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富 山 訪 問

酒井 寿紀

黒部

行ったことがないところを、遠くの方から

海外もだいぶ行ったので、2年前(2015年)から国内で行ったことがないところに行くことにした。足腰がまだ達者なうちに、遠くの方から片づけておかないとあまり行けそうもないので、遠いところから行くことにし、この2年間に、高知県、福井県、青森県、山口県などに行った。

次はどこにしようかと思っていたが、富山県は50年ぐらい前に通過しただけで、どこにも立ち寄らなかったので、ここに行くことにした。昨年奥入瀬に紅葉を見に行ったのだが、ちょっと時期が早すぎて物足りなかったので、時期を見計らって黒部峡谷へ行き、昨年のリベンジ(?)を果たしたいという気持ちもあった。

例によって女房と二人で、3泊4日の旅行だった。2017年11月上旬のことである。

宇奈月温泉・・・無料バスで「とちの湯」へ

初めて 北陸新幹線に乗って、まず宇奈月温泉に入った。新幹線を使うと、東京駅から富山まで2時間あまりだ。昔、北アルプスや志賀高原に登山やスキーをしに行く時はいつも夜行列車だった。それを思うとまったく夢のようだ。何せ、この方面に来るのは50年以上のブランクがある。

宇奈月温泉で夕食までの時間にどこに行ったらいいか、観光案内の女性に聞くと、無料のバスで黒部川を少しさかのぼると、「とちの湯」という露天風呂があって、景色がいいと薦めてくれたので、行ってみることにした。

このバスで温泉に行き、風呂に入って一休みして、2時間ほど後のバスで宇奈月に戻るのがお薦めのようだ。同乗していた上市に住んでいるという年配の人は、これを使って毎週のようにとちの湯に来ているそうで、帰りのバスでまた一緒になった。我々夫婦は温泉には入らず、私は黒部川の支流のスケッチを1枚描いた。そのため、黒部川の対岸を走るトロッコ電車から入浴シーンを見ることができると耳にしたが、確かめられなかった。

上市のお年寄りはおしゃべりで、行きのバスでは、上市には「ムヒ」の製薬会社があって・・・等、いろいろな話を聞いたが、帰りのバスでは、ひと風呂浴びてすっかりいい気分になったようで、ずっと寝っぱなしだった。

このバスは、無料なのは結構なのだが、運転手がえらく横柄な男で、途中の駅でちょっと降りて写真を撮ろうとする人がいると、「発車時間に乗ってないと置いて行くよ!」とすごむので驚いた。同乗の富山県の二人連れの女性もあきれて怒り出し、「なんて無作法な人でしょう。富山県民として恥ずかしい。遠くから来たのに申し訳ありません」とさんざん謝られて気の毒になった。

欅平からも黒部ダムに行ける!

この二人の女性から、黒部川をさかのぼって黒部ダムに行ったことがあると聞いて驚いた。黒部ダムには、東の信濃大町からか、西の立山からしか行けないものとばかりと思っていたが、北の方から黒部川をさかのぼって行くこともできるという。抽選に当たると、工事用のトンネルを使って行けるのだそうだ。

帰ってからインターネットで調べると、確かにそういう方法もあるようだ。黒部川の欅平まではトロッコ電車で誰でも行けるが、そこから先は関西電力の工事用のトンネルを使って、専用の鉄道やバスを乗り継いで行くのだそうだ。1日1本だけで、行きか帰りの一方にしか使えず、あとは立山ルートなどを使う必要があるという。手荷物は小さいリュック1つ程度で、関西電力が貸してくれるヘルメットをかぶって行くのだそうだ。

全行程が地下のトンネルで、途中の景色をまったく見ることができないため、黒部ダムの工事を実感したい人には貴重な体験だろうが、一般向けにはあまり薦められないかも知れない。ただし、乗り物はすべて無料だという(1)

トロッコ電車で欅平へ

翌日は、トロッコ電車で終点の欅平まで行った。一般の観光客が行けるのはここまでである。

インターネットで調べると、トロッコ電車の車両には3種類あり、窓のない吹きさらしの車両は寒いというので、窓付きの車両を予約しておいた。当日は天候もよくなく、窓なしの車両に乗っている人は寒そうだった。最近はこういうものまでインターネットで簡単に予約できるので助かる。

川が山の斜面を削って作った谷を、日本語では「峡谷」とか「渓谷」と言う。その差は明確でないようだが、一般的には大きいものを「峡谷」、小さいものを「渓谷」と呼んでいるようだ。アメリカのグランド・キャニオンは「峡谷」で「渓谷」とは言わず、東京に唯一あるのは「等々力渓谷」で「等々力峡谷」とは言わない。数えたわけではないが、日本にあるのは「渓谷」と呼ばれるものが圧倒的に多いようだ。しかし、黒部は「黒部峡谷」と言い「黒部渓谷」とは言わない。黒部は日本で数少ない大きな峡谷の一つなのだろう。

黒部川沿いの山道でスケッチを2枚描いた。生憎当日は小雨が降ったり止んだりしていたが、幸い山道にはトンネルやオーバーハングしている「人喰(ひとくい)岩」と呼ばれる岸壁などがあったので、雨を避けて絵を描くには好都合だった。紅葉がちょうど見頃だった。

 

「シロエビ」か、「シラエビ」か?

富山ではシロエビが名物で、ちょうどシーズンだという。私は食べたことがなかったので、宇奈月の温泉旅館ではシロエビ料理が何種類も出てくるコースを選んでみた。

「名物に旨い物なし」と言われ、私も期待が外れてがっかりしたことが何回もあるので、実はあまり期待していなかった。しかし、シロエビの刺身や唐揚げは甘みがあってなかなかよかった。

ところで、シロエビとは、聞いたことがなかったが何者だろうか? 調べると、これは生物学上はオキエビ科のシラエビで、日本海だけでなく、相模湾などの太平洋側にもいるが、食用に獲っているのは富山湾だけで、富山ではこれをシロエビと言うのだそうだ。なぜ他の地方でこれを食べないのかは分からない。

やっかいなことに、これとは別に生物学上のシロエビという、クルマエビ科のまったく別のエビもいるのだそうだ。これは西日本の太平洋沿岸で獲れ、唐揚げ、干物などで食用にされるという。魚類の呼び名が地方によってまちまちなのはよくあるが、このようにややこしいのは困ったものだ。

五箇山

「世界遺産バス」は乗れるの?

黒部峡谷を訪れた後、高岡市街のホテルで2泊した。もう1個所温泉に泊まりたいと思ったが、交通が便利なところに温泉が見つからなかったので、高岡をベースキャンプにすることにした。

ここから五箇山の合掌造り集落に行くにはバスが便利なようだ。五箇山のいくつかの合掌造り集落を巡って、岐阜県の白川郷まで行くバスがある。これらの集落はすべて庄川沿いにあって、白川郷はその最上流にあるということを初めて知った。合掌造り集落としては白川郷が特に有名で、一番大きいのかも知れないが、遠いのでやめ、最も近い五箇山の相倉(あいのくら)集落に行った。ここだけでも、20軒以上の合掌造りの建物がある。

ここへ行くバスは、地元の住民も使う路線バスなのだが、「世界遺産バス」と名付けられていて、高岡駅から終点の白川郷まで2時間以上かかるため、座席数以上は乗せないという。満席になった時はどうするのだろうか? 心配して電話で聞くと、「予約はできません。満席の時は次のバスを待ってもらいます」と言う。次のバスといっても1時間以上後だ。秋の行楽シーズンなので、満席になることはないかと聞くと、「ウィークデーなら大丈夫でしょう」と言う。黒部のトロッコ電車のように予約できると安心なのだが、そういう仕掛けはない。幸いにして、半分以上席は埋まっていたが、予定の時間のバスに乗ることができた。

これ、どこの国のバス?

バスの前方に案内のディスプレイあり、日本語と英語が1画面、中国語と韓国語がそれぞれ1画面で、3通りの画面が切り替わるようになっていた。そのため、中国語と韓国語の方が、日本語、英語よりはるかに文字が大きく、驚いた。これ、どこの国のバス?

聞くところによると、富山空港に中国や韓国から直行便が入るようになったので、富山県は両国からの観光客の誘致に力を入れているということだ。前日のトロッコ電車でも、沿線の写真を撮りまくっている若い女性のグループがいて、初めは日本人だと思っていたが、実は中国人だった。

中国人や韓国人以外にも外国人の観光客が多い。バスの運転手に英語で話しかけている一人旅のアジア系の女性がいた。聞くと、フィリピンから来たと言う。また、相倉集落で、「ワシ」、「ワシ」と尋ね回っているヨーロッパ系の女性がいた。聞くと、和紙の製作を体験させてくれる店があると聞いたので、それを捜しているとのことだった。どこの国でも、旅行に出かけるのは女性の方が積極的なようだ。

立派な本州横断道路

高岡から五箇山に向かうバスは、途中まで「東海北陸自動車道」を使う。この道路は、高岡付近で北陸自動車道に接続し、一宮付近で東名に接続している。こういう道路が完成しているとは知らなかった。当日は道路が大変空いていて、快適なバス旅行だった。

中央高速と東名を接続する道路などは、途中までできているがなかなか開通しない。中央高速を通るたびに税金の無駄遣いが気になる。工事を手掛けたら一気に開通させないと資金を無駄に寝かせることになるので、民間企業なら極力避けるはずだ。その点、東海北陸自動車道は、建設に何年かかったのか知らないが、まともに作られたようだ。

相倉集落

相倉集落で、近景に木があり絵になるところを捜して、合掌造りの建物を2枚描いた。

豪雪地帯では屋根の雪下ろし作業が大変である。合掌造りは、屋根の勾配を急にしてその負担を減らしていると言うが、なぜ他の地方では普及してないのだろうか? 

前日の黒部は山の中の峡谷なので相当寒いだろうと、下着を着こんで行った。しかし、五箇山は平野部に近く、寒さはそれほどではなかろうと思っていた。ところが意外と寒いので驚いた。帰ってから調べると、欅平の標高は約600mで、思ったより低く、相倉集落の標高は約400mだが、内陸のため寒いところのようだ。五箇山へ行くときはもっと厚着をして行くべきだった。

 

江戸時代は流刑地

五箇山は、江戸時代には加賀藩の流刑地だったという。加賀騒動の時、大槻伝蔵はここに流されたのだそうだ。ただ、配流になったのが1748年4月18日、当地で自害したのが同年9月12日ということなので、ここにいたのは夏の5か月足らずで、豪雪地帯の厳しい冬は1回も過ごしていない。

私は行かなかったが、庄川を少しさかのぼったところに当時の流刑小屋を復元したものがあるという(2)。山の中の暖房もない3畳の狭い小屋で長く寒い冬を越すのは、加賀藩主の側近として最後には3,800石まで出世した男には耐え難かったのかも知れない。

高岡、新湊

国宝の瑞龍寺

高岡には、母方の祖母が子供のころ住んでいたことがあると聞いているが、詳しい時期とか場所はまったく分からない。その父親が判事で全国を転々としていたので、その1か所だったのだろう。

高岡には江戸時代の初めに高岡城があったが、短期間で廃城になり、現在は城の建物はまったく残っていない。古い建造物として現存するのは瑞龍寺ぐらいのようだ。石川県、富山県、新潟県の3県で国宝に指定されている寺はここだけだというので、五箇山へ行った翌朝、新湊に行くタクシーに立ち寄ってもらった。開門直後で、参詣客もまだほとんどいず、清々しい気持ちでお参りできた。

この寺は加賀の前田家第2代当主の利長の菩提を弔うために、第3代当主の利常が建立したものだそうだ。なぜ加賀ではなく越中に寺を建てることになったかは後で触れる。

「きっときと市場」

新湊の魚市場の隣に「きっときと市場」という一般向けの市場があり新鮮な魚が手に入るというので買い出しに出かけた。築地の場外市場のようなものだが、築地と違い、一つの屋根で覆われた巨大なショッピングモールをなしている。

タクシーの女性の運転手に聞くと、「きときと」とか「きっときと」というのはこの地方の方言で、魚が新鮮なことを言うのだそうだ。転じて、子供が元気に騒ぎまわる様子などにも使うと言っていたが、そのニュアンスは我々にはよく分からない。標準語で言えば「ぴちぴち」に近いようだ。「ぴちぴちギャル」と言うが、「きときとギャル」と言うのかどうかは知らない。

「きときと寿司」等、何にでも「きときと」を付けるのがはやっているようだが、空港の名前まで「富山きときと空港」にしてしまったのはあまり評判がよくないようだ。

この市場には、2015年に新湊の漁港で水揚げされたという巨大なダイオウイカのするめが展示してあった。長さは6.3mあるという。試食会を開いたが、味はあまり評判がよくなかったようだ。

ここで、シーズンなので、ズワイガニ、シロエビなどを買って、一部は宅配便で自宅に送ってもらった。

立山連峰を眺めながら富山へ

市場を出て、最近できた新湊大橋を渡り、立山連峰を正面に見ながら富山へと向かった。快晴の空の下、山並みが実にきれいに見えた。こっち側から北アルプスを見るのは初めてだ。剣岳がどうしてこういう名前になったのかがよく分かった。

実は、その日の午後、富山市内で別のタクシーに乗ったら、年配の運転手が、東の山並みの右の遠方に見える真っ白い山が乗鞍だと言うので驚いた。富山市から乗鞍岳が見えるとは、いまだに信じがたい。北アルプスの最高峰の穂高や槍ヶ岳が、前方の山にさえぎられて見えないのに、それよりはるかに遠く、穂高や槍より標高が若干低い乗鞍が見えるとは! その後ある会合で、富山出身の友人にこの話をしたら、「僕も見えないと思う。だけど意外と遠くから見える山もあるので、検討課題にしておこう」と言っていた。

秋晴の好天で、山を見るには申し分なかった。しかし、新潟で3冬過ごした私は、久しぶりに冬の日本海の荒海を見たいと思っていたのだが、天気がよすぎてまったくできなかった。日本海側の冬は、空も海も黒っぽく、荒波が押し寄せる音と北風の音が響き渡り、何とも陰鬱な気分になる。住んでいた時はうんざりしていたが、離れてみると時々懐かしくなる。今回の旅行でまた味わえると思っていたが、残念だった。

様変わりした国道8号

50年ぐらい前に、クルマで関西に行った時、一人で北陸廻りで東京に帰ったことを思い出す。まだ東名が開通する前だった。福井県で永平寺と東尋坊に立ち寄った後は、ただひたすらに国道8号を走り続けた。富山県の記憶はまったくないが、田圃や畑の中の国道を走ったのだと思う。

現在は、高岡・富山間は4車線のバイパスで結ばれていて、立体交差も多く、北陸自動車道を使わなくても、昔に比べれば運転ははるかに楽なようだ。このバイパスはこの先も続いているという。昔、苦労して越えた倶利伽羅峠も、トンネルで楽に越えられるようになったとタクシーの運転手に聞いた。

富山

上杉謙信はただの侵略者?

富山城にかつて天守閣があったことがあるのかどうか、はっきりしないようだ。しかし、戦後ここに小さい天守閣が建てられ、現在は模擬天守と呼ばれて博物館に使われている。そこで、ここへ行けば富山の歴史の全体像が少しは分かるだろうと思って行ってみた。何せ富山県の歴史につてはろくに知らないのだ。

しかし、そういう展示はほとんどなかった。 ちょうど、上杉謙信が越中に攻め入った時代の特別展をやっていた。1560年頃から1580年頃にかけて、上杉謙信の軍勢が越中から能登にかけて攻め込み、1576年に謙信が急死するまで占領が続いたという。通常はどういう展示をしているのか知らないが、この謙信の越中侵略が富山の歴史上の大事件で、それ以降あまり歴史の表舞台に登場するようなことがなく、そのためこの展示に力を入れていたのかも知れない。

上杉謙信という人は、武略の大家だが、仏門に入り、妻もなく、禁欲的で、戦いでも信義を重んじた人というイメージを持っていた。ところが、富山県から見れば、一方的に攻め込んできた侵略者だということが分かった。

富山は加賀藩の一部だった!

特別展の期間中だったためかもしれないが、 富山城址の博物館に富山県の歴史に関する展示があまりないのを不思議に思って、旅行から帰ってから少し調べた。すると、私の無知をさらすのでお恥ずかしいが、江戸時代の初めに前田利長が加賀藩主に任命され、加賀100万石が成立した当時は、現在の富山県全体が加賀藩の一部だったと知って驚いた。

したがって、当時の越中は加賀と一体で、政治・経済・文化などの面で金沢文化圏の一部で、越中独自の文化というものはあまりなかったのかも知れない。

富山城の土地は富山藩ではなかった!

前田家第3代の利常は、1639年に隠居する時、富山藩10万石を加賀藩から切り出して次男の利次に与え、それが幕府から支藩として認められた。以後富山藩は加賀藩の支藩として幕末まで続く。支藩にもいろいろな格があったようだが、富山藩は、参勤交代に北国街道と中山道を使ったたという記録があり、江戸城での控えの間は、薩摩の島津家や仙台の伊達家と同じ「大広間」だっとというので、大外様大名並みの扱いだった。

当初の富山藩には、富山城の土地は含まれず、利次は初め、加賀藩から富山城の土地を借りてそこに住んでいたという。そして、自藩内に新たに城を築こうとしたが、カネが足りなくなったのであきらめ、1659年に加賀藩と、富山城の土地と自領の土地を交換して、富山城に住み続けることにしたのだそうだ。

高岡も、氷見も、魚津も、五箇山も富山藩ではなかった!

その後も、富山藩の領地は、富山城を中心にして南北に長い越中の中央部だけで、その西も東も加賀藩の領地だっとという。つまり富山藩は加賀藩に東西から挟まれていたわけで、現在の魚津、滑川、新湊、高岡、氷見などは富山藩ではなかった。また、富山県の有名な観光地の宇奈月温泉、五箇山なども藩外だった。この状態は幕末まで続いた。

部外者が勝手な推測をして申し訳ないが、この江戸時代の状況が、いまだに富山県としての一体感を弱めているのかも知れない。

民俗民芸村

富山市でちょっと時間があったので、民俗民芸村というところに行ってみた。小高い丘の中腹に10軒ほど古い民家が移築されていて、昔の人の生活が感じられるようになっている。こういうものは各地にあるが、富山県ならではの展示に「売薬資料館」というものがあった。薬の行商人が使った道具類が展示されていて興味深かった。富山の売薬業には300年以上の歴史があるそうだ。

[関連記事]

(1) 「黒部ルート見学会のご案内」、関西電力

(2) 「流刑小屋」、 上梨観光

(完) 2017年12月31日


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