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M−240/S−5の思い出
酒 井 寿 紀
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目 次
M−240とは1979年から81年にかけて開発された日立の中型コンピュータで、1970年代後半のM−1XXシリーズに続く、80年代前半のM−2XXシリーズの一員である。M−240は日本国内向け、S−5はそれをベースにしたPCM機で海外向けであった。
M−240も8500、8350等と同様に私にとって思い出深いコンピュータである。特にそのPCM版であるS−5の輸出に当たっては何回もアメリカ、ヨーロッパに出張し、また技術供与がらみで中国、韓国にも出かけた。価格ネゴ等で胃が痛む思いをしたことも一度ならずあったが、今となっては懐かしい思い出である。
未経験故の失敗もずいぶんあったが、これからの人の参考になればと、当時の思い出を記すことにした。これも、「8500の思い出」、「8350の思い出」と同様に、極めて断片的な、また個人的な思い出話であることをご了解頂きたい。
もうかなり年月もたち、手元に資料もほとんどなく、記憶を頼りに書いたので、間違いもあることと思う。もし失礼なことがありましたらご容赦下さい。 誤りに気付いた方がおられましたら、ご連絡頂ければ幸いです。
M−240の検討は1978年に始まった。
当時、M−180等Mシリーズの第1世代の機種の後継機として、M−200H(後のM−280)の開発が当時の「開発部」で進んでいた。M−180等に続き中澤(喜三郎)部長(現:筑波大学)、後には井上(武洋)部長(現:トキコ)が開発を指揮されていた。
関(弘)部長の率いる「CPU設計部」では、当初M−シリーズの開発を担当していなかったが、その後私が中心になってM−150の開発を進め、また77年にM−170、M−160Uの部隊が開発部から移ってきた。
この部隊が中心になってM−240を開発することになった。M−170を担当していた門脇(吉彦)君(現:(ソフト))、源馬(和寿)君、大島(喜男)君、林(孝一)君、M−160Uを担当していた佐藤(忠氏)君、他の皆さんだった。
CPUとチャネルの論理設計はこの部隊が中心となって始まり、後にもともとCPU設計部にいた石橋(陸泰)君他に加わってもらった。やはりもともとCPU設計部にいた吉田(和史)君他にマイクロプログラムを担当してもらい、また今井(康裕)君他にサービスプロセッサを担当してもらうことにして、何とか開発体制を整えることができた。
本格的な製品開発は79年にスタートした。
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汎用コンピュータの中型機はもはやあまり新機能を要求されない時代になっていた。1世代前の上位機の機能を、最新のLSI技術を使っていかに安くコンパクトに実現するかが各社の競争のポイントであった。
LSIにはM−280及びその下位機種用として開発された550ゲートの「21H」と1,500ゲートの「21F」の2種類を使うことにした。ボードの入出力バッファゲート以外は全論理をすべてこれらのLSIで実現し、かつ全LSIの約3分の2により高密度な「21F」を使うことにより、コンパクトで高性能なCPUを実現しようというのがわれわれの狙いであった。
こうしてM−240は日立で始めての「オールLSIコンピュータ」となった。
そのため論理設計の品質、論理の検証が最大の課題であった。
この対策として第一にとったのが「できるだけM−170の論理を流用し、方式的に新しい冒険はなるべく避ける」という方針であった。これは設計者の多くがM−170の経験者だったためでもある。
そしてもう一つの対策が次項の「論理シミュレーション大作戦」だった。
論理検証の終盤戦には、「残っている不良はあと何件ぐらいだろうか?」、「この段階でLSIを作ってしまって、はたして開発プロジェクトを閉じさせることができるだろうか?」という問題に日夜頭を悩ませた。門脇君が、
「オールLSIというのは健康によくない。胃が痛い。胃が痛い」
と毎日のように言っていたのを思い出す。オールLSIのコンピュータの開発にとって、論理の収斂の見極めは極めて重要で、判断を誤れば命取りになる。この点で門脇君の貢献は大きかった。
M−240の論理は、LSI化に伴う変更はあったにせよ、M−170を下敷きにしたものであった。そのため、これはM−170を開発してきた門脇君、源馬君、大島君、他に任せるのがよいと判断した。
問題はオールLSIコンピュータの論理シミュレーションをどうするかだった。
従来は論理シミュレーションである程度論理のデバッグが済むと試作機を組み立て、それに「試験プログラム」をかけて残りの論理不良をたたき出していた。従ってこの「試験プログラム」の実行をシミュレーション段階でできればよいわけである。私が前に開発を担当した8350では、マイクロプログラムのシミュレーションで命令語の試験プログラムをすべて実行し、実機調整での不良をほとんどなくすことに成功していた。今度はこれを論理シミュレーションで実行しようと考えた。
しかし論理シミュレーションの実行時間はマイクロプログラムのシミュレーションにくらべけた違いに時間がかかる。試算したら確か実機の1億倍位の時間になったと思う。それは、実機で1秒かかるテストをシミュレーションで実行すると3年位かかってしまう、ということを意味した。
そういう意味でこれはスマートな解決策というよりも、大型コンピュータのメーカーだから始めてできる、「腕力のものをいわせた物量作戦」であった。
いずれにせよこの「シミュレーション時間の短縮」が重要な課題であった。
8350では試験プログラムをシミュレートする際、 初期値の設定、結果の判定、等のいわゆる「ハウスキーピング部分」も「テスト対象部分」といっしょにシミュレートしていた。これでは時間がかかるため、「テスト対象部分」のみゲートレベルの論理シミュレータで実行し、「ハウスキーピング部分」は命令語レベルでシミュレートすることにした。この命令語レベルのシミュレートのためにMシリーズの命令語の「命令インタープリタ」を新たに開発することにした。その後この「命令インタープリタ」は改良を加えられて今日に至るまで使われているはずである。
次の問題はこの「ハウスキーピング部分」と「テスト対象部分」の境目をどうやって検知するかであった。シミュレーションの度に人手で指定するようなことは何とか避けたかった。知恵のある人がいて、この境目の検知のための特殊な「DIAGNOSE命令」を新設して試験プログラムのこの「境目」に埋め込もうということになった。シミュレーションの制御プログラムがこの命令を検知するとシミュレーションのモードを切り替え、実機ではこの命令を無効にしてしまうというアイディアだった。このアイディアのおかげで今日に至るまで実機用とシミュレーション用の「試験プログラム」が共通になっているはずである。
もう一つの時間短縮策は被テスト部分以外の論理を高級言語で記述する、いわゆるミックスレベル・シミュレーションであった。 言語としてはHPL(日立の論理記述言語)を採用した。 たとえばBPUをテストする時にはHPLで記述したチャネルが使われ、またチャネルをテストする時にはHPLで記述したBPUが使われた。各論理ユニット毎にゲートレベルのファイルとHPL記述のファイルの両方が用意され、必要に応じて組み合わせて使えるようになっていた。このHPLでの記述は「疑似プロシージャ」と呼ばれた。「疑似プロシージャ」とゲートレベルファイルの接続プログラムは「連絡ルーチン」と呼ばれた。
マイクロプログラムのシミュレーションには全論理についてこの「疑似プロシージャ」が使われた。
従来試作機で試験プログラムをかけて不良をたたき出していたものをなんでもシミュレーションでやってみようと挑戦した。たとえば従来チャネルの調整には「IOシミュレータ」と呼ばれていた疑似入出力装置を接続して試験プログラムをかけていた。同じことをシミュレーションで実行するために「IOシミュレータ」の「疑似プロシージャ」を作成した。
また実機では実行困難だがシミュレーションなら実行可能なことにも挑戦した。指定した条件で疑似障害を発生させることによりRAS機能の検証をしたのがこの例である。
このシミュレーションシステムの構築はわれわれのCPU設計部の他、並行してM−260の開発を進めていた若井(勝郎)さん他の開発部の人たち、三善(正之)さん他のDA設計部の論理シミュレーションの部隊、加藤(現:広瀬善太郎)さん他の検査部の試験プログラムのグループに知恵を出し合って進めてもらった。
私はもっぱら「けしかけ役」だった。
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こうして道具だてがそろうとシミュレーションの実行にとりかかった。80年9月にスタートし、81年7月の試作機の組立完了までにM−180換算で約9,000時間のマシンタイムを使った。これはM−180を約1年間ぶっ通しで使ったことになる。ピークの81年4月には、この月だけで2,860時間使った。これは4台のM−180をM−240の論理シミュレーションのために占有したことになる。実際には開発が終わったばかりのM−200Hも動員して使った。このマシンタイムの大半は試験プログラムのシミュレーションのために使われたものであった。
論理シミュレーション全体で摘出した不良のうち試験プログラムのシミュレーションで摘出したものは約16%であった。試験プログラムのシミュレーションは摘出不良1件につきいかに長時間のマシンタイムを要しているかが分かる。
しかしこの、ある意味では大変野蛮な、「試験プログラムのよるシミュレーション」なしにはM−240の開発プロジェクトは閉じなかっただろう。「このシミュレーションを実施した範囲については、実機では必ず一発で試験プログラムが通るはずだ」という安心感だけでも非常に貴重であった。これがなかったら、まだLSIの製造にかかる前の81年2月に製品発表をするなどということはとても考えられなかったと思う。
それでも約70件の論理不良は残り、新設計のLSI137種中8種類を再生した。それ以外の不良は何とかプリント基板の変更で対策することができた。
当時の率直な感想は、「これだけ力を入れたにも関わらずシミュレーションで取りきれなかった不良が予想以上に多かった」ということと、「オールLSIにもかかわらずプリント基板の変更で対策できた不良が意外に多かった」ということであった。
LSIの再製が若干あったにせよ、基本機能の不良ではなく、実機調整の継続が妨げられるようなことがなかったのが試験プログラムを使ったシミュレーションの最大の成果であった。
こうして大型コンピュータを湯水のように使ってシミュレーションを実行する文化がスタートした。その後論理シミュレーションにはスーパーコンピュータが使われるようになっった。
こうして81年に入りほぼ製品開発の目途が立つと、いよいよ販売の準備にとりかかった。国内向けのMシリーズとして販売するのはもちろんであるが、従来と違ったのは海外向けのPCM機としての商売の立ち上げをほぼ同時に進めた点であった。
当時のIBMの汎用コンピュータは下位モデルの4341と上位モデルの3031の間がかなり離れており、M−240はそのギャップにすっぽりとはまる位置づけにあった。そういう意味でギャップフィラー(gap filler)と呼ばれ、この状況を生かしてIBMのマーケットに攻め込もうという作戦を立てた。
当時の神奈川工場では、大型機のS−6(M−180のPCM版)、S−8(M−200HのPCM版)がPCMのマーケットで成功を収めつつあった。大型機に続いて中型機のPCMも始めようということであった。
M−240については開発にかかる前から輸出の要求が来ていた。そのひとつは西独のBASF社からのものだった。
BASFはもともと化学関係のメーカだったが、磁気テープなどの記憶媒体にも手を広げていた。この関連で磁気ディスク装置のPCM機の商売を始めていた。それはIBMの3340型ディスク装置のPCM機の販売で、これは日立と富士通の合弁会社である「日本周辺機」が開発・生産していたものであった。この販売チャネルは当時の日本周辺機の橋本(一二)社長(元:日立特別顧問)が自ら開拓されたものであった。
橋本さんはご自身で何回もドイツを訪問され、BASF社の幹部と親しくされていた。BASF社から夕食に招待された際、ローレライをドイツ語で3番まで歌って大喝采を博したとのことであった。また鎌倉のご自宅にBASF社の幹部の方をお泊めしたことがあるともお聞きした。
BASFはさらにこの事業をCPUのPCMにまで拡大したいと考えていた。BASFのPCM事業担当の人々が日立からのPCM機調達の打診のため神奈川工場を訪れたのは78年12月のことであった。ウール(Uhl)博士、ヨネシャイト(Jonescheit)さん、ウェーバー(Weber)さん、ホフマン(Hoffmann)さん、レティッヒ(Rettig)さんという、その後ずっと一緒に仕事をすることになった人々であった。
BASFは中型クラスを希望していたため、当時私が担当していたM−150等の説明をしたが、もう既ににM−240等、次世代の製品の開発にかかっており、これから商売を立ちあげるのに現行製品では競合力が問題ということで、本格的な商売の開始はM−240の完成を待つことになった。とりあえずM−170のPCM版(B−17)でPCMのビジネスをスタートし、本格的な商売の開始に備えることになった。
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M−240のPCM版はS−5と呼ばれることになった。S−5についてのBASFとの打ち合わせは81年6月にスタートした。BASF側の仕様打ち合わせの直接の担当者はノルウェー人のハウゲン(Haugen)さんだった。保守についてはレティヒ(Rettig)さんが担当し、ソフト関係の担当はバンゼ(Banze)さんだった。
日立サイドは私の他B−17以来BASF関係の仕事に従事していた松岡(邦夫)君がこの仕事にあたった。二人で何回もBASFの事務所があるドイツのマンハイムに出張した。
BASFとの仕様打ち合わせでの最大の問題は下位モデルをどうするかだった。国内向けと海外の各パートナー向けで仕様が異なると、生産が大変なので、できるだけ仕様をあわせたかった。色々状況を調べた結果、基本モデルである2.2MIPSのM−240H/S−5をベースにして、1.5MIPSの下位モデルをM−240D/S−5Dという名前で出すことにした。そしてこの位置づけにあわせてメモリ容量、チャネル数などを決めた。その後このS−5DはNAS、オリベッティでも採用され、機種統一を図ることができた。
この仕様打ち合わせの主な相手はハウゲンさんだった。延々と主張をまくしたてられ、さすが自己主張の国の人と感心した。調停役はいつも日製産業の宮本さんだった。ある時宮本さんに、「ハウゲンさんのお宅へ言ったら、ハウゲンさんが議論に強い訳が分かった。奥さんはさらにうわ手で、奥さんに鍛えられている」と言われ、なるほどと納得した。
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マンハイムには何回も出張した。いつも日製産業の人には大変お世話になった。最初の頃は加田さんが駐在していた。その後山東さん、桑原さんにお世話になった。日本から同行してもらったのはいつも宮本さんだった。現地に駐在していた日立電子サービスの向川さんにもお世話になった。休みの日に彼のアウディでハイデルベルクを案内してもらったこともあった。
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BASFのS−5はスウェーデン他のヨーロッパ諸国、南アフリカ、南米などにも出荷された。南アフリカの顧客が神奈川工場に来たとき、
「IBMの機械は据えつけが終わってもなかなか動かないのにS−5は1日で動いた」
と感激されこっちがびっくりした。
広い世界の隅々にまで高品質の製品を供給するのは大変なことで、他社の製品に対する不満が大きいことを再認識した。海外市場進出の際の品質の重要性を改めて痛感した。
帰りがけに、
「今度は私の金鉱を見に来なさい」と言われた。
当面の目標の200台の販売を達成した時に、BASFから私に感謝の盾と昔のダイムラーの自動車の模型が送られた。先日神奈川工場の小川部長のところでまだその盾が飾れているのを見て非常に懐かしく思った。
BASFのヨーロッパ中心のマーケットは何と言っても量に限界があった。やはり何としてもNational Advanced Systems(NAS)を通じて米国市場に参入を図りたかった。NAS自身も中型機に興味を持っていた。
NASの前身のITELのクラーク(John Clark)社長以下が始めて神奈川工場を訪れたのは77年2月のことだった。この時は、輸出を開始するなら先ず手頃な中型機からと、当時私が担当していた中型機のM−150等を説明した。しかし先方の強い希望で大型機のM−180が最初のPCM機として採用されることになった。
その後ITELのビジネスはNASに引き継がれた。
NASは中型機のPCMについて問題を抱えていた。NAS自身が親会社のナショナル・セミコンダクタのICを使って中型機の独自開発を進めていて、これを販売したいと考えていたのである。この製品はNASの内部で「Shark(鮫)」と呼ばれていた。
この「鮫」を何とかして食ってやろう、というのがわれわれの当初からの狙いであった。「Shark」はLSIでなく、通常のICを使ったもので、オールLSIのS−5に対し、性能、大きさ、電力の面で相当な差があり、結局NASは「Shark」の製品化をあきらめてS−5を採用することになった。
NASとの打ち合わせは81年8月から始まった。
NASでの仕様打ち合わせのひとつの問題はS−5の上位機種をどうやって実現するかだった。これはDOS系OS中心のヨーロッパと違いアメリカではこのクラスでも上位のMVSが主体となるため、少しでも性能が高い機種がほしいという事情からだった。結局当時開発していた64ビットの高速演算機構を標準でつけることによって上位機種を実現することにした。
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当初のNASのS−5担当はイラン人のサファイ(Barry Saffaie)さん、ギャロップス(Jim Gallops)さん、ハイチ生まれのカデット(Raymond Cadet)さん、香港生まれで日本にも住んでいたため日本語がペラペラのソン(Ning Sung)さん等であった。まことに西海岸の会社らしい国際色豊かなメンバーであった。
82年6月に「IBM事件」が起き、しばらく打ち合わせもできなくなってしまったが、幸いにしてもうS−5の出荷が始まっていた。
その後は、ターナー(David Turner)さん、ドゥーディー(James Doody)さん、ギャロップス(Jim Gallops)さん等がわれわれの主な相手となった。
彼らが神奈川工場へ来たときの会食はほとんど「陣屋」の「お狩場焼き」だった。そのあと陣屋のカラオケクラブにもよく行った。
「ここではみんな歌を歌うんだ」
と勧めても彼らは絶対に歌わなかった。そのかわりダンスはよくしてもらった。大男のドゥーディーさんがフロア狭しとジルバを踊りまくる姿は見物だった。相手はいつもケイコさんだった。さすが本場のジルバで、日本人とはけた違いの激しさに、ケイコさんは息が切れると悲鳴を上げ、私はいつも、
「済まないねえ」と言っていた。
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このほかフェアレディーの新車を得意げに乗り回していたコックス(Bill Cox)さん、グローブのように大きい手をしたエドワーズ(Ronald Edwards)さん等にも仕事で色々世話になったり、カリフォルニア風サンドイッチをごちそうになったりした。
BASF、NASに続いて、既に日立の大型機を扱っていたオリベッティにもS−5の売り込みを図った。
オリベッティの事務所は始めの頃はローマにあり、その後ミラノに移った。
交渉の相手は最初の頃は主としてチェローネ(Celone)さんで、チェローネさんが会社を辞めてからはもっぱらブファッキ(Bufacchi)さんだった。その他保守関係のまとめのダンダロ(Dandaro)さん、保守の実務担当のサルヴィ(Salvi)さんにもお世話になった。日本からは輸出営業の田尻さんに同行してもらうことが多く、現地では日立ヨーロッパの清水さん、日立電子サービスの中城さん等にサポートしてもらった。
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オリベッティの人達は「契約」とか「前に決めたこと」よりも「現実」を優先する傾向があった。「ルール」よりも「結果的によければいいじゃないか」という感じであった。「理屈はそうかも知れないが、現に困ってるんだから何とかしてくれ」というような話が多かった。
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彼らが日本へ来ると、やはりいつも「陣屋」で食事をした。冬場にはみんなにハッピを着てもらって餅つきをしてもらった。
ある時ブファッキさんが、
「この前来たときカラオケに連れていってもらったが、歌える歌がなかったので、今回は飛行機に乗る前に歌の本を買ってきた」
と言う。
「それじゃあこれから行こう」
とカラオケへ行ったが、イタリアの歌のテープ等ない。仕方がないから、
「今日はノーミュージックで歌って下さい」
と歌ってもらったが全然歌にならない。
「それじゃあ今日はダンスにして下さい」
と、いつものケイコさんに相手をしてもらって踊ってもらった。
そのあとしばらくしてブファッキさんが入り口のところでケイコさんに何やら話しかけている。どうも様子がおかしいので行ってみると、ブファッキさんが、
「もう一度踊って下さい」
と一生懸命頼んでいるのだが、言葉が通じず、ケイコさんが、
「トイレはあっちです」
と教えているところだった。
この話はいまだにケイコさんと会う度に思い出しては大笑いになる。
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オリベッティのマーケットはイタリア国内だけだったが、さすがにオリベッティの営業力は強く、S−5はかなり売れた。彼らの営業活動は、観光をかねて顧客を日本迄連れてきて注文を決めさせるというケースが多く、神奈川工場にも何回か観光バスで乗り付けて来た。挨拶に引っぱり出されると、 “Buon Giorno! Signore e Signori!” だけイタリア語で言い、あとは英語で話して、オリベッティの営業のノヴェッリ(Novelli)さん等に通訳してもらった。挨拶だけでもイタリア語で言うとみんな喜んでいた。
BASF、NAS、オリベッティへのS−5の出荷は82年6〜9月から始まり、その後順調に台数を伸ばしていった。競合はIBMの4300シリーズのみで、このクラスのPCM機は全世界でS−5だけであった。
その後、84年の9月に突然西独ニクスドルフ社の人が日立を訪れた。PCM事業の総責任者のワグナー(Wagner)さんと、マーケティングの責任者のウェブカ(Woebker)さん、そしてニクスドルフ・ジャパンのマクファトリッジ(McFatridge)社長だった。当社は事業部の浦城さんと私他で対応した。
ニクスドルフ社は当時イスラエルの会社が開発したPCMの小型機を西ドイツで生産し販売しているとのことだった。その後継機を捜すのが彼らの来訪の目的だった。
彼らの商売がBASF等と違うのは、単にCPU単体を販売するのではなく、業務用のソフトウェア、周辺装置を含めて、ターンキーのシステムとして販売している点であった。
調べてみると、ニクスドルフの持っているソフトウェアは金融業界等でかなりの顧客を持っていることが分かった。単なるハードウェアの商売でなく、システムとして高付加価値の商売を狙っている点に魅力を感じた。中小型機のPCMビジネスのひとつの方向ではないかと思った。何よりもわれわれとしては販路拡大につながる話であった。
事業部、営業とも相談し、この話を進めよう、ということになった。
先ず現地を見てみようということで、84年12月にミュンヘンのニクスドルフの事務所と北ドイツのパダボーンにある工場を訪問した。この時は松岡君に同行してもらった。
パダボーンはニクスドルフの創業者のニクスドルフ博士の出生地であった。小さな田舎町で、ニクスドルフの工場以外にはたいしたものはないようだった。デュッセルドルフから車で確か2時間位かかったと思う。工場をイーメルス(Ihmels)さんに案内してもらった。工場ではイスラエルで開発されたというコンピュータを生産しており、非常にきれいできちんとしているという印象を受けた。
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ニクスドルフとの商売を始めるにあたってはいくつかの大きい問題があった。
先ず第一はS−5がニクスドルフ社のマーケットに対し若干大きすぎることだった。しかし下位機種のM−220のPCM版を開発するには時間と費用がかかるため、当面S−5を使用し、次期製品につなぐことを提案した。
もう一つの問題は、小型機用の内蔵型の入出力制御機構をどうやって実現するかだった。S−5は内蔵型の入出力制御機構を持っていなかった。85年2月に木下(理)君にミュンヘンに同行してもらったりして色々検討したが、現実的な解決策が見つからず、これも本格的な解決は次期機種に先送りし、当面は外付けの入出力装置で対応してもらうことにした。
さらに厄介な問題は、BASFとの関係をどうするかだった。だいぶもめたが、結局最終的にはBASF経由で購入してもらうことになった。彼らは、イスラエル製のコンピュータの後継機について、他に選択の道が見つからず、解決を急いでいた。
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ワグナーさんは元ドイツのIBMにいたという人で、音楽好きで、日本へ来るとCDを捜していた。当時はドイツではまだあまり出回ってなかったのだと思う。日本では見たこともない大型のポルシェに乗っていて、昼食に行くとき等乗せてもらった。ミュンヘンの日本料理屋に連れて行ってもらった時、入口に大きい焼き物の狸が置いてあった。
「彼は幸運をもたらすと日本では言われている」
と私が言うと、ワグナーさんはすかさず、
「じゃあ私のオフィスに置いておかなくちゃ」
と言った。
イーメルスさんの仕事はイスラエル製のコンピュータの評価が中心だったようだ。ミュンヘンで朝から会議を開いたとき、400キロ以上離れているパダボーンから車をとばしてきたのには驚いた。
「時速190キロで走っているポルシェの後ろをずっとつけてきた」
と言っていた。しかしドイツではあまり驚くような話ではないようだった。
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こうしてニクスドルフへのS−5の出荷が始まった。
後日談になるが、私はその後86年に別の部へ移り、より小型のK−2(M−620/630)の開発に従事することになった。これこそニクスドルフが望んでいたクラスの機種だった。87年になり開発の目途が立つと、再度ニクスドルフ社を訪問しK−2のPCM化について相談した。問題はやはり内蔵型の制御機構であった。われわれの力だけでは難しいことが分かったので、アメリカの数社に当たってみたが結果は芳しくなかった。
こうして欧米の企業に接触しているうちに、どうも世の中が大きく変わりつつあると肌で感じた。87年の末からRISCの文献を調べ直し、これからの小型機の世界はRISCとUNIXで大きく変わることを確信し、88年から本格的にRISCとサーバの検討を始めた。もはや小型機のPCMの時代ではないと、K−2のPCM化の検討を打ち切った。
一方ニクスドルフ社の方も創業者のハインツ・ニクスドルフが亡くなってから急速におかしくなり、最終的にシーメンスに合併されることになった。
こうしてS−5はPCMの中型機として世界各地に出荷された。アメリカ、ヨーロッパ各国の他、オーストラリア、南アフリカ、南米等でも使われた。
他社でこのクラスのPCMの商売をしているところはなかった。もっと下のクラスには数社あったが、商売はうまくいってなかったようだ。そういう意味ではS−5は中小型のPCMとしては世界唯一の成功事例と言えるのではないかと思う。
そうなり得たのは、いろいろあるが、何と言っても「オールLSIによる小型、高性能の実現」にこだわってきたからだと思う。少なくとも初期にはIBMに比べこの点で大きい差をつけることができた。
そしてこれの実現を可能にしたのが、神奈川工場のDAとテストプログラムの技術をフルに活用した「論理検証技術」だった。これがなければ絶対にM−240もS−5も日の目を見ることはなかった。
S−5の成功は、60年代以降、「IBMに追いつき追い越せ」と一直線に頑張ってきた成果の一つであった。
しかし80年代迄でコンピュータの世界は大きく変わってしまった。ドイツのアウトバーンを走るように、一直線の道をアクセルを力一杯踏んで走ればよい時代は80年代で終わった。
これからの道は、山あり、谷あり、ヘアピンカーブあり、三叉路ありで、しかも濃霧に覆われている。
今われわれに求められているのは、われわれ自身に新しい目標を課すことなのだと思う。
PCMの仕事を始めて、何回もヨーロッパ、アメリカへ出張し、仕事以外でもいろいろ貴重な体験をした。この仕事以外の体験を、別の冊子「ヨーロッパの休日」に記した。またどういう訳か、当時の海外出張はトラブルの連続だった。その話を「三度あることは四度ある…トラブル続きの海外出張」に記した。併せてご一読願えれば幸いである。
(完)
1996年1月 (第1版)
1998年4月 (第2版)
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