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戸嶋靖昌の絵を観て (Rev. 1)

酒井 寿紀

暗闇から見つめる眼

凄い画家に出会った。戸嶋靖昌(としま やすまさ)という人だ。今年(2017年)1月22日のNHKテレビの「日曜美術館(注3)」を録画しておいて見たのだ。

暗闇から、年老いた男や女がじっとこっちを見ている。その眼は、心の奥底を感じさせ・・・・

いや、下手な説明はやめよう。下記ウェブページを見てもらう方がよっぽど手っ取り早い。

  「Images for 戸嶋靖昌」(Googleの画像検索結果)

  「戸嶋靖昌記念館」 (執行早舟のウェブサイト内)

ウェブにはあまり情報がないのは残念だが、これだけでもこの画家の作品の一端に接することができる。

テレビの画面だけでは、なかなか本当のところは分からない。前にも、テレビで見た後、実物を見に行って失望したことがある。どうも、映像技術が本物を超えることがあるようだ。そこで、これは是非実物を見る必要があると、2月15日に東京・麹町の「戸嶋靖昌記念館」に行ってみた。

テレビで放映された作品が40点ほど展示されている。通常は年に3回ほど入れ替えるそうだが、現在はテレビで見たものを見たい人が多いようなので、当分このままにしておくということだ。この記念館は2011年に開館してまだ日が浅いので大変きれいで、スペースも十分に広く、グレーの壁の色も作品にマッチしている。テレビに出たばかりなので、もう少し人が来ているかと思ったが、幸いに2~3人程度で、ゆっくり見ることができた。立派な建物で、係員も揃っているのに、入場無料とは驚いた。

絵の迫力がテレビの画面とは比較にならず、圧倒された。こんな画家が日本にいたとは驚きだ。

この画家の絵を観ていてゴヤの絵が頭に浮かんだ。ゴヤは18世紀のスペインの画家で、戸嶋は20世紀の日本の画家だ。同じ写実といっても、描き方はまるで違う。しかも、ゴヤが描いたのは王侯貴族が主で、戸嶋が描いたのは年老いた貧しい庶民だ。ゴヤはきらびやかに着飾った王侯貴族の顔の奥底にある、人間の愚かさや卑しさを見事に描きだしたと私は思っている。一方戸嶋は、年老いた男女の瞳の奥にある何物かを描きだそうとしたように思える。描いたものも描き方もまるで違うが、描かれていない何物かを観る人に伝えようとしている点に、共通性を感じる。

この画家についてもう少し知りたいものだと思った。 そこで、帰りがけに、この記念館が発行している「孤高のリアリズム -戸嶋靖昌の芸術ー」という、スペイン語と日本語で書かれた本を買い求めた(1)。戸嶋は長年スペインに住んでいたので、この本はスペイン大使館とこの記念館が協力して作ったのだという。これを買ったところ、戸嶋靖昌について書かれた非売品の小冊子を2冊付けてくれた。これらを読んで、やっといろいろなことが分かってきた。知れば知るほど、戸嶋靖昌とは実に驚くべき存在だったことが分かった。

戸嶋靖昌って何者?

戸嶋靖昌は1934年、秋田県の裕福な農家に生まれたという。地元で教育を受けた後、武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)で西洋画と彫刻を学び、1958年に卒業した。その後は武蔵野美術学校の助手などをしていたようで、この間に結婚したというが、詳しいことはよく分からない。

そして、1974年、ちょうど40歳の時、突然単身スペインに渡った。そして、1999年に日本に残っていた奥さんが亡くなり、それをきっかけに2000年に帰国するまで、20数年(注1)にわたってグラナダを中心にして制作活動を続けたという。

その後、2002年に執行早舟(しぎょう そうしゅう)という人が戸嶋に資金援助を始め、アトリエなどを用意して、自身の肖像画の制作を依頼した。その最後の1枚が完成した2006年に、戸嶋は直腸がんで亡くなったという。前年からこれが絶筆になると分かっていたようだ。

絵を売ろうとしない画家

執行早舟氏は、戸嶋の死後、その全作品を引き取り、東京のど真ん中に専用の記念館を開設してそれを展示している。

同氏によると、戸嶋は生前、自分の作品を全く売ろうとしなかったそうだ。いや、ただ売らないだけではない。同氏は、武蔵野美術大学の甲田洋二学長との対談で言う。

「僕が一番困ったのは、僕が戸嶋芸術を人に話そうとしても話すことそのものを戸嶋が怒るわけ。・・・今、戸嶋が生き返って来たら僕は殴られますね。(2)」

では、どうやって食べてきたのだろうか? 日本に残した奥さんからの仕送りが収入源だったとテレビで聞いたように思うが、これは本当だろうか? ただ、絵と音楽以外には全く興味がなかったようで、あまりカネがかからない人だったことは確かなようだ。執行氏は言っている。

「食いものにも興味がないですよ。僕が知ってる範囲じゃ、ほとんど素うどんしか食べなかったですから。生きるために食べているだけで、食べることそのものが面倒くさいという感じでしたね。(2)」

通り一遍の変人ではなかったようだ。絵を売るつもりがないため、絵にはほとんどサインがないという(2)。

しかし、絵を売らない、展覧会にも出展しないということは、人類にとっての芸術としてどういうことなのだろうか?

絵でも音楽でも文学でも、それを観る人、聴く人、読む人がいて、その作者と鑑賞者の間で魂の触れ合いがあって、はじめて人類の芸術活動と言えるのではなかろうか? どんなに優れた芸術作品でも、その鑑賞者が全くいなく、作者の死後ゴミとして廃棄されれば、その芸術作品は人類にとって全く存在しなかったのと同じだ。したがって、芸術作品として意味があるためには、それを作るだけでなく、その鑑賞者を捜しだし、それを世に広めなければならない。

芸術家自身もそういうことを理解する必要がある。そうでなければ、人を喜ばせることも、人類の遺産として残すこともできないからだ。こういうことを理解しない芸術家は真に困ったものである。

パトロンと伝道者が必要

しかし、過去にも、優れた作品は生み出せるが、鑑賞者を増やしたり、カネを稼いだりするのは苦手だった芸術家は数多くいた。

ゴッホも、生前は作品が全く売れなかったようだ。したがって、画材を購入するカネはおろか、生活に必要なカネも手に入らなかった。もし画商だった弟のテオが、兄の才能を信じていい絵の具をふんだんに提供し、生活の支援をしなかったら、今日のゴッホは存在しなかっただろう。

モディリアーニも生前は絵が売れなかったという。飲み屋に払うカネがないため、描いた絵を渡していたそうだ。今なら何億円もする絵を惜しげもなく渡していたのだろう。モディリアーニが有名になったのは死後だ(注2)。それにはズボロフスキーというユダヤ人の画商の存在が大きかったようだ。

1958年に作られた「モンパルナスの灯(ひ)」という、ジェラール・フィリップがモディリアーニを演じた映画でこの画商の存在を知った。映画なのでどこまで真実か分からないが、モディリアーニの才能に目を付けたズボロフスキーが、モディリアーニの生活を支援し、作業場所を提供して、その対価として絵をもらったという話だ。ズボロフスキーはこうしてもらい受けた絵で、モディリアーニの死後大儲けしたと言われている。(注4)

たいした作品しか生み出せない芸術家ならどうでもいいが、こういうすぐれた作品を残せる人の場合は、生活に必要なカネを支援するとともに、その芸術家に代って、作品の鑑賞者を集めたり、作品をカネに換えたりする人が別に必要になる。

資金面での支援者、いわゆるパトロンとしては、ミケランジェロはメディチ家の人やローマ法王に制作を依頼され、ベラスケスはフェリペ4世に雇われ、ゴヤはカルロス4世に雇われていた。

そして、宗教が成立するためには、教祖だけでなく伝道者が必要なように、芸術作品を世に広めるためにも伝道者が要る。単に金儲けが目的の人もいるだろうが、動機はどうでもよい。布教に成功することが肝心である。

執行早舟氏は、当時世の中にほとんど知られていなかった戸嶋靖昌を「発見」し、制作環境を用意して制作を依頼した。そして、戸嶋の死後は全作品を引き取って、専用の記念館を設けて誰でも見られるように展示した。戸嶋にとってのパトロンと伝道者の役目を引き受けたのである。

全作品を引き取るといっても、売る気も展示する気もないものなので、倉庫のようなところに埃だらけ、カビだらけになって押し込んであったらしい。保管状態は最悪だったようだ。そのため、ちゃんと展示できるようにするためには、「現代絵画の修復」というあまり例のない作業が必要で、準備に8年以上かかったという(1)。

戸嶋は、真に世話のやける芸術家だったようだ。もし執行氏がいなかったら、戸嶋の作品はどういう運命をたどることになったのだろうか?

日本を捨てて、スペインへ

戸嶋靖昌についてはまだよく分からないことが多い。その一つが、40歳の時に、なぜ突然スペインに行ってしまったのかだ。

私は日本の美術界の実情をほとんど知らないが、大半の画家は、何らかの美術団体に所属し、その団体の審査員の意にかなう絵を毎年応募していれば、段々上位の賞がもらえるようになり、絵の値段も上がっていくようだ。そして最後には、自分自身が審査員になり、勲章がもらえる人も出るようになる。

戸嶋がこういう世界で要領よく出世(?)できる人間ではなかったことは明らかなようだ。そのため、だんだん日本にいるのが息苦しくなり、日本から飛び出す決心をしたのではなかろうか?

執行氏は「戸嶋はね、スペインに、日本を捨てて行ったんですよ」と言っている(2)。その理由は別にして、「日本を捨てて」は実に適切な表現だと思われる。

「日本を捨てる」ことが主目的なら、行き先はスペインでなくてもよかったのかも知れない。

(注1) 訂正: 40年以上 → 20数年 (17/2/24)

(注2) 訂正: 死後10~20年経ってから → 死後 (17/2/24)

(注3) 訂正: 日洋 → 日曜 (17/3/1)

(注4) (訂正前)映画なのでどこまで真実か分からず、また、50年以上も前に観たので記憶も定かでないが、モディリアーニの才能に目を付けたズボロフスキーが、モディリアーニにカネを渡しすぎると全部飲んでしまうため、生活の維持に必要な最低限のカネを渡して絵を描かせ、モディリアーニの死を知るやいなや、作品を二束三文で買い集めて大儲けを計るという話だったと記憶している。

→ (訂正後)映画なのでどこまで真実か分からないが、モディリアーニの才能に目を付けたズボロフスキーが、モディリアーニの生活を支援し、作業場所を提供して、その対価として絵をもらったという話だ。ズボロフスキーはこうしてもらい受けた絵で、モディリアーニの死後大儲けしたと言われている。

(最近インターネットによる配信でこの映画を見直したところ、映画では、モディリアーニの死の直後に絵を大量に買い集めたのは、モレルという別の架空の画商になっている)(20/6/25)

 

[関連記事]

(1) 「孤高のリアリズム -戸嶋靖昌の芸術-」、戸嶋靖昌記念館、2015年11月1日

(2) 甲田洋二、執行早舟、「対談 戸嶋靖昌とその時代 -戦後の武蔵野美術大学-」、戸嶋靖昌記念館、2013年4月

(完) 2017年2月22日

(Rev. 1) 2020年6月25日


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