酒 井 寿 紀
目 次
日立に入社して1年経った、1965年の5月に、1ヶ月間アメリカへ行った。私にとって、はじめての海外出張で、何から何まで新しい経験だった。
当時は今のように誰でも彼でも気軽に海外に出張する時代ではなかった。海外出張と決まると、旅行会社の若い女性が出発までつきっきりで面倒を見てくれるという、古きよき時代だった。まだ「外遊」等という言葉が生きていた。
以下はその時の、主として仕事以外の思い出話である。何せ32年も前の話なので、記憶違いがあったらご容赦願いたい。
日立に入社して1年経った、1965年の4月下旬のある月曜日の朝、いつものように眠たい顔をして会社に着くと、私の主任だった豊沢さんが、
「おい、酒井君、大変だ。とにかく1日も早くアメリカへ行ってくれということだ」
と言う。私は唖然として、
「一体何事が起きたんですか?」
と聞くと、
「ある電力会社から次期コンピュータの提案を求められた。それはIBMの大型機に対抗できるものでなければならないということだ。われわれはそういう製品を持ってないので、技術提携先のRCAから大型機を買って納めるしかない。ということで、RCAの大型機の調査に、大阪営業所の水野主任が出張することになったのだが、誰か技術の分かる者が同行する必要がある。ところがあいにく関係者は皆RCAとの共同開発でフロリダへ行ってしまっていて、残っているのは君ぐらいしかいない。そこで君に行ってもらいたいということだそうだ」
という話だった。
IBMは前年の64年の4月に360シリーズを発表し、各社はそれの対抗機種を開発中だった。
こうして私は急遽アメリカに出張することになった。
私はもちろん海外に行ったことがなかったので、パスポート等持っていなかった。また当時はビザも必須で、アメリカのビザを取るためには、米国大使館で面接を受けなければならず、その上、海外に出かけるためには、予防注射もする必要があった。
これらを最短の日程で済ましてくれという。
先ず、新丸ビルの文書課に行き、パスポートが大至急必要になった理由を書いた書類を作ってもらった。どう書いたらいいのか、みんなよく分からなかったが、だいたいこんなことを書いておけばいいんじゃないかと言って、作ってもらった。
そうしているうちに、旅券事務所が閉まる時間が近づいてしまった。
私の海外出張の手続きを世話してくれることになった、当時の「日立エアサービス」の、高橋さんという、色白ですらっとした女性が、
「これから旅券事務所まで走って行きましょう」
と言って、二人で、新丸ビルから、今の交通会館の所にあった、旅券事務所まで走って行ってやっと間に合った。
「以前は特急で頼むとすぐ作ってくれたんですけど、外務省がコンピュータを入れてから、融通が利かなくなって、不便になりました」
と彼女は言っていた。
外務省は日立のコンピュータを使ってくれていたので文句は言えなかった。
ところがここにまた問題があった。
65年は64年の東京オリンピックの後の不況で、春闘が5月の連休までなだれ込んだ年で、4月下旬には1日おきぐらいに国鉄がストで止まっていた。ストの合間を縫って、米国大使館、予防注射の病院等を高橋さんと駆けずり廻った。
米国大使館ではアメリカ人の女性の面接を受けた。
「技術提携の話をすると話が面倒になるから、ものを買いに行くことにしておいて下さい」
と高橋さんに言い含められて、その通りに言ったら、ビザも問題なく取れた。
こうして何とか1週間で手続きを済ませ、次の日曜日に水野さんと一緒に羽田を飛び立った。当時は成田の空港はまだなかった。
そんな訳で、買い物などしてる時間はまったくなく、スーツケースは私の課長だった藤中さんに借り、出張中の薬は羽田で受け取るという慌ただしさだった。
こうしてアメリカのニュージャージー州チェリーヒルにあるRCAの事務所に着いたが、目当ての大型機はまだ開発中とのことで、
「あなた方に渡せる資料は何もない」
と言われ、当初の出張目的はまったくの空振りに終わってしまった。
RCAのフロリダの工場で中型機の共同開発に従事していた高橋 茂さん、浦城 恒雄さんがわれわれを助けに来てくれたがどうすることもできなかった。
われわれの受け入れの担当者はウォラーさんという軍人上がりの老紳士だったが、非常に恐縮してくれて、
「電力会社の商談なら、アメリカの電力会社を紹介しましょうか」
と気を使ってくれたが、われわれの仕事に役に立ちそうもないのでお断りした。
高橋さんに、
「このまま帰ってもしょうがないから、フロリダの共同開発チームで少し手伝って行ったらどうか」
と言われ、1週間でチェリーヒルを離れ、フロリダに行くことになった。
まだコンピュータ事業の立ち上げの時期で、今にくらべれば、仕事の進め方も荒っぽかった。
休みの日に一日、浦城さんに案内してもらって、水野さんとニューヨークに行った。
セントラルパークとエンパイアステートビルに行き、ラジオシティでショーを見るという典型的なお上りさんコースだった。
途中、近代美術館に立ち寄ったが、初めて印象派の有名な絵の「本物」を見ることができ、そのコレクションの質の高さに大変感心した。
ずっと後になって、このコレクションが日本に来たとき、再度の感動を求めて上野まで出かけたが、もう前の感動はなかった。ヨーロッパでもっといいものをずいぶん見たためだろうか? 本当にいいものは日本に来なかったためだろうか? 多分両方だろう。
65年にニューヨークに行った話を、その後アメリカ人にすると、
「当時のニューヨークはよかった。今はすっかりダメになった」
と言われた。それ以来ニューヨークには行ってないので、何がどうダメになったのかは分からないが、とにかく物騒な街になったようだ。もっとも当時から地下鉄と夜のセントラルパークは危ないと言われていたが。
フロリダのRCAの工場はパーム・ビーチ・ガーデンというところにあった。避寒地として有名なウェスト・パーム・ビーチの北隣りの小さな町だった。
そこで、2〜3ヶ月前からRCAと日立による中型機の共同開発が始まっていた。
開発メンバーは、確かRCAが4人、日立が5人と秘書の女性と製図担当者だった。
日立のメンバーは、高橋さん、浦城さんの他は、萱島 興三さん、大野 泰廣さん、内田 頼利さんであった。
スペースがなかったため、トレーラーを工場に横付けにして、その中でこれだけの人が仕事をしていた。トレーラーと言っても、エアコンもトイレもついていて、中は快適だった。
「ここで少し仕事を手伝って行け」
と高橋さんに言われて、10進演算命令のマイクロプログラムのコーディングを手伝った。
仕事をするためには座る場所を作らねばならない。その為机の配置を変えようとしたら、
「勝手に机を動かしちゃ駄目だ」
とRCAの人に言われた。
机の移動の担当者はちゃんと決まっていて、勝手に動かすとその人達の仕事を奪ってしまうから、ユニオン(労働組合)との取り決めで駄目なんだそうだ。なんと不便な国だろうと思った。職能別組合の世界の一端を伺うことができた。半日待ってやっと机を希望の位置に動かしてもらうことができた。
トレーラーの中では、コンピュータの基本設計の真っ最中であった。
言葉の問題、考え方の違いで、意思の疎通に苦労をしているようだった。
RCA側の責任者はダン・ニールソンという西部劇にでも出てきそうな大男だった。ある時、われわれの仲間は、
"Your English is getting better and better. Our English is getting worse and worse." (君たちの英語はうまくなった。俺達の英語は下手になった)
と言われたということだった。
外国人の変な日本語に合わせていると、こっちの日本語もだんだんおかしくなってしまうことはよくあることだ。
ダンは口の悪い人だったが、アメリカでの仕事にはジョークが不可欠だということも教えてくれた。
後日、ダンが日本へ来て一緒に食事をした時に、何かジョークを言ったのだが、日本人は誰も分からなかった。すると、
「こういうのはどうだ」
と言って、
「ある図書館に毎週分厚い本を何冊も借りて行く男がいた。図書館の人が、本当に全部読んでいるんだろうかと思って、ある時、借りて行く本の中に電話帳を入れておいた。次の週、その男が本を返しに来たとき、『あの本はどうでしたか』と聞くと、『そうねえ、登場人物が多すぎ、プロットが弱かったね』」
こういう「たわいもない」ジョークをたくさん知ってないとアメリカでは駄目なようだ。
共同開発チームには、チャック・キャンベルという人がいた。みんなが作った設計資料を集めてまとめるのがこの人の仕事だった。「ドキュメントを渡せ、渡せ」と毎日言っていた。たいした仕事とも思えなかったが、こうしてドキュメントがだんだんたまると、何となく設計ができてしまうという具合であった。
アメリカ式のドキュメンテーション中心の仕事の進め方をはじめて体験した。さすがドキュメントだけが頼りのジョブホッピングの国と思った。
ドキュメントと言えば、秘書のリンダの仕事ぶりにも感心した。アメリカでは当たり前なのだろうが、汚い手書きのメモを渡すとたちどころにきれいにタイプしてくれた。
もちろん当時はパソコンなど影も形もなかった。しかしこういうキーボード文化が下地にあったのだ。その後パソコンがアメリカで急速に発達したのもうなづける。
当時のRCAの工場長はスカーレットという人だった。
しばらく滞在するということで挨拶に行くと、
「来年は日本にもあるかも知れないが、今は絶対にないものをあげよう」
と言って、ケネディー・コインをくれた。ケネディー大統領が暗殺されたのは2年前の1963年で、当時は記念の50セント・コインが発行されたばかりだった。
「日本人は何でもすぐ真似する」
と言いたげな顔だった。しかし、まだそう言われてもしかたのない時代だった。
この工場長が、ある時自宅でパーティーを開き、われわれを招待してくれた。
湖に面した家で、息子がモーターボートに来客を乗せて案内してくれた。
奥さんの気の使い方は大変なもので、アメリカでえらい人の奥さんになると大変だと思ったものだ。同行の一人がちょっと飲み過ぎて、車の運転が危ないと見ると、ちゃんとRCAの人に運転させてホテルまで送り届けてくれた。
RCAの工場ではミチコさんという日本人の女性が働いていた。アメリカ人と結婚してこっちに住んでいるということだった。
この人に会いに行こうと、一緒に仕事をしていた人と現場をうろうろ捜していたら、顔見知りのRCAの人に見つかってしまった。その人は、
"I can read your mind."
と言って、ミチコさんのところへ連れて行ってくれた。
日本人のまったくいない土地で生活しているわけで、日本の女性のたくましさを改めて感じた。彼女は久しぶりで日本語が使えて嬉しそうだった。
こうして私は、3週間の間トレーラーの中でコンピュータの開発を手伝い、アメリカの会社の仕事のしかたの一端に接することができた。
その後の私にとって貴重だったのは、RCAの人達には申し訳ないが、
「アメリカの一流のコンピュータメーカのエンジニアといってもそんなにたいしたことはない。これならわれわれでも充分太刀打ちできる。場合によったら打ち負かすことだってできるかも知れない」
という率直な印象だった。
IBM社が前年に発表した360シリーズの技術資料に圧倒され、すっかり自信を失っていた私にとって、これは極めて重要なことだった。もしこの自信回復がなかったら、その後のコンピュータの開発に自信を持って立ち向かうことはできなかっただろう。
RCAは1971年にコンピュータ事業から撤退してしまった。当時一緒に仕事をした人たちはその後どうしたのであろう。今では多分もうほとんどの人は引退してしまったのだろうと思うが。
ずっと後の話になるが、87年にテレックスのタルサ(オクラホマ州)の工場で当時RCAのパーム・ビーチ・ガーデンの工場にいたシアンフローネという人に会った。私はこの人とは直接面識はなかったが、共通の知人の話が出て非常に懐かしかった。
アメリカでは時々思いがけないところで旧知の人に会ったり、話を聞いたりすることがある。その度に、コンピュータの世界は意外と狭いものだなと思う。
私は、ニュージャージーに1週間ぐらい滞在するつもりで日本を出てきたので、日本の5月頃の衣類しか持ってなかった。ところがフロリダはもう完全に日本の真夏の気温だった。そのため、フロリダに着くと最初に車でスーパーに連れて行ってもらって、夏用のシャツとズボンを買った。ついでに水泳パンツも買った。
RCAとの共同開発のメンバーは「トロピカル・アイル」という、台所、家具、食器つきのホテルで自炊していた。私もそのメンバーに加えてもらい、一緒に自炊したり、外に食べに行ったりした。
掃除のおばさんが、私の部屋の窓から入江越しに見える家を、
「あれがケネディーの別荘です」
と教えてくれた。対岸はパーム・ビーチだった。この辺は東部の金持ちが冬場に長期滞在するところで、5月は完全にシーズンオフだった。
RCAの工場ではみんなあまり残業などせず、定時になるとさっさと帰った。そのため、われわれだけ日本流に夜遅くまで残業するのは何となく抵抗があり、彼らの流儀に従って早く帰っていた。夏時間のため、日はまだ充分に高く、毎日のようにホテルのプールで泳いだりシャッフル・ボードという遊びをしたりしていた。
われわれはレンタカーを2台借りて、通勤や買い物に使っていた。車無しにはまったく動きの取れないところだった。
私はどういうわけか日本の免許証を持ってきていた。こんなものを使うつもりはまったくなかったのだが、たまたま財布に入っていたのだろう。何せ大慌てで日本を飛び出したので財布の中身まで日本にいたときと同じだったのだと思う。
われわれは6人いたが、当時車の運転ができる人は2人だけで不便だった。そこで警察に電話して、
「日本の免許証を持っているのだが、運転できませんか」
と聞いてみた。すると、
「そういう話はハイウェイパトロールが担当だ」
と教えてくれた。そこで聞くと、
「お前は何をしに来たんだ」
と聞くので、
「RCAで仕事をしている」
と言うと、
「それならアメリカの免許を取れ」
と言う。そこで、
「いや、 "just visiting" なんだ」
と言うと、
「それなら日本の免許証で運転していい」
と言われた。
仮の国際免許のようなものでも発行してもらえないかと思って電話したのだが、そんなものはないと言う。
しかし交通違反でもして捕まったらどうなるのだろう。日本の免許証には日本語しか書いてないので、免許証だか会社の従業員証だかも分からないではないか? 心配したが、後で聞くと、旅行者は免許証なんかなくても運転できるとのことだった。観光地なので、ヨーロッパ等からの観光客のためにそうしているらしい。とにかく、大人で免許証を持ってない人など一人もいないという土地なので、免許証は持っているのが当たり前で、たいして重視しないようになってしまったのだろう。
日本とは大変な違いで、驚いたものだ。
フロリダ州の東海岸には、「Sunshine State Parkway」という自動車専用道路が南北に走っていた。「Sunshine State」とはフロリダ州のニックネームである。
当時は、日本では「名神高速道路」ができたばかりで、まだ「東名」はできてなく、われわれには自動車専用道路は大変珍しかった。
当時のアメリカの高速道路は、オイルショック前で、制限速度は時速70マイルだった。これに喜んで、スピードを出しすぎ、パトカーに追いかけられて捕まった人もいた。
「トロピカル・アイル」の管理人には、ダイアンとリンダという、20歳と16歳の娘さんがいた。普段は別の所に住んでいたが、しょっちゅう遊びに来ていた。
われわれの中には、彼女たちを追いかけ回したり、からかいすぎて怒らせてしまったりした人もいたが、彼女たちは、いとも気軽に、" You are cute." (日本語で「あなたはかわいい」と言うと妙な感じだが)とか言って寄って来るので、扱いかねて逃げ回っていた人もいた。
彼女たちは二人ともよくタバコを吸っていた。RCAの人たちは、いつもパイプをくわえていた一人を除いて、誰もタバコを吸わなかった。「アメリカではタバコは女子供が吸うものか」と思ったものだ。当時は、今のように、どこもかしこも禁煙というわけではなかったが、もうすでに喫煙の習慣はすたれつつあった。
彼女たちは、タバコを取り出してくわえても、絶対に自分では火をつけなかった。一緒にいる男が火をつけてくれるまで待っているのには、「さすがはアメリカの女」と感心したものだ。当時は私もタバコを吸っていたので、「口移し」ならぬ「タバコ移し」で火をつけてあげる「 kiss of fire」というお遊びを教えてあげた。一人にしてあげると、もう一人が「私にも」と寄ってきた。
二人ともタバコはよく吸っていたが、酒は飲まなかった。自分たちが飲まないだけでなく、私にもなかなか飲ませてくれなかった。飲もうと思って部屋に置いてあったウイスキーの瓶を隠されてしまったこともあった。
「酒を飲んではいけません」
と言われた。「酒は悪」という考えが行き渡っているような気がした。酒と言っても食事の時のカクテルやワインは別だが。
二人とも、あけっぴろげの、明るいフロリダ娘だった。
休みの日には洗濯をする必要があった。洗濯は近くのコインランドリーでしていた。
できるだけ効率を上げるために、着ているシャツまで脱いで、いっしょに洗濯機にかけ、洗い終わるまで下着一枚で道路のベンチで雑誌など見ていた。するとアメリカ人がやってきて、
「われわれ独身者は大変だね」
と、握手を求めてきた。
また車が寄ってきて、
「ホリデイ・インはどこですか」
と聞かれたこともあった。当時はキューバの革命からまだ日が浅く、フロリダにはキューバ難民が多かった。多分われわれは現地に住み着いたキューバ難民とでも思われたのではなかろうか。
食べ物では、この時初めてグレープフルーツを食べた。当時の日本では、少なくとも普通の果物屋では、これはまったく売ってなかった。なんとうまい果物だろうと思った。現在に至るまで、海外で食べた果物で、日本のものよりよりうまいと思ったものはこれだけである。その後日本でも、どの果物屋でも買えるようになり、今は日本で食べるものの方がうまい位になった。一般に果物は日本の方が上のようだ。
もうひとつうまかったのはアイスクリームである。今でこそ日本でもいろいろな種類のアイスクリームがあるが、当時はバニラとチョコレート位しかなかった。ところがアメリカのレストランで「アイスクリーム」と頼むと、「何とかナッツ」とか「何とかベリー」とか、立て続けにペラペラと10種類位まくしたてられて、「どれにしますか」と聞かれ、驚いたものだ。いろいろ試してみたが、ナッツ入りが気に入って、こればかり食べていた。
休みの日に、車2台に分乗して、エバグレーズ (Everglades) 国立公園へ行った。これはフロリダ州の南端にある、日本の四国くらいの面積の一面の湿地帯 (Swamp)で、その中を道路が1本走っているというところだった。途中で車を止めて、湿地帯に架かった橋から下を見ると、ワニが草陰から何匹も顔を出していた。
先端のフラミンゴという町からの帰り道は私が運転した。行けども行けども一直線の道で、道路が地平線に消えるところが、蜃気楼でゆらゆら揺れて、水のように見えた。こういう道を連続して1時間も運転していると、頭がおかしくなりそうだった。
マイアミには2回行った。ダイアンとリンダと遊びに行った時と、帰国時に立ち寄った時である。
ウェスト・パーム・ビーチからマイアミまでは車で2時間位だったろうか。ダイアン、リンダと行った時は、マイアミで他の同行者と別れて、3人で飛行機で帰った。飛行機といっても、切符売り場の窓口で切符を買って、すぐ乗り込むという、田舎のバスのようなプロペラ機だった。
帰国時はアメリカーナというホテルで1泊した。後で「ゴールド・フィンガー」というジェームス・ボンドの映画を見ていたら、このホテルが出てきたので驚いた。ゴールドフィンガーが泊まっていたマイアミのホテルはここだ。
ここに1泊した後、飛行機の時間までに余裕があったので、ホテルのプールで泳いだ。こういう高級ホテルに泊まっているのはだいたいお年寄りで、若い人はほとんどいなかった。そういう点ではあまり景色がよくなく、面白くなかった。
ホテルのプールで年輩の女性に、
「どこから来たんですか」
と聞かれ、
「日本です」
と答えると、
「ラフカディオ・ハーンを読んだことがあります」
と言われた。当時は彼らにとって日本はまだそんな存在だった。
ホテルのエレベータではボーイに、
「ホンダとヤマハとどっちがいいんですか」
と聞かれた。日本製品の輸出は、二輪車がやっと始まった時期だった。日本の乗用車はまだまったく走っていなかった。オイルショック前で、アメリカの車は平均して今よりずっと大きく、向こうから米粒のように小さい車が走ってくると思うとフォルクスワーゲンだった。
フロリダに3週間いたが、新聞でもテレビでも、日本のニュースはまったくなかった。アジアのニュースさえほとんどなかった。ただ1回私が見たのは、「中国が核実験実施」という新聞記事だった。アジアのニュースがフロリダの新聞の1面に出るということは、私が今でも覚えているくらい珍しいことだった。
ニュージャージー州で1週間ぐらいの予定だった出張が、フロリダの3週間と合わせて、合計4週間になってしまった。
「Sunshine State」のマイアミから、シアトルで乗り継いで、長い長いフライトの果てに、一人で日本に帰ってくると、羽田はじとじととした雨だった。日本はもう梅雨に入っていた。別世界から戻ってきたような気がした。
その後アメリカと日本の関係もまったく変わってしまった。アメリカのどこへ行っても、日本車が走り回り、寿司屋とカラオケがある。当時ではまったく考えられなかったことだ。
コンピュータの世界もまったく変わった。当時は「白雪姫と7人のこびと」と言われ、IBMに対抗して7社が競い合っていたが、このうち、GE、RCA、ハネウェル、バロース、CDCはなくなってしまい、残っているのは、IBMの他は、ユニシス(当時のユニバック)とNCRだけである。この2社も汎用コンピュータからは撤退してしまい、システム事業で生き延びている。そういう意味では「7人のこびと」は全滅である。
一方当時はIBMに追いつくこと等夢のような話であった日本のメーカのコンピュータが全世界に輸出されて使われている。まさに隔世の感がある。
私にとっては、出発前の1週間も含め、振り回されっぱなしの5週間であったが、実に貴重な体験であった。
[関連記事]
(1) 酒井 寿紀、「36年振りのフロリダ」、「Pen.友」第29号、2003年4月
(当時のフロリダ駐在のメンバー8人全員が、2001年に36年振りで現地を再訪した話)
(完)
1997年5月(第1版)
1999年7月(第3版)
2017年8月(第4版)
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