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60年振りの上高地

酒井 寿紀

もう一度涸沢の絶景を見たい!

私は高校生の時、友達二人と北アルプスの槍ヶ岳と奥穂高に登り、穂高連峰に囲まれた涸沢の景色の素晴らしさに感激した。それ以来、死ぬまでにもう一度その感激を味わいたいものだとずっと思い続けていた。しかしそんな機会はまったく訪れず、気がつくと、もうとてもそんなところには行かれない歳になってしまっていた。

そこで涸沢は諦め、その手前の梓川の河原から北アルプスの山々の景色を眺め、若き日の思い出を少しでもよみがえらせたいと思っていた。それもなかなか実現できなかったが、今から2年前の2018年に、やっと女房と二人で、行くことができた。前に訪れたのは1957年なので61年振りである。

以下はその時の話である。しかし、その前に高校時代の思い出を振り返ってみよう。

高校時代に槍と穂高へ

何せ60年以上も前の話なので、詳しいことは覚えていないが、高校2年の夏休みに、友達二人と北アルプスに行こうという話になった。私は当時高尾山ぐらいしか登ったことがなく、他の二人も似たようなものだった。それがいきなり3,000m級に、しかも子供だけで挑もうというのだから、今思うとずいぶん無茶なことをしたものだと思う。親もよく許したものだと思うが、もうその頃から親の言うことなんか聞かない子になっていたのかも知れない。

1956年2月から1957年8月にかけて、井上靖の「氷壁」という小説が朝日新聞に連載され評判になっていたという。北アルプスを二人で登山中にザイルが切れて一人が転落死したという、実際にあった事件を題材にしたものだった。この連載がきっかけで、北アルプス登山がチョットしたブームになっていたことが我々の登山の背景にあったのかも知れない。

今回の旅行後、井上靖さんの娘さんの浦城いくよさんが書かれた「父 井上靖と私」(1)という本を読んで驚いたことがある。何と我々と同じ1957年の夏に、井上靖さんが「氷壁」の最後の取材のために穂高に登られ、この本の著者も同行したというのだ。穂高岳山荘付近から涸沢と反対側の谷底をのぞき込んだ時の恐ろしさが活き活きと描かれていたことを思い出す。詳しい時期は分からないが、我々が行ったのは7月末頃だと思うので、そんなに違わない時だったのかも知れない。実はこの著者のご主人は私が日立製作所に入社した時の最初の上司で、今でも年に2回お会いしている。 

登山をすると言っても、誰も登山の道具など持っていない。同行の一人のO君の兄さんが登山経験があり、小さいテントと、飯盒などを持っていたので、それを借りて行くことにした。

どうせ登るなら、先がとがっていてどこから見てもすぐ分かる槍ヶ岳がよかろうと、これに挑戦することにした。標高3,180mである。

北アルプスには穂高という山もあり、その中の奥穂高が北アルプスで一番高く、3,190mあるという。これにも登ろうということになった。

最近は記憶力の減退に日々悩まされているが、人間の記憶力とは不思議なもので、これらの山の標高はその時以来忘れたことがない。これらが思い出せなくなったら、私もほぼ終わりなのだろうと思っている。

この二つの山に登るには、横尾というところにテントを張るのが便利なようなので、ここをベースキャンプにすることにした。上高地から入ると、槍ヶ岳へ登る道と穂高へ登る道が分かれる地点だ。

しかし、誰も本格的な山など登ったことがないので、横尾に近い手頃な山に登って足慣らしをするのがよかろうと、前日に蝶ヶ岳という山に登ることにした。

こうして、東京を夜行列車で出かけ、第1日は横尾にテントを張るまで、第2日はそこから蝶ヶ岳往復、第3日は槍ヶ岳往復、第4日は奥穂高往復、そして第5日に下山しようという計画を立てた。

記憶をたどると・・・

この登山の記憶をたどると、今でも忘れられない話がいくつかある。

蝶ヶ岳の帰りだったと思うが、ひどい土砂降りの雨に見舞われ、ほうほうの体でやっと横尾のテントにたどり着いた。全身ずぶ濡れで、下着もすべて着替えないと風邪を引いてしまう。しかし、テントが小さく、三人がやっと入れる大きさだったので、着替えるのが大変だった。三人同時に着替えるだけのスペースがないので、一人ずつ順に着替えた。雨が降っている時、テントの内側に触れると、そこから雨が漏ってくるというので、身をくねらせてテントに触れないようにして、パンツを履き替えるのに苦労したことを懐かしく思い出す。

炊事に便利なように、梓川のすぐそばにテントを張ったため、雨で増水した川の流れがゴーゴーと迫り、テントが流されてしまうのではないかと心配した。

次の日は槍ヶ岳に登った。山歩きに慣れていなかった私は頂上の手前で脳貧血気味になってしまい、槍の肩にある山小屋で休むことにし、その間に残りの二人が槍の頂上に登った。二人が頂上から下りてきた時には私も回復していて、せっかくここまで来たのだから頂上に行ってくると、私は一人で登った。

横尾では、我々のテントの隣で関西の大学の山岳部の学生が大型のテントを張っていた。記憶が定かではないが、阪大の山岳部だったように思う。ここを拠点にして連日登山の訓練をしているようだった。我々の小さいテントを憐れんだのだろうか、夕食後自分達の大きなテントに呼んでくれた。そこではリーダーが中心になって将棋をしていた。同行のN君もその相手をさせられた。

リーダーの人は、大変な話好きで、大声で「男はドキョー、女はアイキョー、生徒はベンキョー」等と、次から次へと調子のいい話をポンポンとしながら、相手を負かせていた。さすがリーダーだけのことはあると感心して見ていた。関西風の芸にたけた親分肌の男だった。

次の日は、何のためだったか忘れてしまったが、N君が一人で先に帰ってしまい、私とO君の二人で奥穂高に登った。この日で忘れがたいのは、何と言っても穂高の山々に囲まれた涸沢の絶景だ。氷河が半球状に削り取った跡の山が、北、西、南にかけて、北穂高、涸沢岳、奥穂高、前穂高と取り囲み、その中にある雪渓から流れ出す川が東の方に流れて梓川にそそぐ。こういう地形をドイツ語で「カール(Kar)」というため、日本でも「涸沢カール」と呼ばれている。この言葉の元はラテン語の「circus(円)」だという。

雪渓には赤、青、黄など、色とりどりのテントが点々としていて、その間を夏スキーを楽しんでいる人が滑っている。「こんな素晴らしいところが日本にもあったのだ!」というのが、私の印象だった。これが60年後に再訪を企てた最大のモチベーションだった。残念ながら、涸沢までは手が(脚が?)届かなかったが・・・

60年振りに穂高を眺める

今回は上高地の帝国ホテルに2泊して、日帰りで簡単に行ける範囲を歩き回ることにした。

旅行から帰っていつものスポーツクラブに行くと、やはりそこに来ているNさんの息子さんが帝国ホテルに勤めていて、夏には毎年上高地のホテルにいたという。そのため、Nさんもよくここに行っていたそうだ。もう90歳過ぎだが、戦争中は海軍の軍艦に乗ってたという、がっしりした大変お元気な方で、戦後は銀座の焼け跡の整理から始めて建設会社を起こされ、長年社長を務められていたという。

息子さんはもうここにはいないとのことだったが、事前に聞いていれば、この人のことを知っている人がいたかも知れないのに残念だった。

   

私は趣味で水彩画の風景を描いている。この旅行中に描いたものに河童橋の絵があり、展覧会に出品した。(左図)

Nさんも絵が趣味で、商売柄、建造物を、柱の1本に至るまでおろそかにしないで正確に描かれる。展覧会に来てくれて、河童橋が懐かしいと、この絵を所望された。

   

上高地に着いた日にホテルの近所を散策した。

60年前に来た時は、山に登るのが目的だったので、この辺から見た山の記憶はあまりない。ただひたすらに歩き続けて通り過ぎただけだったようだ。

今回落ち着いてあたりを眺めて、この辺からでも穂高連峰の峰々がよく見えることをはじめて知った。

右の写真でははっきりしないが、説明によると奥穂高も見えるという。

60年前には、自分の脚でこの山の頂上まで登ったのだ! 我ながら信じがたいことだ。

私が行った ヨーロッパのアルプスでは、3,842mのAigille du Midiの頂上までロープウェイであっという間に行ってしまった。 しかし、これは何もしなくても機械が運んでくれたのだ。それに引き替え、60年前には、自分の脚だけで、あの山の頂上まで登ったのだ。近所のちょっとした坂を登るにもヒーヒー言っている今の私と同じ人間とはとても思えない。

   

明神池までなら何とか行けそう?

今回は涸沢まではとても行けそうもない。では、どこまでなら行けるだろうか?

横尾まではたいした登りではないが、相当な距離があり、そこまで行っても山がそんなによく見えるわけでもない。横尾に行く途中に徳沢園という宿泊施設があるが、そこから見える山も上高地とそんなに変わらないようだ。さらにその手前に明神池という小さな池があって、そこから明神岳や前穂高が見えるという。池があるということは絵の題材としてもよさそうだ。距離的にも、横尾や徳沢園よりずっと近いので、ここまでならなんとか行けそうだと思い、ここに行くことにした。ここも60年前には素通りしたところだ。

明神池には穂高神社の「奥宮」がある。左の写真のように、明神岳をバックにして、「穂高奥宮」と書かれた碑が立っている。

実は私は、上高地に入る前日、安曇野に立ち寄って1泊してきた。そこには穂高神社の「本宮」があった。 そして、60年前に登った奥穂高の山頂には、穂高神社の「嶺宮」があったのだそうだ。私はまったく覚えてないが、山頂まで行ったことは確かである。

穂高神社はこのように3か所に神社があるという。私はこれら3か所のすべてに行ったわけだ。

   

明神岳をバックにして、明神池の絵を描いた。その1枚を右に掲げておく。

以前は原則として、国内でも海外でも、現場で彩色を含めて絵をほぼ完成させていたが、最近は、荷物を減らすためと、女房を待たせる時間を短縮するために、現場では小さなスケッチブックに雑なスケッチを描くだけで、家で大きなスケッチブックに描き直している。

いつも現場では立って描いているので、脚の負担軽減のためにも、現場での時間短縮が必要になってきた。

地面が平らなところでは、脚の負担も限定されるが、少しでも凹凸があるところで長時間じっと立っていると、思いのほか腰に負担がかかることがある。

明神池でも、これでひどい目に合うことになった。

   

救急車要請?

明神池の売店で昼食をとり、スケッチを2~3枚描いて帰途についた。道は登り降りも少なく、杖を持参していたので、初めのうちは林間の山道を快適に歩いていた。しかし、しばらくして、スケッチを描いていた時に踏ん張っていた脚が痛みだした。山道は、登り降りがないといっても石で凹凸があるので、腰にひびく。そして所によっては、倒木などを避けるため迂回路が設けられているが、そういう所ではだいたい登り降りがある。

脚の負担を減らすため、女性にもどんどん抜かれながらゆっくり歩いていた。普通の人の3倍ぐらいかかったかも知れないが、やっと河童橋にたどり着き、そこにベンチがあったので一休みした。あと300mぐらいで上高地のバスターミナルだ。そこまで行けばバスもタクシーもあるので何とでもなる。しかし、河童橋のところには大きなホテルもあるので、ここまでならタクシーも来てくれるだろうと思い、女房にタクシーを呼んできてもらうことにした。

しかし、女房がなかなか戻ってこない。そのうち、変わった小型のクルマに乗ってきて、「タクシーに『バスターミナルの上流方向には1mたりとも行けない』と言われた。『どうしてもクルマが必要な人には、診療所のクルマに来てもらうしかない』と言われたので、来てもらった」と言う。要するにそのクルマは、バスターミナルのところにある東京医科大学の上高地診療所の救急用のクルマだったのだ。

帝国ホテルまではそこから1kmあまりだったので、事情を話して「帝国ホテルまで行ってもらえませんか」と頼んだが、「これに乗った以上、診療所に来てもらうしかない」の一点張りで話にならない。

これはオオゴトになったと困ったが、運転手と話してもらちが明かないので、診療所に向かうことにした。そこの医者に「これは私の持病が再発したものです。ホテルに戻れば鎮痛・消炎剤の貼り薬もあるので、ここで開放してほしい」頼んで、やっと特例として解放してもらうことができた。

少々休んだので、バスターミナルまで歩き、そこからタクシーで帝国ホテルに戻り、事なきを得た。

山歩きの時は帰り道の心配が重要なことが骨身に染みて分かった。

あの鳥の鳴き声は?

旅行していると、聞きなれない鳥の鳴き声を耳にすることがある。そういう時はスマートフォンを鳴き声の方向に向けてビデオ撮影し、帰宅後何の鳥か調べることにしている。鳥の姿が見えなくても、単に音声を録音するだけでなく、ビデオを撮っておけば、あとでどこで鳴いていたかが分かるので便利だ。

大正池に近い林間を歩いている時、シジュウカラに似ているが違う鳥がしきりに鳴いていた。シジュウカラより高音で、早口なのだ。カラの仲間だと思ったが、私には何ガラか分からなかった。

河童橋の近くに上高地ビジターセンターがあり、いろいろ教えてくれると聞いたので、そこへ行き、撮影したビデオを見せて鳴き声を聞いてもらった。これはヒガラだとのことだった。

音声認識の技術がさらに進み、鳥の鳴き声のデータが蓄積されれば、人間に頼らなくてもプログラムで鳴き声の主を判定できるようになるだろう。現在でもそういうソフトがあるが、まだ蓄積データ量が少なすぎて、ほとんど使いものにならない(2)

同様に、花や虫の写真を撮っておけば、その名前をソフトが教えてくれる日がそのうち来るだろう。

大正池がなくなる?

60年前に来た時は大正池を少しは見たのだと思うが、その記憶はほとんどない。やはり、心がその先にあったからだろう。

大正池は1915年(大正4年)の焼岳の噴火時に、堆積物が梓川の流れをせき止めてできたものだという。そのために「大正池」と名付けられた。

上流からの土砂の堆積でその面積は徐々に狭まり、現在の面積は当初の半分以下になったと言われている。噴火時にできた枯れ木の白樺林も現在はほとんど見ることができない。

大正池の縮小を防ぐため毎年浚渫をしているのだそうだ。しかし、今の状況が今後も続くと、いずれ大正池はなくなる恐れがあると言われているようだ。

焼岳をバックにして大正池の風景を1枚描いた。

   

環境保護か観光開発か?

60年振りに上高地に行って、全体としてはあまり変わってないのに驚いた。

松本まで中央本線で行って、そこから昔は松本電鉄で島々まで行った。今は電車会社の名前が「アルピコ交通」に変わり、駅名は「新島々」になったが、基本的には昔とあまり違わない。

そこからバスで上高地のバスターミナルまで行く。途中のトンネルなどは新しくなっているようだが同じルートだ。

昔の記憶はあまりないが、バスターミナルはさすがに広く立派になっている。

バスターミナルに近い河童橋の脇に「五千尺ホテル」がある。これは1950年代には「五千尺旅館」と言っていたようだ。「五千尺」とは当地の標高1,500mを尺貫法で言っているのだ。歌の「アルプス一万尺・・・」のちょうど半分である。

他にも2~3新しい宿泊施設ができているが、新しいホテルが林立しているという状況ではない。

そこから先は梓川に沿って登る林間コースで、昔とほとんど変わらない。 1960年代以降の高度成長期に大変貌を遂げた他の観光地のように、すっかり様変わりしているのではないかと恐れていたが、むしろあまりの変化のなさに驚いた。

何故こうなったのだろうか? 大正池から横尾まではたいした高低差もないので、その気があれば、クルマ用の道路の建設は容易だったろう。しかし実際にはそうはならず、今でもリュックを担いで登るしかない。 

先日テレビで中国の湖南省の武陵源という世界遺産の観光地を紹介していた。高さ330mの絶壁に透明なエレベータが取り付けられて、下界を眺めながら1分で登れるようになったという。

このエレベータを建設したような、観光開発優先の考えの人が日本にもいたら、穂高の屏風岩にもエレベータが建設されたのではなかろうか?

そういうことが起きなかったのは、観光開発より環境保護の方が重要だと考える人が多かったためだと思う。

ややもすると、ビジネス優先で環境保護がないがしろにされがちな現代社会で、上高地の現状は貴重な存在だと思う。

表に出ないで、上高地の環境保護に力を尽くしてきた人々に敬意を表したい。

  

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(1) 浦城いくよ、「父 井上靖と私」、ユーフォーブックス、2016年

(2) 酒井寿紀、「スマートフォンに新時代到来!?」、2018/7/17 

(完) 2020年3月28日


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