オーストリア、チェコの旅
酒 井 寿 紀
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目 次
モーツァルト気違い
これは昨年(1998年)の8月に女房と二人で10日間オーストリアとチェコへ行ったときの話である。
話はモーツァルト気違いの話から始まる。
私はモーツァルトが好きなのだが、世の中には私よりもっと好きな人もいる。
私の住んでいる街に「ボン」という床屋がある。ここのおやじさんがまた大変なモーツァルト気違いなのだ。何がきっかけだったが忘れてしまったが、ある日お互いにモーツァルトが好きなことが分かってしまった。
「モーツァルトでは何が一番お好きですか?」
「ピアノ・コンチェルトの27番」
「ああ、595番ね。私も好きです」
だいたい会話はこういう調子である。
466、491、595...これが何の番号かお分かりですか?
モーツァルトが作曲した曲にはすべて作曲時期順にケッヘル番号という通し番号が取られており、たとえば上の三つはピアノ・コンチェルトの20番、24番、27番のケッヘル番号である。
この番号がどれぐらい通じるかでモーツァルト気違いの度合いが分かる。
私はピアノ・コンチェルトとピアノ・ソナタの全曲のCDを持っているが、この床屋さんは同じ曲でもいろいろな演奏家のCDを持っているという。私より気違い度は遥かに上だ。
「ピアノ・コンチェルトの第2楽章だけを集めたテープを作っておくから、俺のお通夜にはお経の変わりにかけてくれ」
と、私は女房に頼んである。やはり20番、24番、27番は欠かせない。21番や23番も入れてもいいかも知れない。
いや死んでからお通夜にかけてくれても、本人は聞けないから意味がない。本当は臨終の時これを聞きながら死ねたらいいと思うが、その時になったらそれどころではないかも知れない。
以下はこういう気違いの旅行記である。
インターネットでチケット購入
そんな具合なので、一度モーツァルトが生まれ育ったというザルツブルクという町に行ってみたいものだと思っていた。
モーツァルトの音楽についてはいろいろな人がいろいろなことを言っている。その中で私が最もモーツァルトの音楽にぴったりだと思っているのは、誰の言葉か忘れてしまったが、
「モーツァルトの音楽は人間が作ったものではなく、天から降り注いでくる音をつかみ取ったものだ」
という言葉だ。
ザルツブルクではこういう音が天から降り注いで来るのだろうか? いやそうでないにしても現地に行けば何かモーツァルトの音楽の秘密を解く鍵があるかも知れない。
「よし行こう!」と、実は一昨年(1997年)思った。
ザルツブルクへ行くなら、ここで毎年行われる「ザルツブルク音楽祭」でモーツァルトの音楽を是非聴きたい。しかしその情報がどこへ行ったら入手できるのか分からない。
オーストリア大使館の観光案内のようなところに電話したがそういう情報はないという。
困ってしまい、インターネットで何か手掛かりが得られないかと、オーストリア、ザルツブルク...とたどって行くと「ザルツブルク音楽祭」というウェブサイトがちゃんとあるではないか。
その中身を調べると、何月何日に、どの会場で、誰が、何の曲を演奏するかが全部掲載されている。それだけではなく、会場の座席の配置から、値段、予約状況まで分かり、クレジット・カードでチケットを購入できるようになっている。何という便利さ!
早速プログラムを調べて、聴きたいコンサートを二つ選び、インターネットでチケットを注文した。すると1週間ぐらいして航空便でチケットが送られてきた。ところが、注文するときは英語でよかったが、送られてきたチケットに付いている手紙はドイツ語だった。これは弱った、と思ったが、とにかく目的のチケットが手に入っているので、久しぶりにドイツ語の辞書を引いてだいたい理解し、分からないところはいいことにした。
「これでOK」と思っていたが、その後女房の母親の具合が悪くなって行けそうもなくなった。 「さて、キャンセルはできるのだろうか?」ともう一度ウェブサイトを見たが、何も書いてない。しかたがないので、そのサイトの事務局に、
「事情でキャンセルしたいので手続きのしかたを教えてほしい」
とメールを出したら、次の日にメールで、
「了解しました。チケットを返送してくれれば10%のキャンセル料を頂いて金はお返しします」
との連絡がありほっとした。
ところがその後クレジット・カード会社のアメリカン・エキスプレスから連絡があり、
「金は返すがあなたの銀行口座には戻しません。次に買物をしたときその分引きます」
とのこと。一度手に入った金は絶対に手放さないのだ。何というがめつさ! 結局取り戻したのは1年近く後になってからだった。
というわけで、一昨年は行きそびれてしまったが、昨年再びインターネットでチケットを入手した。
さらにインターネットで調べると、ウィーンで、モーツァルトの時代のコスチュームを着て演奏するコンサートがあることを知った。これも面白そうだと申し込んだが、これはチケットも送ってこない。
「あなたの申し込み番号はXX番です」
と書いたメールを送ってきて、
「これをプリントして持ってきて、会場の受付で渡せばチケットと交換します」
とのこと。こんないい加減なことで本当に大丈夫なのだろうかと心配したが、言われた通りにすると、全く問題なく入場できた。
「インターネットでの買物は危険だ」
という声をよく耳にするが、欧米人の発想は、
「多少危険があっても、使った方が便利なものは使ってしまえ」
という考えのようだ。日本人とは大分違うようだ。
壊れかかった車を平気で乗り回す等、日本人に比べ、道具の使い方がきわめて荒っぽい。
半年前から満席
チケットが取れたので、今度は飛行機だ。
最初のコンサートがウィーンで8月7日の土曜日にあり、私の勤務先の夏休みがその日からだったので、どうしてもその日のウィーン直行便を取る必要があった。他の都市経由ではコンサートの時間に間に合わない。ウィーン直行便は全日空だけなので、何としてもこの便を取ろうとした。
丁度お盆休みで、混むことが予想されたので、半年前にJTBに申し込んだが、もういっぱいで取れないと言う。そんな馬鹿な、と思ったが、どうも旅行会社がパッケージ・ツアー用に押さえてしまうらしい。
「2ヶ月ぐらい前になると、余った分が放出されるので、取れるかも知れませんが、何とも言えません」
と言う。チケットを買ってしまっているので、当てにならない飛行機を頼りに計画を立てるわけにはいかないので、1日前から会社を休む決心をして、前日の金曜日のフライトを頼んだが、それも満席でだめだという。どうしようもないので、インターネットの航空会社のページで金曜日に成田を発ち、どこでもいいから乗り継いで、その日中にウィーンに着くフライトを片っ端から調べ、そのうちよさそうなもの3件程についてキャンセル待ちの申込みを頼んだ。航空会社のホームページで、出発の日にちと場所と到着地を入力すれば、別会社の便に乗り継ぐものも含めて、全部リストアップされるのできわめて便利だ。旅行会社が失業してしまうのではないかと心配だ。
それでもなかなか取れなかったが、しばらく経ってやっと全日空のパリ経由のフライトが取れた。それは全日空が自社のパッケージ・ツアー用に確保してあったもので、それを利用することになったため、ホテルまで全日空経由で頼む羽目になってしまった。つまりJTBと全日空と旅行会社が2段階間に入るわけである。
どうも、休暇のシーズンには、日本ではパッケージ・ツアーしか使えないシステムになっているらしい。何とかならないものだろうか?
チェコ行きを追加
今回の旅行はもともとオーストリアだけのつもりだった。
ウィーンとザルツブルクの街を見てコンサートを聞けばよいと思っていた。
ところがこのような事情で、1日増えたため、ウィーンからザルツブルクへ移る間にどこかもう1個所回る時間ができた。
候補としてはプラハとブダペストがあり、両方ともウィーンからの飛行時間は約1時間で同じくらいだった。
両方とも行ってみたい街だったが、最後の決め手になったのはやはりモーツァルトだった。モーツァルトは31才のときかなり長期間プラハに滞在したという。
私は今までに、ミラノにも、パリにも、マンハイムにも行っているので、今回のザルツブルクとウィーンの他にプラハが加わると、モーツァルトが行ったことがある主要都市を全部訪問したことになる。
プラハにもモーツァルトが見た自然と建物がまだ残っているはずだ。
コンサートの日程の関係で、ウィーン、プラハ、ザルツブルクの順に訪問することになり、オーストリアをいったん出国して再入国するいう変なルートになってしまった。
ところが行ってみて知ったのだが、18世紀以前の世界ではこれは「変なルート」ではなかったのだ。
ウィーンとプラハがハプスブルク家のオーストリア帝国だったということは知っていたが、何とザルツブルクはオーストリア帝国には属さず、教会の大司教が政治の長でもあったのだという。現在のヴァチカンのような街だったらしい。
こうしてやっとのことで飛行機も取れて、8月7日の金曜日にウィーンへと出発した。
ホテルへ着くなり一悶着
パリで乗り継いで、ウィーンの街中の「アストリア」というホテルに着いたのは夜の10時過ぎであった。
チェックインしようとすると、フロントの事務員の男が、
「We have a problem.」
と言う。何かと聞くと、
「ちゃんとした部屋がなくなってしまったので、今日1日は狭い部屋で我慢して下さい。明日は大きい部屋に変えます」
と言う。
「荷物を開けてから部屋を移るのは面倒だからいやだ。何とかならないのか」
と言ったが、
「荷物は私どもが運びます」
と言う。どうも本当に部屋がないらしい。いくら遅く着いたとはいえ、予約してあるのに全くけしからん話だ。
しかし、どうしようもないので、
「しかたがない。その代わり部屋代の差額を返してくれ」
と言うと、
「今日はもう遅いので、明日、昼の事務員に言って下さい」
と言われ、しかたなく狭い部屋で我慢することにした。
案内された部屋は、ダブルベッドだけでほぼ部屋いっぱいという、確かに狭い部屋であった。
翌日の朝、大きい部屋が開いた、と連絡があり、大男が来てわれわれの荷物をその部屋に運んでくれた。今度は今までの部屋と比べ2倍以上の広さがある広々とした部屋だった。
その日の夕方、外出から帰ると、フロントに前日と同じ男がいたので、
「金の返却の話はどうなった」
と聞くと、
「いやあれは正常な部屋なので金は返せない」
と言う。
「そんな馬鹿な話はない。おまえは最初に『We have a problem.』と言ったじゃないか」
と言ったが、
「あの部屋もこのホテルの正常なランクの部屋で、もっといい部屋に泊まりたかったらもっと金を出さないとだめだ」
と、言うことが前日と全く違い、最後には、
「私は夜のシフトの担当なので、明日、昼の担当者に言ってくれ」
と言いだし、話にならない。
そこで次の日まで待ち、昼のフロントの男に同じことを言ったが、やはり、
「あの部屋も正常な部屋なので金は返せない」
と言う。
「そんな馬鹿なことはない。われわれが着いたとき、夜の事務員は開口一番『We have a problem.』と言い、われわれが頼んだわけでもないのに次の日には2倍以上広い部屋に変えたではないか」
と言っても、頑として、
「金は返せない」
と頑張る。最後に、
「日本に帰ったら日本の旅行会社に言うけどいいか」
と言うと、
「結構だ」
と言う。
金は日本で旅行会社に払ったのだから、そこから返してもらうのが筋で、この時は日本に帰ったら早速JTBに連絡してやろうと思っていた。しかし帰国後何かと忙しく、ついずっと放ってあった。
女の執念
2ヶ月ぐらい経って、女房が別件でJTBに行ったとき、われわれの旅行の担当だった小谷さんという女性にその話を伝えた。私は、
「もう時間も経っているし、間に二つも旅行会社が入っているので、先ずだめだろう」
と言っていた。
ところがそれからしばらく経って、小谷さんから女房に、
「ホテルから、あれは当方のミスなので、ルームチャージの差額を払い戻します、という連絡が入りました」
と電話がかかってきたとのこと。
「いや! さすが! 女の執念のすごさ! 恐ろしい! 恐ろしい!」
こっちが諦めかけているのに、お客の受けた被害をここまで追及する旅行会社の人のプロ意識にも感心した。
そしてこれは別の意味でも結果としてよかったと思う。
というのは、相手が日本人だと分かると、いい加減な対応でごまかしてしまう、けしからん人間が海外には多いからである。
その原因は、日本人の方にもあると思う。言葉の問題もあって、いい加減な対応をされてもおとなしく黙っている。多少言葉ができても、欧米人の自己主張の激しさにはとてもかなわない。
こういう風潮を是正するには、日本人一人一人が徹底的にけしからん人達の行為に抗議するしかない。そういう意味で、今回も危うく「悪い事例」をまた一つ残すところだったが、二人の女性の執念でそれが防げたことは大変よかったと思う。
いや全日空の人も加えると3人だったのかも知れない。
希薄なゲルマンの匂い
ウィーンには3泊し、180オーストリア・シリング(約2,000円)で3日間市内の乗り物に乗り放題の「ウィーン・カルテ」というカードを買って市内を見物してまわった。
街を歩きまわって、思っていたことと違い驚いたことがある。
ウィーンといえば音楽の都だ。そしてヨーロッパのクラシック音楽を支えてきたのはゲルマン民族が中心だ。従って、ウィーンの街には、ドイツの都市と同じように、長身、白皙、金髪、碧眼の典型的ゲルマン人がうじゃうじゃいて、ゲルマンの匂いがぷんぷんしているものだとばかり思っていた。
ところが全く違うのである。
あまり背が高くなく、色が浅黒く、髪も目も茶か黒っぽい人が多いのである。
ウィーンの人達には、ゲルマン人よりもバルカン半島の民族やヨーロッパの先住民族の血の方が濃いのではなかろうか? 詳しいことは分からないが、いずれにしても非常にハイブリッドな人達との印象を受けた。このハイブリッドの逞しさがウィーンの文化を支えてきたようだ。
城塞都市ウィーン
ウィーンの街は「リング」という直径1.5キロメートルぐらいの環状道路に取り巻かれている。これは昔の城壁と濠の跡だそうだ。
昔はどんな姿をしていたのだろうと思っていたが、ウィーン市立歴史博物館というところへ行ったら、昔のウィーンの街の模型が展示されていた。
ヨーロッパには城壁で囲まれた街は多いが、ウィーンはその外側に濠を巡らせていた。そして城壁には10個所ほど砦のようなものが設けられていて、濠に張り出していた。多分これが防衛戦のときは戦いの中心になったのだろう。街中が巨大な要塞なのである。
そしてその博物館には、16世紀から17世紀にかけてオスマントルコと戦ったときの、折れた槍、傷だらけの楯、破れた旗等、激戦の跡を生々しく伝える武器が多数展示されていた。
ヨーロッパの他の都市と比較してもはるかに堅固な要塞は異民族との熾烈な戦いを物語るものだろう。
ウィーンの勝利は紙一重だったのではなかろうか? もしこの時ウィーンが第2のコンスタンチノープルになっていたら、その後のヨーロッパの歴史はどうなっていたのだろうか?
冷房のないウィーンの街
旅行に出発する1週間ほど前にインターネットでウィーンやプラハの温度を調べると最高が22〜23度だったので、長袖のシャツを中心に旅行支度をした。ところが出発の直前に再度調べると30度近くになっていたので、慌てて半袖のシャツと入れ替えた。
着いてみるとウィーンは日本同様大変な暑さだった。
しかし冷房がほとんどないのである。
われわれが泊まった「アストリア」にも冷房がなく、夜は窓を開けて寝ていた。
商店にもほとんど冷房がなく、あっても小さいエアコンを1台取り付けてある程度だった。
博物館等もほとんど冷房がなく、ところどころに日本製のパッケージ型のエアコンが設置されていればいい方だった。
これは後で行ったプラハもザルツブルクもいっしょだった。
確かに本当に暑い時期はごく限られているのだろう。しかし、レストランの看板に「冷房あり」と書いてあるところを見ると、彼らにも暑いことは暑いのだ。
エアコンの巨大な潜在マーケットがあるように思えた。
昔のコスチュームを着たコンサート
ウィーンでの予定の一つは、日本でチケットを買った、モーツァルト時代のコスチュームを着てモーツァルトの曲を演奏するというコンサートに行くことだった。
場所は楽友協会(Musikverein)という立派な建物だった。
どんな格好をして行ったものか、頭を悩ませた。
本格的なコンサートならもちろんスーツを着ていく必要がある。しかしこれは席も全部自由で、どうも観光客相手の見世物に近いように思えた。
いちおうジャケットを着てネクタイを締めて行ったが、行ってみると、スーツを着込んだ人から、市内観光から直行したと思われるTシャツ姿の人まで、実にさまざまだった。
ロビーで昔のコスチューム姿でプログラムを売っていた人といっしょに写真を撮らしてもらった。
私が頼んだ女性は素直に応じてくれたが、女房が頼んだ男には、
「That’s expensive. (高いよ)」
と言われてしまった。
われわれの隣には、たった今日本から着いたという日本人のグループがいて、疲れて眠くなりそうだと言っていた。われわれも飛行機の切符が順調に取れていれば同じようになるところだった。一日早く来たため少しはよかったが、それでもまだ時差ぼけで眠かった。
演奏の途中に何回か女房につつかれた。
ドイツ騎士団の館
ウィーンの街のシンボル、シュテファン教会の近くの裏通りにあるモーツァルトが住んでいた家を訪れた後、近くにある「ドイツ騎士団の館」(Deutchordenshaus)という建物に行った。
ここにもモーツァルトが一時住んでいたという。
始め、昼食時だった為か、扉が閉まっていたが、そのうち尼さんのような格好をした女性が出てきて開けてくれた。
さすがにこの辺になると観光客はほとんど来ない様子だった。
ドイツ語で一生懸命説明してくれるのが分からず閉口した。
渡された英語の印刷物で、「ドイツ騎士団」というのは12世紀の十字軍の時代から現代に至るまで延々と活動を続けていること知って驚いた。騎士団というのは十字軍時代のもので、とっくの昔になくなったものと思っていたが、そうではないのだ。ここは過去800年のドイツ騎士団の歴史の博物館であると同時に現在の活動の中心でもあるのだ。改めてヨーロッパの歴史の重さを感じた。
中庭ではちょうど結婚式が行われていた。しばらく美しい讃美歌の歌声に聞き惚れていた。
ボイルド・ビーフの鍋がふたつ
旅先でいろいろ珍しいものを食べるのは、楽しみではあるが、食べ物にありつくまでが一仕事である。
たいていガイドブックでよさそうな店を選んで予約の電話を入れる。たいていはうまく行くが時々変なことが起こる。
今回はプラハでレストランに電話して、
「XXですか?」
と店の名を告げると
「違う」
と言う。電話番号を間違えたかと思い、もう一度電話すると、
「店の名前と場所が変わったが、前と同じ値段で同じものを食べさせる」
と言う。どうも経営者が変わったらしい。どうなっているのか分からないので止めることにした。大体場所を聞いても行けるかどうか分からない。
レストランが決まっても、料理を頼むのがまた一仕事だ。
オーストリアはドイツ文化圏だから料理はあまり期待してなかったが、ウィーンに「プラフッタ(Plachutta)」というボイルド・ビーフを得意とする店があるというので行ってみることにした。
行くと、ボイルド・ビーフだけで何種類もあり、どれがいいのか分からない。そこで女房と別な種類を頼み、適当にシェアして食べることにした。ところが何と鍋がふたつ出てきてしまった。ひとつの鍋にさえ二人で食べきれないほどの肉が入っている。その日は見ただけで圧倒されて、普段以上に胃袋が小さくなってしまったようだった。
カーレンベルクとグリンツィング
ウィーンの北の郊外にカーレンベルク(Kahlenberg)という小山がある。ウィーンの街を全部見てまわる時間がないので、ここに登れば全体を一度に見ることができるだろうと、バスで頂上まで登った。
頂上からはウィーンの街が一望の下に見渡せ、その先、はるか南に、前日に訪れたシェーンブルン宮殿のグロリエッテという、マリア・テレジアが建てた記念碑が見えた。10キロメートル以上離れているのにはっきり見えるとは何という大きさなのだろう。
ウィーンの街に戻る途中、グリンツィング(Grinzing)という小さな村に立ち寄った。ベートーヴェンが「田園」を作曲したのはこの近くだということだ。
小さい教会があったのでスケッチをしようと思ったが、うまい構図に納まるところがない。郵便局のドアの一つが閉まっていて、その前がちょうどよかったのでそこに座り込んでスケッチを始めた。
絵を描いていると、郵便局の人が突然内側からドアを開けたので驚いたが、向こうもびっくりした。こっちが何をしているか分かったので、そのまま描いていていいと合図をして、そのドアに鍵をかけて行ってしまった。[スケッチ(@)]
この時は助かったが、必ずしも物分かりのいい人だけではない。先日東京で私有地の駐車場で描いていたらガードマンに追い出されそうになり、もうすぐ描き終わるからと言って、やっと最後まで描かせてもらった。いい構図の場所で絵を描くのも大変だ。
チェコのタクシーにご用心
月曜日の夕方の飛行機でプラハに向かった。
プラハの空港でタクシーを拾おうとすると、配車係が車を呼んでくれたが、どこにもタクシーと書いてない。
「これはタクシーではない」
と言うと、
「これがチェコのタクシーだ」
と言う。
白タクの客引きかと思ったが、手に「Airport Taxi」と書いたもっともらしい札を持っており、周りを見まわしても、本当のタクシーらしいものは見当たらない。メーターがついてないので、
「ホテル・ディプロマットまでいくらだ?」
と聞くと、運転手は、
「400」
と言う。飛行機の中で見ていたガイドブックに、「プラハの中心までで400コルナ(約2,000円)」と書いてあったので、ちょっと高めと思ったが、法外な値段ではないので、その車に乗り込んだ。
ところがホテルが近づくと、運転手が何か数字がいっぱい書いてある表を突きつける。よく見るとそれはホテル名と料金を書いた一覧表で、「ディプロマット」は「500〜600」になっている。
私は驚いて、
「You said, “four hundred”.」
と言うと、
「four hundred fifty.」
と言う。話が違う。そこで、
「YOU SAID, “FOUR HUNDRED”!!」
と大声で怒鳴りつけると、相手は黙ってしまった。
こういう時はごちゃごちゃ言わずに決めつけるに限る。どうせ難しい英語は通じやしないだろう。
タクシーを降りて、400コルナ渡すと、われわれのスーツケースをトランクから取り出し、放り出すように地面に置いて行ってしまった。もちろんチップはやらなかった。
その後、ホテルから食事に行くときに乗った車は、タクシーと書いてあるので安心していたが、走り出してもメーターを倒さず、
「そのレストランまではXXだ」
と言う。この国のタクシーはどうなっているんだ。いったい何の為にメーターがついているんだ。
最後の日に、ホテルから空港に向かうとき、ベルボーイに、
「タクシーで空港までだいたいいくらかかるんだ?」
と聞いたが、
「分からない。タクシーに聞いてくれ」
と言う。知らないはずはないだろう。
そして呼んでくれた車はまたもやタクシーではない。
「これはタクシーじゃない」
と言うと、そのベルボーイは、
「これは『タクシー・サービス』だ」
と言う。どうもこの国には政府公認の白タクがあるらしい。
空港までの値段を聞くと、
「450」
と言う。
ホテルには他に車もなく、飛行機の時間もあるので、しかたなくそれに乗った。
来るときに乗ったタクシーは、他の車より特に高い金を要求したわけではないようだ。最初「400」と言っておいて、後から「450」と言ったり、得体の知れない料金表を突きつけたりするから、こっちは腹が立ったのだ。おとなしく「400」のままにしていれば、チップを含めて「450」は払ったかも知れない。この運転手はガッチリ金を取ろうと思って、かえって損をしたようだ。
チェコへ行ったらタクシーにご用心!
かつてはヨーロッパの中心
翌日は終日プラハの街を歩きまわった。
プラハというと、「東欧の静かな街」というイメージを持っていた。
ところが違うのである。
いたるところ観光客がごった返している。王宮の切符売場は長蛇の列で、衛兵の交替は人だかりでろくに見えないありさまである。そして建物はどれも大変古びていて重々しい。
どうしてこんなに人気があるのだろう。
日本に帰って、もう一度ガイドブックを調べ直して驚いた。
例えば、プラハ城の中にある聖ヴィート教会が最初に建てられたのは930年、聖イジー修道院が建てられたのは973年だという。教会は一般に何百年にも渡って増改築を繰り返しているので、単純な比較は難しいが、ロンドンのウェストミンスター寺院は1065年、パリのノートルダムは1163年、ケルンのドームは1248年、ミラノのドームは1386年、ローマのサンピエトロ寺院は1452年ということなので、これらよりはるかに古いのである。
またプラハ大学ができたのは1348年で、1386年にできたドイツ最古のハイデルベルク大学より古いのだ。
より古いということは当時はプラハがヨーロッパの文化の最先端を行っていたということである。従って他の国はプラハの教会等をお手本にしたのではなかろうか?
さらに驚いたのは、私は知らなかったのだが、14世紀にはボヘミア王が神聖ローマ帝国の皇帝だったという。つまりプラハは当時のドイツ文化圏の中心だったのだ。
免罪符に反対したプラハ大学の教授フスが火あぶりの刑になったのは1415年で、ルターが1517年に免罪符反対を唱える100年以上前である。宗教改革でもチェコは先行していたのだ。
要するにヨーロッパの人達にとって、プラハは大変な「古都」なのである。
日本人が奈良や京都に行くのと同じようにヨーロッパの人はギリシア、ローマ、そしてプラハへ行くのだろうと思う。
そんな大変なところとは知らなかった。
まる1日の滞在では、一通り見るにも時間が全く足りなかった。
乞食と間違われて
午前中プラハ城を見た後、ヴルタヴァ(モルダウ)川を渡って、旧市街のガラス食器店でワイングラスを買った。
ここでも日本人は大のお得意さんらしく、「音」と漢字で書いた名札をつけた店員がいた。たぶん「オットー」という名前なのだろう。
ヨーロッパにしては驚くほど暑い日だった。
カレル橋のたもとのレストランで夕食を済ませて外へ出ると、酷暑の中を一日中歩き回った後ビールとワインを飲んだため、めまいがしてきた。少し休めば治るだろうと、女房と二人でカレル橋の上で座り込んでいた。
この橋はプラハの最盛期の14世紀にカレル(英語で言えばチャールズ)4世によって作られたということで、プラハで最も有名な橋である。橋は歩行者専用になっており、もう夜遅かったが、まだ人通りが多かった。
ハンガリー舞曲のヴァイオリンの二重奏が聞こえてきた。いい音色だったが、私は気分が悪く、見に行く気もしなかった。女房が見に行き、女性が二人で弾いているとのことだった。
ヨーロッパの街では、思いがけないところからすばらしいヴァイオリンの音や歌声が聞こえてくることがある。お金のために演奏している者、人前で演奏する練習が目的の者等いろいろいるのだろうが、とにかくすばらしい音が多い。こういうストリート・ミュジシャンが音楽の原点ではないかと思う。
そんなことを考えながらヴァイオリンの音に聞き惚れていると、若い二人連れが寄って来て、何とコインを差し出すではないか。
私は慌てて、
「われわれはちょっと休んでいるだけです」
と言って、何回も差し出すのを無理矢理断ったが、後で考えると、
「お若いのに、ご親切に、お有難うございます」
と言って受け取っておいた方がいい記念になったかも知れない。
ホテルが違う?
水曜日の朝のフライトで、ウィーン経由でザルツブルクに向かった。
ザルツブルクの空港で、タクシーに"Ramada"とホテル名を告げると、一つのホテルまで連れて行き、
「ここが『Ramada』だ」
と言う。しかしそのホテルには「Renaissance」と書いてある。
「ここは『Ramada』じゃないじゃないか」
と言うと、
「いや、ここが『Ramada』だ。最近名前が変わったんだ」
と言う。日本で予約をしたばかりなので、まさかと思い、変なところで降ろされてはかなわないので、
「ちょっとフロントで確認してくるから待っていてくれ」
と、女房をタクシーに残して、フロントで聞くと、そこの若い女性は、
「はい、ここが『Ramada』です」
と澄まして言う。申し訳なさそうなそぶりも見せない。ちゃんと着いたからいいじゃないかという顔をしている。
ホテルが悪いのか、日本の旅行会社が悪いのか知らないが、全く人騒がせな話だ。後で聞くと、この4月に変わったのだそうだ。
その後、ホテルから外出するときに、タクシーで着いたアラブ系と思われる男が、やはり、ホテルが違う、ともめているのに出くわした。
欧米のホテルはしょっちゅう経営者が変わるので気をつけないと危ない。
ホテルに着いた時間が早すぎ、すぐにはチェックインできなかったので、近くのザルツァッハ川迄行って1枚スケッチを描いて時間をつぶした。
川の向こうに見える山を描いた。後で、その山が「ウンタースベルク(Untersberg)」という名前であることを知った。その山に登ればザルツブルクがよく見えそうだと、最後の日にロープウェイで頂上まで行ってみた。[スケッチ(A)]
モーツァルトが飯の種
ザルツブルクには3泊し、モーツァルトのコンサートを二つ聴き、市内を見て歩いた。
市内の観光には「ザルツブルク・カード」というICカードを使った。3日間で360オーストリア・シリング(約4,000円)で、市内の交通機関と主要観光施設すべてに通用した。観光施設の入口では観光客が差し出すカードを機械にかけていた。多分1個所は1回しか入れないことになっているのだろう。
小さな街なので、地下鉄はなく、移動はすべてトロリーバスだった。
ちょうどザルツブルク音楽祭の真っ最中で、市内は観光客であふれていた。屋外で食事ができるレストランは多数あったが、昼食時にはどこも混んでいて、空いている席を捜すのに苦労した。ヨーロッパでは珍しいことだ。
ザルツブルクの人達は、音楽祭の関係者はもちろんのこと、ホテルも、レストランも、土産物屋も半分は音楽祭で食べているのではなかろうか? どの土産物屋もモーツァルトの絵が描いてあるチョコレートや置物等のモーツァルト・グッズでいっぱいだった。
モーツァルトは音楽だけでなく、大変な飯の種をザルツブルクの人達に残してくれたのだ。
音楽祭の期間は7月末から8月末までの約1ヶ月だが、毎年12月には翌年のプログラムが発表になり、1月には通しのチケットの申し込みが締め切られるので、出演者との折衝等含めると、音楽祭の関係者は1年中休む間もないに違いない。
冷房のないコンサートホール
1回目のコンサートはモーツァルトの弦楽5重奏が中心で、モーツァルテウムというコンサートホールで行われた。
ここはザルツブルク音楽祭の主会場の一つなのに冷房がなかった。
会場は正装をした人達で満員で大変な暑さだった。
いかにも奥さんに無理矢理付き合わされたという感じの男が、暑くてかなわんという様子で、演奏中プログラムをうちわ代りにしてパタパタやっていた。まんなか辺のいい席に座っていたが、休憩時間後隅の席が空くと、そっちの方がまだ少しはよさようと、奥さんを促してさっさと席を変わってしまった。
第1ヴァイオリンの人も汗を拭きながらの演奏で、気の毒だった。
しかし、考えてみると、モーツァルトの時代には冷房等なかったのだ。当時から聴く方も聴かせる方も汗だくだったのだ。従ってこの方が当時の音楽を再現するにはふさわしいという見方もできよう。
コンサートが終わった後、旧市街の「ツム・モーレン(Zum Mohren)」という古いレストランで食事をした。コンサートで見かけたわれわれと同年輩の日本人の夫婦がやはり食事に来ていて、どちらからともなく話が始まった。岩崎さんというこのご夫婦も大の音楽好きで、われわれとほとんど同じ日程で、ブダペスト、プラハ、ザルツブルクと、コンサートを聴きながら旅行中とのことだった。
このご夫婦とは日本へ帰ってからも、お互いに家へ呼んだり呼ばれたりの付合いが続いている。現在ご主人がピアノを、奥さんがヴァイオリンを勉強中で、私がクラリネットを習っていると聞くと、仲間内の音楽会があるからと誘われ、引っ張り出されてしまった。
仲間内といっても、本当のプロや、プロまがいの人もいて、われながらあつかましいことをしたものだと思う。自分一人でいい加減な演奏をしていい気分になっているのと、大勢の人の前で演奏するのは全く違うということがよく分かった。
ト短調シンフォニー(ケッヘル183番)
翌日のコンサートは音楽祭の主会場の祝祭劇場(Festspielhaus)で行われた。
日本で聞いていたプログラムでは、曲目はモーツァルトのト短調のシンフォニー(ケッヘル550番)とストラヴィンスキーだった。ところが当日プログラムを買い求めると、この他にケッヘル183番のト短調のシンフォニーも演奏することになっている。
550番は有名なので、ずっと前から知っていたが、モーツァルトが17才のときに作ったという、もう一つのト短調のシンフォニー、183番については数年前に始めて知った。
早速CDを買って聴いてみて驚いた。
若い頃作った曲は、有名な310番のイ短調のピアノ・ソナタ等はあるが、ほとんどが明るく軽快な長調で、暗く重々しい別人のようなモーツァルトは、29才のとき作ったニ短調のピアノ・コンチェルトで突然現れたのだと思っていた。
ところが違うのである。同じような雰囲気は17才のときのシンフォニーに既に鮮烈に現れているのだ。若いときの作品だけに、若々しさ、みずみずしさはこっちの方が上かも知れない。
要するにモーツァルトは、その明るさも暗さも、10代から死ぬまで、ほとんど変わっていなかったのだ。
これが今回聞けるというので、これは儲けた、と思った。
オーケストラは「カメラータ・アカデミカ・ザルツブルク」といい、指揮者はフランツ・ヴェルサーメスト(Franz Welser-Moest)というカラヤンを若くしたような感じの人だった。
音楽家には詳しくないので、両者とも知らなかった。演奏は、細かい技術的なことは分からないが、冒頭のシンコペーションの連続から最後の一音まで、ぐいぐいと聴衆を引っ張って行った。神経を張り詰めて聞かざるをえないものだった。
コンサートマスターは、名前は知らないが、前後に45度位も激しく体を動かして弾き、よくあれで音が狂わないものだと感心した。この人が第1ヴァイオリンの音の半分位を出しているという感じだった。
第1ヴァイオリンの一番後ろでは東洋系の女性が弾いていた。後で日本のテレビでインタビューを受けているのを見た。やはり日本人だった。
真っ黒い長髪のチェリストの、無表情で淡々とした演奏ぶりも印象的だった。この人はわれわれが会場を出て歩いていたら、一人でチェロを担いでさっさと追い抜いて行った。あまりにも帰りが早いのに驚いた。たった今まで演奏していたのだ。いかにも変わり者という感じの人だった。
私にとって、これだけ心に残った演奏はいまだかつてない。
これを聴けただけでもザルツブルクまで来た甲斐があった。
その後の550番の方のト短調が、183番で緊張しすぎて疲れたせいか、眠くなる位だった。
ザルツブルクへ行ってから4ヶ月になるが、私はまだこの時以来183番を聴いていない。この時の鮮烈な印象が薄らがないようもうしばらくこの曲を聴くのは止めておこうと思う。
このコンサートではアンコールを一切受け付けなかったが、これも印象がよかった。聴きに来た曲の印象が薄らぐのもいやだし、いつまでも物欲しげな拍手が続くのを聞いているのもいやなものである。
日当たり最悪?
ザルツブルクの街は何とも不思議なところにできたものだ。メンヒスベルク(Moenchsberg)という小山の北側の絶壁の真下に街が開けているのである。開けていると言っても、北側にはすぐザルツァッハ川が流れているので、山と川に挟まれた、幅300〜400メートル、長さ700〜800メートルの猫の額のような平地がザルツブルクの旧市街なのである。
ザルツァッハ川の対岸から、メンヒスベルクの丘の西の方にある建物を描いたのがスケッチ(B)である。ザルツブルクの城はこの左手、つまり東の方にある。
南側にこれだけ急峻な山があると、高緯度のヨーロッパでは、冬はほとんど日が当たらないのではなかろうか? 近くにあるウンタースベルクという標高2000メートル位の山に登って周りを見ると、近くに広々とした平地はいくらでもあるのに、どうしてこんなところに街を作ったのだろう?
メンヒスベルクの山が城塞として手頃だったからだろうか? 重要なのは城塞で、街はほんの付け足しだったのだろうか? 山の南でなく北側に街が開けたのは、ザルツァッハ川の船便のせいだろうか? 南斜面の日当たりを重視するのは日本人だけなのだろうか?
どうもよく分からない。
あっという間の10日間だった。
ザルツブルクでも、ウィーンでも、別に天からモーツァルトの音楽が降って来るわけではなかった。それはそうだろう。天から降って来るものなら、日本でも、アメリカでも降るはずだ。
やはりモーツァルトの「天」はモーツァルトの頭の中にあったのだ。
この結論がこの旅行の収穫である。
(完)
1999年1月 (第1版)
1999年7月 (第2版)
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