福井と滋賀

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福井と滋賀

酒井 寿紀

本年(2016年)5月に、女房と二人で福井県、滋賀県方面に3泊4日で出かけた。

福井県は私の先祖の出身地の一つで、一度行ってみたいと思っていたところだ。実は、まだ東名高速ができる前、名古屋から一人でクルマで帰る時、日本海側の国道8号を走ったことがある。福井県を通過し、永平寺と東尋坊に立ち寄ったことは覚えているが、その他の記憶はまったくない。

滋賀県には、野洲にあった日本IBMの工場に行ったことがあるだけだ。戦国時代の歴史小説やテレビドラマでよく出てくるが、行ったことがないので、どうも地理関係がピンとこない。一度行っておけば、少しは実感が湧くだろう。

福井で先祖を捜す

高祖父 本多鼎介

私の高祖父の一人が福井県武生市の出身の本多鼎介(テイスケ)という人である。私の母方の祖母の母親の父親に当たる。祖母の母親については少しは話を聞いたことがあるが、その父親については何も聞いたことがない。我が家には、写真も、書いたものもまったくない。

本多鼎介は、福井藩の家老で武生の領主だった本多氏の家臣で、1839年(天保10年)に生まれ、1898年(明治31年)に亡くなったそうだ。江戸時代に武生にあった藩校「立教館」の先生などをしていたが、その後福井市にあった藩校「明新館」の教授になり、1881年に福井県議会が開かれると初代議長に選ばれた。後に、第4代と第6代の議長も務めた。

明新館が米国から招聘した化学の教授の講義録の日本語訳に協力したり、「福井新聞」の発刊に係ったりしたようだ。

本多鼎介の子孫の一部をご紹介すると・・・

長女の初枝は、浜松藩出身で判事の佐々木三蔵に嫁ぐ。その長女のかをるが陸軍の大阪砲兵工廠に勤めていた酒井亀久次郎に嫁ぐ。私はその孫だ。

長男の精一は東京大学卒業後、東京日日新聞の社長などを務める。

三女の小松は大江卓の息子の大江太(ハジメ)に嫁ぐ。その子の恒吉は東京美術学校(現:東京芸術大学)卒業後、光村図書出版の社長などを務める。

四女の小咲は、後に衆議院議員になった加藤小太郎に嫁ぐ。小太郎が京都市の助役だったころ、当時京大生で、後に衆議院議長になった綾部健太郎が加藤宅に下宿していて、その友人の菊池寛もよく世話になったそうだ。(と、菊池寛が「半自叙伝」に書いている)

この本多鼎介についてもう少し分からないか、というのが今回の旅行目的の一つだ。

福井藩家老の本多氏との関係は?

上にも記したように、本多鼎介は福井藩の家老で武生の領主だった本多氏の家臣だったという。同姓である。この家老の本多氏はどういう家柄なのだろうか?

福井藩には、関ヶ原の戦いの後1601年に、家康の息子の結城秀康が入封し、以後松平家と改名して幕末までこの藩の藩主を務めた。むろんその間には外部から養子を取ったこともあり、最後の藩主の松平春嶽も田安家からの養子だ。

親藩や譜代の藩には、一般に「御付家老」として徳川家の側近が付けられた。御付家老には、親藩や譜代の藩を補佐するとともに、お目付役として大名を監視する役目もあったようだ。親藩である福井藩では、家康の三河時代からの家臣の本多富正が御付家老になった。そして、この富正の子孫が、幕末まで代々福井藩の家老を務めるとともに、武生領の領主を務めた。

本多富正には幕府から、武生藩として独立した大名にならないかとの話があったというが、富正は結城秀康に対する恩義からそれを断ったという。ちなみに、同時期に福井藩から独立する話があった丸岡藩は、幕府に言われたとおりに独立し、以後幕末まで5万石の独立した藩になった。

こうして、武生は独立した藩にはならなかったが、江戸城では大名並みに扱われたという。こうした、武生の本多氏の中途半端な扱いが、明治維新後騒動の元になった。

大名は一般に爵位を授与されたが、武生の本多氏は正式の大名とは認められず、爵位が授与されなかった。これに怒った武生領民が1870年に騒動を起こし、結局武生の本多氏は男爵の爵位を授与された。この経緯は新田次郎が「武生騒動」という小説にしている。

私の疑問は、こうして本多富正から幕末まで続いた、福井藩の家老で武生の領主だった本多氏と、その家臣だった本多鼎介とは親族関係がなかったのだろうかということだ。この疑問を解く鍵を見つけることも今回の旅行の目的だった。

郷土歴史博物館で

先祖探しといっても、もとよりそんなに真面目な話ではない。何か手がかりでも見つかれば儲けもの、という気軽な旅だ。

最初に、福井城址の近くにある福井市立郷土歴史博物館に行ってみた。

一通り見た後、「本多鼎介という人の子孫なんですが、何か資料はありませんか?」と受付の女性に聞くと、学芸員の印牧(カネマキ)さんという方を連れてきてくれた。

この人に趣旨を説明すると、古い県会議員の名簿を持ってきてくれた。それによると、県議会ができた明治14年(1881年)5月の名簿の3番目に「士族、議長」として本多鼎介が載っている。住所は足羽(アシワ)郡福井毛矢町となっていて現在の福井市内だ。元は武生に住んでいたはずだが、明治になって政府関係の仕事をするために福井に引っ越したのだろうか?

そして、この資料で本多鼎介の顔写真を初めて見ることができた。

次に、家老の本多家との関係について聞くと、「華族家系大成」という分厚い本を持ってきてくれた。これには江戸時代後期から現代に至る家老の本多家の系図が載っていた。但し、宗家の人々とその配偶者および子供だけで、少なくともこの範囲には本多鼎介という名前は見当たらない。聞くところによると、福井県には本多という姓が非常に多いそうで、本多鼎介は家老の本多家とは親族関係がまったくないのかも知れない。

印牧さんが、「県立歴史博物館にもう少し資料があるかもしれない」と言うので、翌日行ってみた。しかしここは古代から現代までの人々の生活の変遷を示す展示が主体で、江戸時代や明治時代の資料はあまりないようだった。

印牧さんは、「武生には何かあるかもしれない」とも言ってくれたが、武生に資料館のようなものがあるのかどうかも分からず、今回の旅行予定には入ってなかった。後で調べたところ、「武生公会堂記念館」というところで武生の歴史やゆかりのある人物について展示してあるというので、ここへ行けばもう少し分かったかも知れない。

 

福井の三つの城跡

福井市の近辺には三つの城跡がある。一番古いのは朝倉氏の一乗谷だ。福井駅から南東方向にバスで30分ほど行った丘陵地帯にある。

現在は朝倉氏やその家臣の邸の一部が復元されている。復元といっても、土台の石は昔のままなので、水平方向は正確だが、垂直方向は他の遺跡などからの類推だという。ここは朝倉氏一族が居住していたところで、軍事用の城は山の上にあったそうだ。

朝倉氏がいつからここを本拠地としていたのかは、はっきりしないらしい。しかし、1573年に織田信長の軍勢が一乗谷を攻め、ここは灰燼に帰したという。近くにあった山城は一度も戦闘に使われなかったということだ。何のための戦闘用の城だったのだろう。

その後、1575年に柴田勝家が信長から越前の国を賜って福井に北ノ庄城を築いた。これからは軍事目的より経済的発展が重要と、同じ九頭竜川水系でもはるかに下流の平地を選んだのだろう。

この城の正確な位置はいまだに分からないらしい。現在の「柴田神社」の手前の土地の発掘調査で古い石垣が見つかり、北ノ庄城の一部と推定されているようだ。そうだとすると北ノ庄城の中心は江戸時代の福井城とは大分ずれていたようだ。

勝家は信長の死後、1582年8月に信長の妹のお市と祝言を挙げた。 柴田神社の右手にはお市の3人の連れ子、茶々、初、江を祀る「三姉妹神社」がある。1998年に建てられたものだそうだ。信長の死の翌年、1583年4月に勝家は秀吉に攻め滅ぼされ、勝家とお市は自害し、北ノ庄城には火が放たれた。従って、三姉妹はここには1年も住んでいなかったことになるが、現在も観光客の誘致に駆り出されている。

福井には 1600年に家康の次男の結城秀康が入封し、1601年から福井城の建築に掛かったという。福井藩は67万石の親藩だったので、城も御三家に次ぐ規模だったのだろう。

天守閣は江戸時代に焼失したそうで、現在は何も残っていない。現在、内堀に囲われた敷地には、県庁、県警本部、県会議事堂が建っている。土地の有効活用という点ではよかったが、役人が殿様気分になって威張っているので失敗だったと言う人もいるようだ。

 

日本海の日没

翌日は東尋坊に近い日本海岸の「望洋楼」という日本旅館に宿を取った。

当日は快晴で、「これなら日本海の日没が最後まで見えるかもしれない」と期待した。というのは、小生が新潟県の中条町(現:胎内市)で勤めていたころ、何回も日本海の海岸の瀬波温泉にお客さんをお連れしたが、晴れた日でも、最後には夕日が雲に入ってしまい、水平線に没するまで太陽が見え続けたことはほとんどなかったからだ。

お客さんに、「心がけがいいと日没がちゃんと見えるそうです。今日は大丈夫でしょう」と言うと、やはりだめで、「私はやはり心がけが悪いんですかね」と言われ、余計なことを言うんじゃなかったと悔やんだことが何回もあった。

しかし、この日は完璧な日没を最後まで見ることができた。タクシーの運転手によると、ここでもそれは珍しいそうだ。

座って食事をするのが苦手なので、テーブルが使えないか旅館に聞くと、隣の畳の空き部屋にテーブルを用意してくれた。おかげで楽な姿勢で食事ができ大いに助かったが、テーブルに座っている我々に、仲居さんが畳の上に正座して話をするという珍妙なスタイルになってしまって申し訳なかった。

この旅館では久しぶりにおいしいノドグロ(アカムツ)の塩焼きにありつくことができた。ノドグロは20年以上前に新潟で初めて食べて、そのおいしさに感激した。それ以来何回か食べたが、高いばかりで、初回の感激はなかった。今回は久し振りにその感激を味わうことができた。

やはり、そうそううまいものにはありつけないようだ。

 

長浜・・・北国街道の宿場町

福井県の後、琵琶湖畔の長浜に立ち寄った。ここは一時秀吉の城があったところだ。1573年、信長の軍に浅井、朝倉が攻め滅ぼされると、秀吉は信長からこの地を賜った。そして、山の中にあった浅井氏の小谷城ではなく、琵琶湖に面し交通の便のよい長浜に新規に城を築いた。

この城は、1582年、信長の死後柴田勝家の甥に譲ったというので、秀吉がここを本拠地としたのは長くても10年だ。その間も中国地方遠征など出張(?)ばかりしていたので、実質どれだけここに住んでいたのだろう? その後、1615年には江戸幕府によって廃城にされ、その木材や石は彦根城の建設に活用されたという。

そのため、現在長浜城の跡には何も残ってない。当時の長浜城の姿を書いたものもないようだ。現在の天守閣は1983年に建てられたもので、当時の長浜城の「復元」ではない。現在は歴史博物館として使われている。もしこれがなければ、城下町だった面影はまったくない。

長浜の街を歩いていると、「北国街道」という標識が立っている。北国街道といえば、軽井沢の先の信濃追分で中山道から分かれ、小諸、善光寺、直江津を経由して日本海沿岸を西に走っている道だ。それがここまで続いているとは知らなかった。

この北国街道沿いの街並みが観光の中心になっていて、お土産屋やアイスクリーム屋が並んでいる。古い建物が多い。電柱や電線がなければ、江戸時代と大差ない眺めと思われる。

 

彦根・・・現役の城下町

長浜の後、彦根にも立ち寄った。彦根城は、江戸時代の初めに建てられたものがほぼそのままも姿で現存している珍しい城の一つだ。1606年に完成後、戦乱も、大火もなかったので、こうして当時の姿を留めている。現在、姫路城などとともに国宝の五つの城の一つになっている。

関ヶ原の戦いも終わり、軍事上の必要性が減ったのに、幕府がこのような立派な城を築かせたのは、西国に対して「にらみを効かす」ためが大きかったのだろう。

彦根の街の一部には、昔の街並みがよく残っている。中にはわざわざ再現した建物もあるのだろうが、電柱も電線も見当たらず、道路の白線や交通標識がなければ、江戸時代のショッピング街からそんなに変わってないように思われた。現在は観光客相手のお土産屋や食べ物屋になっている店が多い。

 

(完) 2016年8月


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