことだった。たまに交差点などでちょっと点けても、安全を確認するとすぐ消してしまう。長安街などは、まだ照明で少しは明るかったが、北京の中心地から友誼賓館に戻るときに通る「三里河(サンリホー)」の道などは本当に真っ暗だった。それでもライトをほとんど点けず、乗っている方は生きた心地がしなかった。
現地駐在の人に理由を聞いたが、車のバッテリーが悪いため、軍事上の理由、中国人の目は暗くても見える、等諸説あるが、はっきりしないとのことだった。
セミナーは、交替で講師を担当するので、空き時間がかなりあった。北京は始めての人が多かったので、暇な者同士でいろいろな所へ行った。
外国人向けの土産物専門の「友誼商店」の他、中国の文物を売っている街の骨董屋にも顔を出した。
こういう店では、何語で話すかが問題だった。
普通は「これはいくら?」位、片言の中国語で話して用を済ませた。
なかには少し英語が話せる店員もいた。ある骨董屋で、色が非常にきれいな唐三彩の馬を見つけた。尻尾が折れて、接着剤で着けてあったが、色が気に入ったのでそれを買うことにした。そこの店員は珍しく英語が話せ、「I like this one.」と言って、尻尾が折れている分値引きしてくれた。この馬は今でも私の家の居間に飾ってある。
なかには、日本語で話しかけてくる人もいた。ある店の年輩の人は、たどたどしい日本語で、
「私は昔大連に住んでいた。隣には日本人が住んでいて、とても親切にしてくれた。あの頃はよかった。それに引き替え今はだめだ」
としみじみと話していた。
共産主義革命で人民が解放されたといっても、一人一人の歴史は全然別なのだなと感じた。
外国人用の土産店や、骨董屋では、庶民の生活は分からない。日本の銀座通りのような「王府井(ワンフーチン)」にある「東風市場」という庶民用のスーパーマーケットのような所にも行った。どこでも物は安かったが、ここはまた一段と安かった。確か日本円で2〜3円程度で、封筒が一束買え、面白半分に買って帰った。
骨董屋で唐三彩の馬を買ったが、持帰る入れ物に困り、バッグを買ったのもここだった。値段は忘れたが、驚くほど安かった。
数年後、いろいろな人と北京を訪れたとき、よくここを案内した。一般庶民の生活を知るには、こういう所が一番手っ取り早かった。
「故宮」にも行った。
石だらけの、だだっ広い建物で、昔の皇帝や家来はどういう生活をしていたのだろうか? 北京の冬はマイナス20度、30度になると聞いている。こういう建物ではさぞ寒かったのではなかろうか?
あとで、映画の「ラスト・エンペラー」を見て、なるほどこういう具合に生活していたのかと思ったが、どうもあまり住み心地のいい建物とは思えない。庭に草木がまったくないというのは、われわれ日本人には、非常に殺風景に思われた。
ある日、半日時間があいたので、「中国歴史博物館」へ行った。北京原人から現代まで、物が時代順に展示されていた。
説明の中国語は分からないが、漢字でだいたい見当がつく物も多かった。ただ国名など日本とは呼び方が違うものがいくつかあった。日本で「殷」と呼ばれる「周」の前の国は「商」となっていた。また「前漢」「後漢」は「西漢」「東漢」と書かれていた。どうしてこう違うようになったのかは分からなかった。
とにかく古い物の多さに驚いた。北京原人から見始めて、西暦紀元前後の、漢の時代までたどり着くだけでいい加減くたびれた。展示物の物量は、「紀元前」「10世紀頃迄」「それ以降」の各1000年がほぼ同程度のようだった。
改めて中国の歴史の長さを実感した。
現地駐在の人に案内してもらって、毎日違う店で本場の中華料理を食べた。北京ダックもうまかったが、ごく普通の中華料理が、油を使っている割に、意外とあっさりしていておいしかった。やはり外国の料理は、その国で食べるのが一番のようだ。
油っこい物が多いのと、乾燥していてのどが渇くため、ビールが非常にうまかった。「青島」「北京」「五星」の3銘柄があったが、「青島」が一番うまかった。ただ店屋によっては冷やしてなく、汚い瓶のまま持ってくるのには閉口した。
一度は本場の四川料理を食べるべきだという話がでた。辛さについてはさんざん脅かされたが、何事も経験と、長安街の「四川飯店」へ行った。辛さはやはり相当なものだった。舌がしびれて途中で味が分からなくなった。
ところがとんでもないことが起きた。次の日、中国側の招待で、何とまた同じ店に行くことになってしまった。まさか昨日行ったという訳にもいかないので、話し合って黙っていることにした。ところが食事中、中国側の世話役の女性の様子がどうもおかしく元気がない。後で聞くと、われわれが前の日も来たことを、店の人がしゃべってしまったとのことだった。
辛いと言えば、「国際倶楽部」の「担々麺」も相当なものだった。中国麺の上に真っ赤な唐辛子の粉が山のようにかかっている。これを何杯食べられるか競争しようということになった。私は1杯でギブアップした。一人が、何だたいしたことないじゃないかと、2杯目を注文したが、それを食べ始めるなり、いやこれは辛いと悲鳴を上げた。どうも唐辛子の量が相当いい加減で、1杯目のものは少なかったようだ。
北京でのセミナーを終えた後、われわれは上海に移動し、上海交通大学、復旦大学等を訪問した。
上海の街は、街路樹を植えたカーブした道が多く、イギリス、フランス等の租界があった頃の建物も多く、ヨーロッパの植民地の雰囲気が残っていた。
当時はわれわれがホテルを選ぶことができず、いつも受け入れ側が用意してくれたホテルに泊まった。ところが上海では適当なホテルが空いてなく、途中で移動させられて2個所に泊まったが、そのうちのひとつは「瑞金賓館」という、フランス公使の公邸だった建物で、周恩来も一時住んでいたというところだった。広い敷地のなかに数棟の建物があり、われわれはその建物に分散して泊まった。私の泊まった部屋は、寝室だけで50〜60畳もあるかと思われる大きい部屋で、何とも広すぎて落ち着かなかった。
客室はまたとてつもない大きさで、しかも中国式に部屋の壁に沿って応接セットが置いてあるため、部屋の反対側に座っている人と話すときは、大声を出さないと聞こえないという具合だった。
食事の時は、年取ったウェイターがわれわれの後ろに直立不動で立っていて、何か用事がないか見張っていた。北京で最高級のホテルである「北京飯店」の食堂のウェイトレスは、良家の子女とのことだが、呼んでも仲間でおしゃべりをしていて、なかなか来てくれなかった。それとは大変な違いだった。
ウェイトレスも店員も、国家公務員になってしまい、およそサービス精神のかけらも感じられないのは、共産主義の弊害と思った。中国の店屋で最初に覚えた中国語は、つっけんどんな「没有(メイヨー、ありません)」だった。
それにひきかえ、この上海の「瑞金賓館」のウェイターは、「共産主義も資本主義も私には関係ありません。ご主人様のお食事中はずっと後ろに立っているのが私の仕事です」という顔をしていた。
「ここは前どなたが住んでいたのですか?」
と聞いても、
「知らない」
とのことだった。この人にとってはフランス公使も、周恩来も、われわれも、たいした差はなく、「お仕えするご主人様」なのかも知れない。
こういう人もたくさんいる中国で、共産主義思想を徹底するというのは、並大抵のことではないとつくづく感じた。そのために、朝夕「毛語録」を読ませているのだろうが、そんなことを何十年やったって、この人たちの頭の中は変わらないのではないだろうか?
上海では「豫園」というところへ行った。そこには古い庭園があり、そこへたどり着くまでに、狭い曲がりくねった道が続いていて、その両側に、店屋がぎっしり並んでいた。
驚いたのはその道の混み方だった。平日なのに、まるで日本の満員電車並みで、自分が歩きたいスピードで自由に歩くことなどまったくできなかった。いったんそこに入ったが最後、出口から押し出されるまで、流れに身を任せて、前後左右から押されながら進むしかなかった。
平日に何故こんなに混んでいるのかと、駐在している人に聞くと、電力事情が悪いため、工場ごとに休日が異なるためとのことだった。
ここの混み方は別格だったが、人が多いのはここだけではなかった。上海の市街は、いたるところで人が溢れていた。
これだけ人が多いと、人間に対する考え方も変わってくるのではないかと思った。
こうして、北京と上海で、セミナーの形で、あるいは個別に、大学を訪問して、日立のコンピュータのPRに努めた。しかし結果的には、この「教育部」の案件の受注は成功せず、アメリカのハネウェル社に取られてしまった。何故、こともあろうに、ハネウェル等になってしまったのだろうか? 理由は分からないが、単純な話ではないだろう。
数年後、別件で清華大学を訪問した際、ハネウェルのコンピュータが設置されているのを見たが、順調に活用されているという感じは受けなかった。
中国人は、メーカー同士を競争させるのがうまく、大変な買い物上手といわれているが、この買い物は果たして成功だったのだろうか?
その後しばらく、中国へ行くことはなかったが、4年後の1985年から86年にかけて、中国へのコンピュータの技術供与の話で、4回北京へ出かけた。
1985年の6月に4年ぶりで北京に行った時は、その間の変化の激しさに驚いた。
先ず服装が大きく変わっていた。人民服はめっきり減り、特に子供にいい洋服を着せているのが目立った。「一人っ子政策」のためか、子供は大事にされているようだった。
次に目立ったのが、高層ビルの建設ラッシュだった。北京の街ではいたるところで高層ビルを建てていた。そして新築されたホテルの「長城飯店」のロビーではクラシック音楽の生演奏を聴きながら飲物が飲めるようになっていた。そこで一杯やりながら、中国も変わったものだと思った。
もうひとつ驚いたのは、夜は車がライトを点けるようになっていたことだ。4年前に来たときは、真っ暗闇のなかをライトも点けずに走るので、肝を冷やしたものだ。そして街には、「夜走るときはライトを点けよう!」と書いた大看板が立っていた。まだこの運動中のようだったが、もうすでにほとんどの車はライトを点けて走っていた。
「さすがはスローガンの国」と思ったが、同時にスローガンが実際に大衆の行動を変えていることに感心した。
しかし「唾を吐くな!」というスローガンの効果の方はどうであろうか?
この85年6月の訪中は、中国政府と日立の間の、コンピュータの合作プロジェクトの調印のためのものだった。調印式には、日立からは、当時の浅野 弘副社長が出席した。
調印式に先立って、李鵬副首相を「中南海」に訪問した。「中南海」は「故宮」の西隣り、「北海公園」の南隣りにあり、清の王朝の庭園の跡で、現在は政府要人の公邸がある。周りはすべて赤い塀で囲われていて、外からは中がまったく見えないようになっていた。
当日は、朝、北京郊外の「有線電」という通信機とコンピュータの製造工場を訪問し、その後、「北京飯店」で時間調整をして、「中南海」へ向かう手はずになっていた。「有線電」は元々通信機の工場であったが、当時は「長城」というIBM互換のパソコンの製造を始めていた。
ここの訪問が長引き、予定よりだいぶ遅れてここを車で出た。浅野副社長は乗用車で北京市街に向かい、われわれはマイクロバスで追いかけた。ところが北京市内に入ると、交通渋滞に巻き込まれてしまい、さらに予定より遅れがひどくなった。
時間調整のため「北京飯店」に立ち寄る時間はなくなり、まっすぐ「中南海」に向かわないと間に合わなくなってしまったが、もし前に出た車が「北京飯店」でわれわれを待っていたらまずいと、「北京飯店」に立ち寄ることにした。ところがこのホテルの前の道が大変な混雑で、ますます遅れた。
そして浅野さん達の車はもうホテルを出発してしまっていた。
他の人は遅れてもたいした問題ではなかったが、問題はこのマイクロバスに浅野副社長の通訳をする人が乗っていたことだった。
マイクロバスで中南海に向かったが、運転手はこんなところへ来たことがないので、どこから入るのか分からない。ひとつの入口で、銃を持った警備の兵士に聞くと、ここではないという。しかし次の入口には、われわれのことが連絡されていて、すぐ中へ入れてくれた。
入口で教えられた李鵬副首相との会見場へ着くと、もうすでに李鵬さんの話が始まっていた。次に話をする浅野副社長の通訳の席には、合作プロジェクトの中国側のアレンジ役の人が落ち着かない顔をして座っていたが、われわれが着いたので、われわれの通訳と入れ替わり、ほっとしていた。
李鵬さんの話には、昔いっしょに仕事をした日立のおおみか工場の人の話が出てきて、さすがに「老朋友(ラオポンヨウ)」を大事にする国と思った。
ここのお茶を出す女性は白手袋をしていて、われわれ一人ずつにひざまずいてお茶を配り、さすがに他とは違う雰囲気であった。
遅刻したために、会見に先立って李鵬副首相といっしょに撮った写真には入りそこなったが、会見後李鵬さんはわれわれ全員と一人づつ握手をしてくれた。
合作プロジェクトの調印式は「人民大会堂」で行われた。引き続いてそこで中国側との会食があった。「人民大会堂」というと「全人代」等の会議が行われるのを、テレビで見るくらいだったが、こういう会食用の部屋が何十もあると聞いて驚いた。
ここで出される料理の作り方を書いた写真入りの本をお土産に頂いた。立派な本だが、紙は日本の終戦直後の本を思い出させるような粗末なものだった。今は知らないが、当時は中国にはいい紙がなかった。
正式な宴会では、ビールももちろん出るが、茅台(マオタイ)酒が出された。昔の宴会ではこの強い酒の乾杯が立て続けに繰り返され、大変だったそうだが、最近はそういう宴会は減ったようだ。むしろ若手官僚には酒をあまり飲まない人がかなりいるようで、同じテーブルになった日立側の酒飲みは、ホテルへ帰っては、今日も酒が飲めなかったとぼやいていた。
これも文化大革命の後遺症のひとつで、若いときに酒を飲まなかったため、酒を飲む習慣が身についていないということだった。
この合作プロジェクトの関係で、その後、86年の5月までに、3回北京に行った。
北京へ行くたびに、市内をあちこち見物した。同行者と買い物にもよく出かけた。「琉璃廠(ルーリーチャン)」という、骨董や書画を売る店が並んでいるところがあり、毎回そこで気に入った水墨画の掛け軸を買って帰った。
休日には中国側の人が「観光」にも気を使ってくれた。
86年の1月に行った時は、一番寒い季節で、屋外はマイナス10度以下で、とても観光どころではなかった。その寒さのなかを天壇公園に行ったが、石の壁に手を当てると、一瞬にして凍りついて離れなくなるような寒さだった。
この時は、中国の人達が「玉」の置物を作っている工場に案内してくれた。硬い石を削っていろいろな置物を作っていた。香炉の両側から鎖が垂れているものがあったが、これもひとつの石から削り出すのだと聞いて驚いた。石を削っていくと、中から色の違う部分が現れることがあり、その色を生かしてデザインを変更しながら作ることもあるということだった。
大きい置物には、作るのに20年、30年とかかるものもあり、なかには親子2代かかって作るものもあるということだった。しかもちょっと手を滑らせて石を割ったりしたら、何十年の努力も一瞬にして水の泡になってしまうので、大変神経を使う仕事のようだった。
「工場の標準作業時間にしたら、いったい何時間になるんだろうか?」
等と話し合いながら見学した。
(完)
1996年5月 (第1版)
1999年7月 (第6版)
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