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三度あることは四度ある

トラブル続きの海外出張

酒 井 寿 紀

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目     次

はじめに

太平洋上から引き返す

出張中にパスポートが期限切れ

ローマで戸籍抄本を要求されて

フランクフルトで危うく宿なしに

おわりに


は じ め に

 1981年から1982年にかけて4回海外出張したが、どういう訳か4回ともとんでもないトラブルに巻き込まれてしまった。未経験、不注意のための失敗もあり、お恥ずかしい限りだが、こんな話もあるのかと参考にして頂ければと思う。

  今でこそ懐かしい思い出だが、当時は本当に青くなったこともあった。


太平洋上から引き返す

 最初のトラブルは81年9月のことだった。松岡君と一緒にNAS(National Advanced Systems)を訪問するため、成田からサンフランシスコ行きのJALに乗った。乗ってから1時間半位たって、カクテルも飲み終わり、これから食事が配られるという時、機長の放送があった。

 「第4エンジンの調子がおかしいので、まだ先が長いため、当機は成田に引き返すことにします」

  とのこと。飛行機は旋回を始め、ステュアデスは食事の支度を取りやめ、みんなシーンとなってしまった。

 こうなるといろんなことを考え出す。

 「サンフランシスコまでは東回りだと9時間ぐらいだ。もう既に1時間半位飛んでいる。ということはこのまま飛べばあと7時間半位で着くはずだ。成田に戻るのにも1時間半かかる。後7時間半飛ぶのが危ないということは、後1時間半飛んで成田に戻るのも5分の1位は危ないのではないか?」

 また思う。

 「大体われわれの会社でも事故の話をまともにそのままお客に話すことは少ない。第4エンジンの調子がおかしい、ということはエンジンが三つぐらい止まっているのではないか?」

 そう思うとエンジンの音がだんだん心細く聞こえだす。

 しばらくたつとまた機長の放送があり、

 「ガソリンが多すぎて着陸できないので、これからガソリンを捨てます」

  とのこと。

 「満タンに近いと重すぎて滑走路内に止まらないのだろうか? エンジンが故障で逆噴射が充分にきかないためだろうか?」

  と思う。そしてジャンボ機の主翼の両端から糸を引くようにガソリンの放出が始まった。

 成田へ無事着いたが、

  「成田へ着いたら詳しく説明します」

  と言っていた説明は何もなく、

 「今日はもうサンフランシスコ行きのフライトはありませんので、全員ロサンジェルス行きに乗って下さい」

  とのこと。こうして昼頃サンフランシスコに着くはずが、ロス経由で夜になってしまった。

 その頃サンフランシスコの日立アメリカにいた紅林さんが空港まで出迎えに来てくれることになっていた。空港の公衆電話でお宅に電話すると、

 「全員ロス行きに乗ったことまでは分かりましたが、その後どの国内線でサンフランシスコに向かったかは分からず、あきらめて帰宅したので、申し訳ありませんがタクシーでホテルまで行って下さい」

  とのことだった。

 タクシーで夜遅くサンフランシスコのダウンタウンのホテルに着き、食事をしたが、何はともあれ無事にたどり着けてほっとした。これが第一のトラブルである。


出張中にパスポートが期限切れ

 次の出張は81年12月のことだった。BASFとの最初の打ち合わせの為、西ドイツのマンハイムへ行くことになった。

 私のパスポートの有効期限が出張の最後の日より1日早く切れてしまう為、横浜の神奈川県庁へ更新の手続きに行った。ところが夜になって工場に帰ってくると、すぐアメリカに出張してそのまま西ドイツに回ってくれという。防衛庁関係の案件で、平井 通宏さん、若井 勝郎さん他と米国の空軍を訪問してほしいというのである。

 さて困った。出かけようにもパスポートがない。ヨーロッパ出張にぎりぎり間に合う日程で更新の手続きを済まして来たばかりだ。

 とにかくその日はどうしようもないので次の日を待つことにした。

 翌日県庁に電話して、

 「急にアメリカに行くことになったので、昨日頼んだパスポートの更新を特急でやってもらえませんか?」

  と頼むと、

 「特急の扱いはあることはありますが、あなたのは依頼時にその扱いになってないのでだめです」

  とのこと。困ってしまって、

 「じゃあ昨日更新を頼んだパスポートをいったん返してもらえませんか?」

  と聞くと、少し待ってくれと言われて、

 「調べたらまだ『VOID』の穴を明けてないので、返しますから取りに来て下さい」

  とのことだった。

 こうして取り戻したパスポートを持って米国を経由して西ドイツへ行った。

 西ドイツでは、パスポートの期限が切れるので、私だけ打ち合わせを1日早く切り上げて日本に帰ることにしていた。ところが帰国の前日、マンハイムの日製産業の事務所から航空会社にリコンファームの電話を入れると、

 「今日の日本からのフライトが故障で来なかった為、明日のフライトはありません」

  とのこと。

 「さあ困った。1日遅れるとパスポートが切れてしまう。どうしよう」

 「いや乗るときに有効なら、成田で切れていても、入国させないということはないだろう」

 「入国を拒否されたって行く場所もないし」

 「だけど警察に捕まると色々面倒なことになるな」

  等々、その時一緒だった松岡君、日製産業の宮本さん他から色々な話が出た。

 「とにかく明日の他の便が取れないか当たってみよう」

  と、日製産業の人が手分けして、航空会社に片っ端から電話をかけてくれた。その結果、パンナムの世界一周便の南回りがやっと取れ、これで帰ることにした。

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 この便は、今はもうないが、確かカラチとニューデリーと香港に止まる、各駅停車のような便で、途中でクルーが何回か交替した。

 前半はインド人で満席だったが、ニューデリーでがらがらになった。

 すると新しく乗り込んで来た機長が、日系人のステュアデスと一緒に来て、ポケットから漢字らしいものを書いたメモを取りだし、

 「何と書いてあるのか読んでくれませんか」

  と私に頼む。しかし漢字を知らない人が崩した字を写してきたので、3文字であることは分かったが、どっちが上なのかも分からない。

 「一体何に書いてあったんですか?」

  と聞くと、

 「アメリカのパイロットの学校で日本の自衛隊の人と友達になり、その人から黒いラッカーを塗った箱をもらった。それに書いてあったんです」

  と言う。見当がつかなくて困っていたが、そのうち他のステュアデスも集まってきて、その一人が、

 「作者の名前じゃないかしら」

  と言った。そう言われると一つの字が「作」らしかった。これで上下も分かり、もう忘れてしまったが、「多分XXだと思う」と教えてあげた。

 するとまた別のメモを取り出して、

 「これはどうですか?」

  と聞く。こっちはさらに崩した字でとうてい読めない。

 「こっちは何に書いてあったんですか?」

  と聞くと、

 「ネツケです」

  と言う。

 そのとき私は「根付け」というものを知らなかった。その機長は「根付け」のコレクションが趣味で、成田で休みがあると京都迄「根付け」を探しに行くとのことだった。

 「ロンドンでいいものを見つけたので、是非欲しいと思ったんだが高すぎたのであきらめました」

  とも言っていた。

 海外にこういうものを集めている人がいるということを、私はそのとき始めて知った。

 漢字を読む話が終わって、

 「ところで私のパスポートは今日いっぱいで期限が切れてしまうので、遅れないようにお願いします」

  と頼むと、その機長は、

  「OK、大丈夫だ」

  と請け合ってくれた。

 こうして成田に着いたのはパスポートの期限が切れる2時間前だった。


ローマで戸籍抄本を要求されて

 次の出張は、年が明けて82年の1月末だった。オリベッティとの打ち合わせの為、例によって松岡君と、当時オリベッティの事務所があったローマへ出かけた。

 ここで財布をすられるという最悪のアクシデントにあってしまった。

 金曜日までオリベッティで打ち合わせがあり、その後月曜日からマンハイムでBASFとのミーティングが予定されていた。松岡君も私もローマは初めてだったので、土曜日はローマを見物して日曜日にマンハイムへ向かうことにした。われわれ二人と当時イタリアに駐在していた日立電子サービスの中城さんの3人で市内観光のバスに乗った。

 最初にバスが止まったのはあの有名なトレヴィの泉だった。

 バスを降りて歩いていると大勢の汚い恰好をした子供達に囲まれてしまった。5、6才から10才位迄の子供が10人位いたと思う。ボール紙に何か書いたものを突きつけながら口々に何か叫んでしつこくつきまとって来る。

  てっきり乞食の子供だろうと思い、かき分けかき分け歩いたが、この時上着の内ポケットから財布をすられていたのだ。後で聞くとこれはイタリアでは有名な手口とのことだった。

 それにしてもこういう年の子供がすりだとは日本から来たばかりの私には信じ難かった。

 問題はその財布に、現金の他に、パスポートから航空券、クレジットカード、トラベラーズチェックまですべて入っていたことだった。

 とにかく先ず警察に行かねばと三人で警察に向かった。すると英語を話せる警官が出てきて、話を聞くなり、

 「ああ、あれはユーゴースラビアから来たジプシーだ」

  と言う。

 「分かってるんなら捕まえろ!」

  と内心思ったがそんなことを言っても始まらない。

 盗難届の手続きを済ますと、その警官は、

 「パスポートは領事館へ行けば再発行してくれる。航空券もクレジットカードもトラベラーズチェックも再発行してくれる。おまえが失うのは現金と財布だけだ。財布は3分の1の確率で出てくる。たいした問題じゃない」

  と平然と言う。その時は、これはとんでもない国へ来たものだと思った。

 先ず何はさておきパスポートを再発行してもらわねばと、ローマの日本領事館へ行った。

 その入口は完全に鉄の扉で閉ざされており、用件を告げると扉を開けてくれて守衛所に入れた。そこで手続きを済ますと内側の鉄の扉を開けてくれてやっと敷地内に入ることができた。領事館の建物のドアがまた閉まっていて、また用件を告げて開けてもらい、中へ入ると、係員との間は分厚い防弾ガラスで完全に仕切られていた。

  こういう具合でその厳重さに驚かされた。さすがに連合赤軍の本場は違うと感心した。

 防弾ガラス越しに用件を告げると、

 「分かりました。『帰国の為の証明書』を発行しますから、戸籍抄本を持って来て下さい」

  と言う。これには一瞬わが耳を疑った。

  「一体ここをどこだと思っているんだ」

  と思ったが、念のため確認すると、

 「皆さんにそうしてもらっています」

  とのこと。

 そんなことをしていたら1週間もここで動きが取れない、と途方に暮れて中城さんと相談し、

 「FAXではだめですか」

  と聞くと、

 「ちょっと領事と相談してきます」

  と引っ込み、戻って来て、

 「特例として認めることにします」

  と言われた。これには中城さんが名刺を渡して、

 「私が日立のヨーロッパの代表で、この人の身分は私が保証します」

  と頑張ってくれたことも効いたようだ。

 今でも信じられないが、他の人はみんな日本から戸籍抄本を取り寄せていたのだろうか。

 領事館で、ちゃんとした焼き付け写真をすぐ作ってくれるという写真屋を教えてくれたので、そこへ行くと、

 「私もパスポートを取られた」

  と言って、アメリカ人の女性が来ていた。

 「そうか、イタリアではすりも社会のバランス上必要なんだ。すりがいなくなったらこの写真屋はつぶれる」

  と思った。

 次は航空会社。松岡君の航空券と一緒に日立トラベルが手配したはずなので、ローマのエールフランスの事務所へ行って、

 「この人の番号の前か後のはずなので、調べて再発行して下さい」

  と頼んだ。月曜日に再度確認すると、

 「日本に連絡して確認が取れたので再発行しますが、パスポートを持って来ないと渡せません」

  と言う。

 次にアメックスの事務所に行き、控えていたクレジットカードの番号を伝えて、再発行を頼んだ。これも月曜日になると、

 「確認が取れたので再発行しますが、パスポートを持って来ないと渡せません」

  と言う。

 また、アメックスの別の事務所へ行き、日立トラベルがくれたトラベラーズチェックの番号の控えを見せて、

 「多分最初のXX枚を使ったと思うので、残りを再発行して下さい」

  と頼むとこれもOK。しかしこれもパスポートを持ってこないと渡せないとのこと。

 この時は海外でのパスポートの重要性を再認識した。パスポートがないと何もできないということがよく分かった。

 その問題のパスポートについては日本からの戸籍抄本が着かないと何もできない。日本が月曜日になるのを待つしかない。

 打つべき手は全部打ったので、次の日曜日は中城さんに案内してもらい、無一文のため金も貸してもらって、一日ローマを見物した。サンピエトロ寺院、システィーナ礼拝堂、コロッセオ、フォロロマーノ、カラカラ浴場等を案内してもらった。夕方にはコルソ通りの店でお土産の下見までした。

 さて月曜日になるといよいよパスポート奪回の大作戦が始まった。

 先ず家内に私が住んでいた秦野から東京の区役所に行ってもらい、戸籍抄本を取って来て、それを工場に届けてもらった。それを検査の中尾さんに頼んで電子サービスのデュッセルドルフの事務所にFAXで送ってもらった。これが日本の月曜日の夕方、ヨーロッパではまだ月曜日の朝だった。

 そしてこれを持って電子サービスの小島さんにデュッセルドルフからローマまで飛んで来てもらった。ローマには日立の事務所がない為、こうするしかなかった。午後3時頃には着くはずの飛行機が確か1時間ぐらい遅れ、われわれはホテルで今か今かと待っていた。

 小島さんが着くと、われわれはすぐ領事館へ向かった。領事館の係員は戸籍抄本のFAXを見て、

 「これならいいでしょう」

  と言った。FAXは充分鮮明だった。

 「今日中に航空券等を取り戻したいので早くして下さい」

  と頼むと、

 「写真を貼り付けた糊が乾くのに30分位はかかります」

  と言われた。

 こうしてやっとパスポート替わりの「帰国の為の証明書」を受け取ると、すぐその足でエールフランスとアッメクスの事務所に行き、閉店間際に航空券とクレジットカードとトラベラーズチェックを取り戻すことができた。どこも事前に、

 「必ずパスポートを持ってくるから準備をしておいて下さい」

  と頼んでおいたのですぐ渡してくれた。

 取り戻したばかりのカードを使って前日下見しておいたお土産まで買った。

 日本でアクションを起こしてからまだ20時間も経っていなかった。

 この時は時差の有り難さをつくづくと感じた。時差がなかったら戸籍抄本を取り、航空券とクレジットカードとトラベラーズチェックを取り戻すまでを1日で済ますことなどとてもできなかった。

 その夜は中城さんと小島さんに夕食をご馳走して感謝した。この二人がいなかったら私はどうしようもなかっただろう。二人にも会社にも迷惑をかけてしまったが、私にとっては非常に貴重な経験だった。

 松岡君には一人でBASFに行ってもらい、私はイタリアから直接帰国した。

 帰りの南回りのアリタリア航空はガラガラに空いていて、乗客よりクルーの方が多い位だった。私は疲れてしまってずっと寝ていた。

 ふと目を覚ますと、隣にパーサーが座っていて、

 「一番景色がきれいなところなので見なさい」

  と言う。

 飛行機は霧島の上を飛んでいた。私はまだ眠っていたかった。


フランクフルトで危うく宿なしに

 次の出張は82年の9月末だった。

 この時はマンハイムでBASFと打ち合わせた後、ミラノでオリベッティとの打ち合わせがあり、日本に帰ることになっていた。ところが、ミラノで日立電子サービスの向川さんと話しているうちに、何のためだったか忘れてしまったが、フランクフルトのNASのセンタに寄ろうということになった。

 その為ミラノの空港のルフトハンザの事務所で、帰りの便を変更し、フランクフルトまでをルフトハンザに切り替える手続きをした。そうすると、

 「フランクフルトから先もルフトハンザに切り替えれば、フランクフルトの好きなホテルにただで泊めてあげます」

  と言う。それならその方が得だと、切り替えを頼み、インターコンチを予約してもらった。

 ところがフランクフルトのインターコンチに着くと、フロントの人が、

 「そんな予約は入っていません」

  と言う。

 「そんなはずはない」

  と調べてもらうと、

 「確かに空き室待ちのリストには載っているが部屋が空かないのでまだ予約は取れていません」

  とのこと。そう言えばミラノで、

 「フランクフルトに着いたら空港のルフトハンザの事務所に寄って下さい」

  というようなことを言われたが、予約が済んでいるものとばかり思っていた私は、面倒なので直接来てしまった。

 とにかくホテルでは埒があかないので、

 「ルフトハンザの事務所はどこですか」

  と聞くと、幸い歩いてすぐのところだった。そこへ行って、

 「ミラノのXXという人がただで泊めてやるというので切り替えたのに、泊まれないとは何事だ」

  と言うと、最初は窓口の女性が、部屋がないと言っていたが、こっちがだんだん大きい声を出すと、奥の方から責任者らしい人が出てきて、

 「仕方がないので緊急用にとってある部屋を使って下さい」

  と言った。

 その部屋は予定の部屋よりさらに高い部屋だった。

 実はこの日は、前日オリベッティでご馳走を食べすぎて腹をこわし、朝から何も食べてなかったので、ふらふらで、休みたくて必死だったので、多分それが相手にも伝わったのだろう。

 航空会社はいざというときの為に、かなりホテルの部屋を確保してあるということがこの時分かった。

 「調子がいいイタリア人には要注意」ということを再認識した。

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 ところがトラブルはこれだけでは済まなかった。

 NASの人とも会い、翌日向川さんとも別れて、帰国の為フランクフルトの空港へ行った。飛行機の整備に手間取っているとのことで、搭乗開始が1時間位遅れた。やがて搭乗が始まり、滑走路へ向かったが、途中まで行ったところで放送があり、

 「やはり具合が悪いので機体を交換します。かわりの機体がハンブルクから来るので、それが着くまで空港のレストランでなんでも好きなものを食べて下さい」

  と言う。

 その便はハンブルク経由だったので、ハンブルクで乗る客を乗せてフランクフルトに来て、われわれを乗せたらアンカレッジへ直行するということだった。

 好きなものを食べろといわれても、生憎と腹の調子が悪く、うんざりとして長時間空港のロビーで待った。

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 アンカレッジで、帰りが予定より遅れることを家に連絡したいと思った。飛行機から連絡が取れるはずと、工場宛のテレックスのメモを書いて、アンカレッジで飛行機に乗り込むたクルーに、

 「これを発信してもらえませんか」

  と頼むと、機長らしい人が、

 「OK。分かった」

  と受け取ってくれた。しかししばらくしてパーサーが来て、

 「私用での電話の使用はやはりできません。要するに家族に到着の遅れを知らせたいんですね。それなら飛行機から東京のルフトハンザの事務所に電話して、そこからお宅に電話してもらうようにしてあげます」

  とのことだった。

 そうしてもらうことにしたが、家内は帰国に日に突然ルフトハンザから電話がかかってきたので、事故でもあったんじゃないかと驚いたらしい。

 こうして、その時は早く帰れると思っていたのが、小田急の最終電車にぎりぎり間にあう時間になってしまった。

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お わ り に

 よくもこんなにトラブルが続いたものだと思う。

 海外出張に出かける時に同行者にこの話をすると、

 「君と一緒に出かけるのはいやだな」

  とよく言われた。

 しかし、その後も30回近く海外へ出張したが、こういう目にはその後は一度もあっていない。

 「二度あることは三度ある」と言うが、まさに「三度あることは四度ある」となったわけで、やはり偶然というのは続くこともあるようだ。

 周りの人にもずいぶん迷惑をかけたが、こういう色々な経験をすることによって、普通の出張で経験する社会の「表通り」だけでなく、「裏通り」も勉強することができた。

 外国の人と付き合っていくには、こういう一種の「無駄」も重要だと思う。


(完)

1996年2月 (第1版) 

1999年8月  (第4版) 


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