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アメリカところどころ

酒 井 寿 紀

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目    次

はじめに

飛行機が1台もない空軍基地

意外と狭いコンピュータの世界

タルサのオクトーバー・フェスト

オクラホマのコンピュータ工場

1杯50ドルのブランデー

夏時間の切り替えに御用心

ピストル型の蝿取器

先ず「足」と「飯」と「買物」

手作りの蒸気機関車

スポケーンの博物館

スポケーン山へドライブ

ゲートひとつで天国と地獄 ―― ティフアナ


はじめに

 

私は1981年から1998年の間に、アメリカに仕事で18回出張した。大半は3泊5日程度の出張で、仕事を片づけるとすぐ帰国の途についたため、仕事以外の見聞の機会は極くわずかだった。

そういう仕事以外の話の中からいくつかの思い出を記すことにしたい。有名な観光地などほとんどどこにも行ってないので、そういうところはご紹介できない点をあらかじめご了解頂きたい。

アメリカに長期間滞在したわけでもなく、年月も経っているので、間違っているところがあったらご容赦頂きたい。

 

 

飛行機が1台もない空軍基地

 

先ずは硬い話から。

1981年の12月に、私は突然アメリカに出張することになった。もともとヨーロッパに出張する予定だったのだが、行きがけにアメリカに寄ってくれという。

目的は、防衛庁の次期防空システムの受注活動の一環として、米国の空軍に日立のコンピュータの説明を行うためだった。

中型コンピュータM−240の説明のため、その開発の責任者だった私が、また大型コンピュータM−260の説明のため、平井 通宏さんと若井 勝郎さんがいっしょに出かけた。

何せ急に言われたので、日本での事前打ち合わせの時間が全くなく、商談の背景や状況もろくに知らないで飛び立った。

先ずロサンジェルスで、SDC(System Development Corporation)というコンサルタント会社の人と打ち合わた。

現地に到着したのは休日で、その夕方その会社のオフィスで待っていると、頭のはげた太っちょの男がTシャツにショートパンツ姿で現れたのには驚いた。今までサンタモニカあたりの海岸で遊んでいて、そのままの格好でやって来た様子だった。

この人は、私の製品紹介のリハーサルを聞くと、

「君が強調したいのはどこかね?」

と聞き、私が答えると、それならこういう風に変更すべきだと、改善すべき点を即座に指摘したのには感心した。

私は「プレゼンテーション技術」等あまり知らなかったが、米国ではこれが一つの重要な「技術」として認められ、「定石」がきちんと確立しているのだということを肌で感じた。

翌日この人と空港で落ち合ったが、今度は西海岸ではほとんど見たことがないダークスーツを着込んで、一分の隙もない格好で現れたのには二度びっくりした。

われわれはボストンまで飛行機で飛び、その郊外のベッドフォード(Bedford)にあるMITRE(マイター)という軍事研究所に立ち寄って打ち合わせた後、ハンスコム(Hanscome)空軍基地を訪問した。

MITREの建物の出入りは厳重にチェックされていたので、空軍基地はさらに厳重なのだろうと思っていると、門には少女のような兵隊がいて、来意を告げると、車に乗っていたわれわれをろくに調べもせず、すぐ入れてくれたのには拍子抜けした。

この空軍基地はコンピュータのソフトウェアの開発が主な仕事で飛行機は1台もないと聞いて驚いた。現代の防空の主役は戦闘機や爆撃機よりコンピュータなのかも知れない。もっともその後この空軍基地に飛行機があるという話も聞いたので、現在は変わっているのかも知れない。

この基地の建物のロビーに「Operation Theater」というタイトルが付いた世界地図がかかっていて、ところどころに印が付いていた。われわれが眺めていると、そこの人が、アラビア半島を指して、

「われわれはサウジアラビアにAWACS(Airborne Warning and Control System)の配備を終わったので次は日本の番だ」

と言う。

AWCSというのは、ボーイング747を改造した、機体の上に大きい円盤状のレーダーを積んだ飛行機を一日中飛びまわらせて敵機を監視するシステムである。この飛行機は1980年代にはサンディエゴの上空を一日中飛んでいたが、最近は軍備縮小の影響でもう飛んでいないようだ。

この空軍基地にはBadge Program Managerという肩書きの人がちゃんといた。Badgeとは日本の防空システムの名称である。

「日本の防衛計画は全世界を舞台に展開しているアメリカの軍事戦略の一環である」ということを再認識した。

「Operation Theater」という名前もそこから来たのだろう。

ここではわれわれの表敬訪問に四つ星の将軍が応対してくれた。

翌日私は同行者と別れて一人で西ドイツに向かった。

空港へ行く前にボストンの美術館に寄ってみたが、まだ早朝で開いてなかった。残念だったが、飛行機の時間に間に合わないのであきらめた。

 

 

意外と狭いコンピュータの世界

 

これは1987年に10日間ほど米国各地をまわったときの話である。

最初にオクラホマ州のタルサ(Tulsa)のTELEX社を訪問した。

ここでシアンフローネ(Cianfrone)という変わった名前の人に会ったが、この人は前にRCAのフロリダ州のパーム・ビーチ・ガーデンズの工場にいたという。私は1965年にそこに3週間いたことがあるが、この人とは初対面だった。ただスカーレット工場長とかクラインバーグ部長とかわれわれが二人とも知っている人が何人かいて話題にした。クラインバーグさんは最近亡くなったとのことだった。

アメリカのコンピュータ会社を訪問すると、知っている人の話が出て、この世界は意外と狭いものだという気になる。

この出張のときも、この後で訪問したソールトレイクシティーのビーハイヴ(Beehive)という会社で、前のITELの社長のジョン・クラーク氏が今その会社で仕事をしていると聞いて驚いた。ITELは日立のコンピュータを販売していた会社で、その社長には私も会ったことがある。

またずっと後になって、サンディエゴのMegatekという会社のチェット・ヘブ(Chet Hebb)という人と一緒に仕事をしたが、この人は前に同じサンディエゴのNCRにいたということで、私も会ったことがあるNCRのペック工場長をよく知っていた。

私の数少ない経験でも何回かこういうことがあったということは、米国ではこういうことはごく普通なのだろう。米国の会社は人の動きが激しく、そしてやはり同一業界内での移動が多いから、こういうことがしょっちゅう起きるのだと思う。

 

 

タルサのオクトーバー・フェスト

 

タルサのTELEXの工場を訪問したのは10月で、街ではオクトーバー・フェストというお祭りをやっていた。オクトーバー・フェストというのはミュンヒェンだけなのかと思っていたらこんなところにもあったのだ。

広場には移動式の遊園地が設けられ、テントの中はバンド付きのビアホールになっていた。

屋台でじゃがいものケーキを売っているのもドイツと同じだった。屋台の看板には「Potato ...」と書いてあったが、それを注文すると、屋台のおばさんが、

「これはカルトッフェル・プッファー(Kartoffel puffer)と言うんです」

と言うのには驚いた。

こんなところで屋台のおばさんからドイツ語が聞けるとは思わなかった。

私は知らないが、タルサ近辺にはドイツからの移民が多いのではなかろうか? そのため、故郷を懐かしんで毎年「オクトーバー・フェスト」を開催し、ビールを飲んで、カルトッフェル・プッファーをかじっているのではなかろうか?

 

 

 

オクラホマのコンピュータ工場

 

タルサの後、オクラホマ州のノーマン(Norman)というところに日立のコンピュータの工場があるので立ち寄った。

ハイウェーを走っていくと左側に日の丸の旗が立っているのが目印とのことだった。しかし、行けども行けども建物など全くなく、所々に昔の石油の井戸の跡が残っている。こんなところに工場などあるのかと心配になってきた。はるかかなたに日の丸が見えた時はほっとした。

この工場にも敷地の隅に石油の井戸が残っていた。

休日で工場は休みだったが、遠藤さん、八木さんに工場の中と街を案内してもらった。

この辺のアメリカ人は真面目によく働くとのことだった。

ただ、近くにエレクトロニクス関係の企業がほとんどないため、部品の現地調達には苦労しているようだった。

街ではロデオの博物館に案内してもらった。歴代のロデオのチャンピョンが使ったという見事な鞍がたくさん展示されていて、この地方ではロデオが大変重要な扱いを受けていることが分った。

 

その後ずっと経って、今から2〜3年前に、日本コンピュータ開発の高瀬社長の紹介で、ミネソタ州のローズヴィル市のダニエル・ウォール市長とお会いしたことがある。

ローズヴィル近辺は、かつてはユニシス、CDC等の工場があり、アメリカのコンピュータ産業の中心地の一つだったが、最近はシリコンバレーにすっかりお株を奪われてさびれてしまったので、企業を誘致して地域の活性化を図るのが市長さんの最大の課題のようだった。そういう目的で日本を訪問されたときに、お会いして食事をした。

ウォールさんは、ローズヴィル近辺は人件費も生活費もシリコンバレーよりはるかに安い、と盛んに強調されていた。

日立のコンピュータ会社の本社がオクラホマ州のノーマンにあるという話をすると、

「Norman、Oklahoma!!」

と大変驚かれた。その後食事中に、何回も、

「何故、ノーマンを選んだのですか?」

と聞かれた。

ノーマンが日立のコンピュータ工場を誘致するのに成功した話は、ローズヴィルの工場誘致にも参考になるに違いないと考えられたようだった。ノーマンに比べればローズヴィルの方がまだはるかに有利なので、同じ手を使えば成功するのではまいか思われたのだろう。

「実は日立の社長の人間関係からです」

と答えてやっと納得して頂いた。

どうも「Norman, Oklahomaにコンピュータの工場を設立」というのはアメリカ人に強烈な印象を与えるようだ。

日本で言えば「炭鉱が閉山して過疎化した北海道の街にコンピュータの工場を作った」という感じなのだろうか?

 

 

1杯50ドルのブランデー

 

オクラホマの工場を訪問した夜はHitachi Computer Productsの竹村社長ご夫妻にレストランに招待された。ちょうど前日日立の三田社長がご来訪され、工場の植樹等を無事済まされたところで、ほっとされていた。

食事が終わると、ウェイターが食後酒を乗せたワゴンを引いて来て、真ん中のひときわ立派な瓶を指して、

「『ルイ13世』ですけど、これなど如何ですか?」

と言う。竹村さんが、

「よし、それにしよう」

と言われるので、何も知らない私は、

「私も」

と言った。するとウェイターは驚いて、英語が一番分かりそうな石田君に小声で、

「Fifty dollars a shot.(1杯50ドルです)」

と言う。ブランデーグラス1杯が1万円近くするというのだ。

これには驚いて、私は慌てて別のにしようとしたが、竹村さんが、

「俺も飲むから、君も飲め」

と言われるので、せっかくなのでそれを頂き、

「おい、お前、エイズじゃないだろうな?」

等と言いながら、皆で回し飲みした。

「ルイ13世」を飲んだのはこの時が最初で最後だが、本当にとろけるような舌触りのブランデーだった。

 

 

夏時間の切り替えに御用心

 

翌日の日曜日の朝、次の訪問先のミネアポリスに移動するため、空港に行った。ところが飛行機が出発する時間になっても、他の乗客も来ないし、何の放送もない。はじめは何故だか分からなかったが、そのうち、今日から冬時間に変わったということが分かった。

皆分かっているからだろうが、街を歩いても、テレビを見ても、注意を促すようなものはひとつもなかった。

同行していた、米国に駐在中の木田君に、

「現地人のくせに知らないの?」

といやみを言ったが、確かに分りにくい。

 

最近日本でも、夏時間採用の話があるようだが、夏時間というのはどうもわずらわしい。

1年に2回、家中の時計の他、パソコン、自動車、ラジオ、ビデオ、カメラ等、時計を内蔵している装置の時刻をすべて変更する必要がある。

欧米ではほとんどの国が夏時間を採用しているといっても、切り替える日にちは国によって違う。

冬時間への切り替えの日だったので、1時間余計に待つだけで済んだが、夏時間への切り替えの日だったら、われわれは飛行機に乗り遅れていただろう。

夏の省エネが最大の目的とのことだが、それならいっそう、1年中夏時間にしてしまったらどうだろうか? 冬の朝、明るくなるのが1時間遅くなるが、夕方暗くなるのも1時間遅れる訳だから、電力の消費量は変わらないだろう。大体今でもヨーロッパの高緯度の国では、冬の出勤時は真っ暗で、皆車のライトを点けて走っている。

同じようなことだが、会社等の勤務時間を9時から5時でなく、8時から4時にしてしまったらもっといいのではなかろうか? この方が午前と午後の勤務時間が同じになって便利だと思う。食事の間隔も平均化されるとこの案に賛成してくれた人もいた。

明るくならないと起き出さないのに、暗くなっても、いつまでも仕事をしたり、遊んだりしているのは何故だろう? いつ頃から人間はこうなったのだろうか?

最近はコンビニエンスストアは24時間営業しているし、シリコンバレーのスポーツクラブは24時間開いているそうだ。フレックスタイムが一般化し、働きたいときに働くという時代に、夏時間は前世紀の遺物のように思えるがどうだろうか?

 

 

ピストル型の蝿取器

 

時間があると、時には買い物もした。買物といってもゴルフのボールか定番のお土産のチョコレートぐらいである。

アメリカでブランド品を買うのには皆苦労していた。

「女房にルイヴィトンのバッグを頼まれたんだけどどこへ行ったら売ってるの?」

と日立アメリカの日本人の女性に聞いていた人がいたが、答えは、

「私そういうの弱いの」

だった。彼女はブランド品離れではもうすっかりアメリカ人になり切っていた。

私も娘に、「リーボックのフリースタイルの白のXX番」という何のことか分らないとんでもないお土産を頼まれて、買物をする時間もなく、結局駐在していた人の奥さんの手を煩わすことになってしまったことがある。

ブランド品を買うなら、大きいデパートか空港の免税店が無難のようだが、それでも日本に比べればはるかに品数が少ない。

買物はブランド品より雑貨の方が面白い。

欧米の人は、手先が器用でないのを道具でカバーするためか、実にいろいろな道具を売っている。

リンゴの芯を抜き取るためだけの道具、いっぺんにリンゴを6片に切るためだけの道具、ゆで卵を湯から取り出すためだけの道具、等々、ひとつのことにしか使えない道具を実にいろいろ売っている。

こういう道具を見ていると、欧米の人は元々不器用だった訳ではなく、道具が発達し過ぎたために不器用になってしまったのかも知れないと思う。箸だけで何でも食べる民族と肉、魚、スープ、コーヒー、アイスクリーム、果物それぞれに専用のナイフやフォークやスプーンを用意している民族の差は大きい。

ある時雑貨屋で、ピストルの形をした蝿取器を見つけた。ピストルの先に直径10センチ位のプラスチックの円盤が付いていて、引き金を引くとゴムの力で円盤が飛んで行き、蝿を叩き落とすのである。円盤には空気抵抗を減らすために同心円状にスリットがついていて、また飛んで行ったものを取り戻しやすいように糸がついていた。

さすがはピストルの国と思って感心し、早速買って帰ってわが家で使っていた。アメリカから買って帰った雑貨の中では一番実用になった部類である。

女房はアメリカへ行く度に変なものを買ってくるとあきれている。

 

 

先ず「足」と「飯」と「買物」

 

1995年に仕事でサンディエゴにあるMegatekという会社に私を含めて総勢8人で出かけることになった。目的が技術習得だったため、必要な期間がよく分らず、長い人は1〜2月かかるかも知れないと思っていたが、結局一番長い二人は1ヶ月半になってしまった。

私の他は、1年間ホームステイをしたことがある女性を除き、皆アメリカに仕事で行くのは始めてだった。

出発前に、仕事の準備もさることながら、まず現地でちゃんと生活できるようにすることが先決と思った。

まず一番の問題は「足」である。Megatekの工場はサンディエゴから車で1時間位北の方へ行ったランチョ・バーナードというところにあり、レンタカーの他には全く交通手段がないところだった。「足」がなければ仕事にも行けず、食事も買物もできない。

アメリカで多少でも運転経験があるのは私だけだった。8人で移動するには、レンタカーが最低2台、運転手は予備も含めて4人必要と考えた。

出張者に、日本での運転暦、いつも乗っている車種、アメリカでの運転の意思等を確認して、私の他3人に国際免許証を用意してもらった。

ただ、到着当日に、はじめてのアメリカでいきなり運転してもらうのはちょっと危険が多すぎると思ったので、到着した日は、無理をお願いして、先方の会社の人に出迎えに来てもらい、次の日からレンタカーを借りることにした。

しかし、空港以外でレンタカーを借りるのは非常に難しく、次の日も先方の会社の人に遠くのホテルのレンタカーの事務所まで同行してもらうことになってしまった。

 

「足」の次は「飯」である。飯を食べなければ仕事にならない。そうかと言って、毎日ホテルのレストランではいやになってしまうし金もかかる。

これには、Megatek社に日本から駐在していた人が、周辺の詳しいレストランマップを用意してくれたので大変助かった。

これを便りに毎日、今日はステーキ、今日はイタリアン、今日は和食、という具合に食べ歩いた。

日本料理屋は二極分化していた。日本人が入ってない店は「日本風アメリカ料理」で、量は多いが食べられたものではなかった。日本人が大勢入っている店ではだいたい本物の和食が食べられた。

コンボイ(Convoy)という通りの「Tajima」等は、一歩店に入ると飛び交っている言葉も出てくる食べ物も全く日本そのもので、アメリカにいることを忘れてしまう程だった。それでもアメリカ人の「通」が時々食べに来ていた。

アメリカが始めての人にサラダのドレッシングの頼み方やチップの置き方を教えた。私も昔は教えてもらったり、失敗したりしたものだ。

アメリカで食事をするとき、難しい問題は酒をどれくらい飲んでいいかだ。

アメリカでも飲酒運転は禁止で、最近は昔より取り締まりも厳しくなっているようだ。しかしわれわれから見ると、皆かなりの量のワイン等を食事のときに飲んで、自分で車を運転して帰る。

アメリカ人にもこれは負担らしく、

「日本で食事をする時は、帰りに運転しなくていいから助かる」

と言っていた人もいた。

アメリカ人並みのことをしている現地の日本人も多いが、日本人は平均して彼らより酒に弱いので心配だ。

われわれは車の運転当番を決めて、当番に当たった人はせいぜいビール1本(と言ってもアメリかには小瓶しかない)程度にすることにした。運転手を4人も用意したのはこのためもある。

 

「飯」の次は「買物」である。これも現地に駐在していた人に店を教えてもらって、足りなくなった日用品等を買い足した。

「足」と「飯」と「買物」の目処がついて、これで仕事にかかれるとひと安心した。人間、仕事より生活が先である。

 

服装は、西海岸の会社なので、カジュアルで通すことにした。Megatek社では普段は社長以下みんなラフな格好をしていた。

ただ初日と夕食に招待された時のために一応スーツも持って行った。しかし、出張中にスーツを着たのは初日だけだったと思う。

スーツとカジュアルの使い分けもなかなか難しい。この会社でも東部から来た人との正式な会議の日には皆スーツを着て来て、一人だけいつものラフな格好で来た日本人が気まずい思いをしていた。

「カジュアル」といっても「いい加減」ということではなく、彼らなりに気を使っているのだなと思った。

秘書の女性は金曜日にはショートパンツ姿だった。毎日カジュアルなのだが金曜日は「more casual」なのだそうだ。

ある日、ホテルのレストランに朝食に行くと、同行者の一人がTシャツに半ズボン、素足に運動靴という格好で飯を食っていた。

「お前の格好はカジュアルじゃなくてベトナム難民の格好だ」

と注意したが、この辺の使い分けがなかなか難しいようだ。

 

 

手作りの蒸気機関車

 

Megatekにはケヴィン・エメリー(Kevin Emery)という人がいた。この人はハードウェア設計のマネージャだった。

この人が日本に来て、いっしょに食事をした時、趣味の話になった。

「私は模型の蒸気機関車を作ります」

と言うので、

「部品は買ってくるのですか?」

と聞くと、

「全部自分で作ります。1フィートを1.5インチに縮小した図面を描いて全部作ります」

「蒸気エンジンも作るのですか?」

「はい、そうです」

「そのためには、旋盤とか溶接機が要るでしょう?」

「自宅に小さいものを持っています」

「客車や貨車も作るのですか?」

「はい、そうです」

という具合で、全く驚いてしまった。帰宅後とか休日に少しずつ作り、何年もかけて完成するのだそうである。

作ったものはどうするかというと、サンディエゴの郊外のチュラ・ヴィスタ(Chula Vista)というところの公園に、同好者と共同で鉄道の線路を敷いてあって、休日にはそこへ持って行って走らせるのだそうである。そこのウェブサイトがあるというので、教えてもらって写真を見たが、駅あり、鉄橋あり、トンネルあり、まさに本物通りで、自作の汽車を持ち寄って走らせている。家畜運搬用の貨車には牛や豚の模型(?)までちゃんと乗せている。

 

どうもアメリカ人の趣味はわれわれと桁が違うようだ。

学生時代に先生が、

「アメリカでカメラが趣味だと言うためには、最低30台ぐらいカメラを持ってないといけない」

と言っていた。

ヒューレット・パッカードのジョージさんは普段は朝早くから夜遅くまで働く猛烈ビジネスマンだが、スキーが好きで、冬にはスキー旅行のために毎年1ヶ月ぐらい休むと言っていた。

こういう話を聞いた上で、

「あなたの趣味は何ですか?」

とアメリカ人に聞かれて、自信を持って答えられる日本人ははたしてどれだけいるだろうか?

 

 

スポケーンの博物館

 

これは去年(1998年)ワシントン州のスポケーン(Spokane)に仕事で行った時の話である。

スポケーンはワシントン州の東の端にあり、車で東に30分も行くとアイダホ州に入ってしまうところにある。スポケーンというのはインディアンの種族の名前で、ここは19世紀までは彼らが平和に暮らしていたところのようだ。

仕事の空き時間に、博物館に行ってみた。この地方に住んでいた人達の歴史が展示されていた。

19世紀の半ばまではインディアンの時代である。

何故インディアンが滅んだのか、酋長の話が掲示されていた。

「白人が来てわれわれに鉄砲を売りつけた。弓矢より鉄砲の方が猟に便利なので、われわれはそれを買って使うようになり、若い者は弓矢の使い方を知らなくなってしまった。そうしたら、白人はわれわれに鉄砲の弾を売らなくなった。われわれは猟をして食べることも、白人と戦うこともできなくなって滅びた。白人のやり方は汚い」

なるほど、そういうことだったのか、と思った。しかし、こういう話を堂々と博物館に掲示したのは白人だろう。過去の悪行(?)に対する征服者の反省も多少はあるのだろうか?

 

この博物館の展示で面白いのは、インディアンの狩猟生活の展示が終わると、次は19世紀後半のミシン等の機械製品や初期の電気製品の展示になることである。新石器時代からいきなり19世紀になり驚いてしまうが、スポケーンに住んでいた人の生活をずっとたどると確かにこうなるのだろう。

 

 

スポケーン山へドライブ

 

スポケーンで半日時間があった時、どこか景色のいいところへ出かけようと同行者二人とレンタカーで出かけた。

訪問先の人が、スポケーン山(標高約1,800m)がこの辺では一番高く、見晴らしがいいと言っていたので、行ってみることにした。

レンタカーに付いている地図しかなく心もとなかったが、距離は30マイル位と思われ、スキー場もある有名な山と聞いていたので行けば分るだろうと思って出かけた。

ところが山道をいくら登って行ってもなかなか山頂に出ない。山頂までの距離を示す標識も全然ない。人に聞こうにも、ドライブインの類はおろか、人家も全くない。

途中の空き地に車を止めて、どうしようかと思っていると、近くの家から子供だ出てきたので、

「頂上まで後どれくらい?」

と聞くと、

「5、6マイル」

と言う。

それならたいしたことはないと思ったが、何せ小さい子供の言うことなので、信じていいか分らず、午後も遅くなっていたので引き返すことにした。

するとたまたまトラックが1台その空き地に来て止まったので、運転手に聞くと、

「あと5マイル。頂上は景色がいいよ」

と言う。

子供の言うことは正しかったのだ。5マイルならたいしたことはないから行ってみよう、と頂上まで行ってみることにした。

しかしそこから先は、舗装はされていたが、狭い曲がりくねった山道で、ガードレールもセンターラインもなく、カーブにさしかかると前は空しか見えないような道だった。

頂上にはわれわれの他誰もいなく、素晴らしい景色を独占できた。この山はこの辺で一番高いため、四方が見渡せた。

ここからは5つの州が見えるとのことだった。足元のワシントン州の他、アイダホとモンタナ、それとカナダのブリティッシュ・コロンビアとアルバータである。

湖がたくさん見え、湖の名前を書いた金属の筒が山頂の周りに設けられていて、その筒から覗くとその湖が見えるようになっていた。これで、遠方の小さい湖の名前までちゃんと分り、金をかけないうまい仕掛けだと思った。

とにかく空いていた。登ってくる時もほとんど車とすれ違わなかったが、下る時に数えていたら山麓までにすれ違った車は5台だけだった。追い越したり、追い越されたりは全くなく、前も後ろも全く他の車を見かけることはなかった。

しかしこれは善し悪しである。もし故障や事故が起きたらどうなるのだろう。下手すれば山の中で凍え死ぬのを待つしかなくなる。

用心深い人はアメリカでこういう山へ行く時は1台で充分でも2台に分乗して行くのだそうである。確かに万一のときのことを考えるとその方が安全だろう。

 

 

ゲートひとつで天国と地獄 ―― ティフアナ

 

次はアメリカではなく、メキシコの入り口の街ティフアナ(Tijuana)の話である。

私は今までにサンディエゴに5回行ったが、そのうち3回ティフアナへ行った。ここはメキシコの国境の街で、サンディエゴの中心地から車で30分もかからない。

最初に行ったときは、国境を越えるときに、パスポートを持っていることを再確認するよう同行者に言われた。

アメリカからメキシコに行く時は、遊園地の出口にあるような鉄パイプのゲートを押すと誰でも行ける。アメリカの出国もメキシコの入国も全く自由だ。

ところがメキシコからアメリカに帰る時は、アメリカ側で厳重な入国審査がある。メキシコ人の密入国者が多いので検査が厳しい上に、休日の夕方にはアメリカ人の観光客が一斉に帰るので、大変な混雑になる。

いずれにしても、うっかりパスポートを持たずにティフアナに行くと帰れなくなってしまうのだ。

 

始めて行った時は驚いた。ゲートをくぐると全くの別世界なのである。

道路脇には年寄りから子供まで、乞食がいっぱい座り込んでいる。しかし「まじめ」に乞食の商売をしているのはまだいい方で、何もしないでただぼんやりと座り込んだり、寝転がったりしている者も多い。

街に入ると脚のない人、腕のない人が目に付く。

走っている車は、よくこんな車がとってあったと思う、30〜40年前のアメリカの車である。

観光客相手の店屋がたくさんあるのだが、その商売がまたすさまじい。同じような品物でも付いている値段は全くバラバラで、誰も値札通りの値段で買わないから、値引き交渉が大変だ。

30ドル位のベルトを何軒かで見つけて、

「10ドルにしてくれ」

と言うと、

「店の中で相談しよう」

と言うものから、

「(日本語で)ケチ!」

と怒り出す者までいて面白い。同じようなベルトに50ドルの値札を付けている店があったので、これは到底だめだと思って通り過ぎようとしたら、どこまでもしつこく追いかけて来るので、

「10ドルにしたら買う」

と言うと、最後には10ドルでいいと言われて買ったことがある。

いったいここの商売はどういうことになっているのだろうか。こっちも買物というよりゲームを楽しんでいるようなものだ。

この街では、価格の表示も支払いも全てドルである。但しちゃんとした店でクレジットカードで買物をすると、値札はドルなのに取り引きはメキシコの通貨のペソ、そして日本での決済は円という非常にややこしいことになる。

 

(完)

1999年8月 (第1版)


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